第5話
「……はあぁ」
これからの出来事を考えては、大きなため息が口からこぼれる。俯くと視界に入ったのは、今までに見たことがないくらいの上等で、少し露出が多めな服。
つまり、今日は――。
「初夜、か……」
この世界にもその習慣があるとは思っていなかった。いつかはそういうことをしないといけないことは理解していたけど、まさか結婚してすぐの夜にとは……。王子のこともろくに知らないのに。
いや、逆に考えればこれで女の子を身籠れば、聖女の任は彼女に移行され私はお役御免になる……?
第三王子と言っていたし、男児を産む必要もないだろうし、一度の行為で済むならそれに越したことはない。
「……とは言え……」
そんな運よく身籠るだろうか……。
そう思いながらお腹を一度さすったその時、部屋の扉が叩かれた。びくりと肩が跳ねる。
来た。来てしまった。ベッドから慌てて立ち上がって、震える声でどうぞ、と言うと、ゆっくりと扉が開いていく。
「……待たせてしまい、すみません」
「い、いえいえいえいえ! そんな……」
「入ってもよろしいでしょうか?」
「も、もちろんです……!」
まだ心の準備もできていなのに、招き入れてしまった。……心の準備なんて、きっといつまで経ってもできないだろうけど。
少し離れたところで立ったまま、横目で彼がベッドに腰掛けるのを確認する。これから起こることに震えているのを隠すように汗で湿った両手をぎゅっと組む。
「……フラヴィアさん?」
「っ!」
なかなか近寄らないのを訝しんだのか、彼に名前を呼ばれ、身体がびくっとする。傍に行かないと。横に座って、それで、その後、は……。
「……大丈夫ですか?」
「だい、じょぶ、です……」
「全く大丈夫じゃなさそうですね……すぐにどうこうするわけではないので、一度座ってください。顔色が悪いですよ」
「……は、い」
彼に促される形でベッドまでよたよたと歩き、ゆっくりと腰掛ける。緊張と嫌悪感と、それから、それから。いろいろな感情がごちゃ混ぜになって、自分で身体の制御ができなくなる。
止める術を会得していた、聖女の力でさえも。
「? なにか落ちて――」
「! あ、あ……」
「……少し、お手を見せてもらいますね」
「だ、だめ……っ!」
「これは……」
せっかく、ここまで隠してきたのに。あとは、女の子を身籠れば、すべてが終わるはずだったのに。
違う意味で、すべてが終わった。
目の前が真っ暗になる。
私はこれからどうなるんだろう。ルノーヴレに送り返されるのだろうか。それならまだいいけど、ネスムンを騙したとして殺されるかもしれない。……男性とそういう行為をしなければいけないくらいなら、殺された方がマシかもしれない。
もう、どうなってもいいや。そもそも、私にそれを決める権利はないのだから。
「……アさん、フラヴィアさん、聞こえていますか?」
「あっ……ごめんなさい。全部秘密にしていて、こんな、使えない力で、使えない私で、ごめんなさい」
「やはり、これが貴女の聖女としての力なんですね?」
「……はい、ごめんなさい……」
「この小さいものが、何かご存知ですか?」
「え……?」
てっきり罵られると思った。騙しやがってと言われると思った。身体を痛めつけられると思った。
これが何か知っているか、なんて聞いてきたのがあまりにも突拍子もなかったので、思わず伏せていた顔を上げて彼の方を見る。相変わらず長い前髪で表情は見えないが、きっと真剣に聞いているに違いない。これ以上、嘘を重ねても意味がないだろう。
「知って、います……」
「なんですか?」
「え、っと……、食べ物で、米というもので……」
「コメ、ですか。ルノーヴレではそう呼ばれているのでしょうか」
「……ルノーヴレでは?」
まるで、ネスムンでは違う呼び名があるような言い方に引っ掛かって、聞き返したら彼は不思議そうに私の方を見つめる。
「? ネスムンでは、オリーソと呼ばれていますね」
「え、え? これ、知っているんですか?」
「ええ。ネスムンと、周辺の小民族の主食です。……そういえば、ルノーヴレでは食べているところを見たことがありませんね」
彼の言葉に脳内が疑問符で埋め尽くされていく。お米はこの世界にないもののはず、だった。ルノーヴレの王宮にいる誰もが知らなかったから。
でも、今目の前にいる彼は知っているどころか、主食にしていると言う。
限られた地域でしか食べられていないとしても、隣国の主食すら大国のルノーヴレが知らなかったということ……?
……あの国なら、小国の食文化のことなんか目に入っていないのも納得できるような気がする。
「あ、止まった。……もしかして、オリーソ、ではなくコメは際限なく出せますか?」
「わ、分かりません……使えない力なので、そういう検証をしたことがなく……」
「使えない力? とんでもない!」
「そんな……今までの聖女に比べたら、こんなものしか出せないので、使えないとずっと言われてきて……」
「……汎用的な治癒能力と比較したら、確かに限定的ではありますが、少なくとも我が国では十分重宝されますよ」
彼が言うには、ネスムンでお米の栽培もしているが、天候に左右されやすく栽培が難しいらしい。たくさん収穫できる年なんてほとんどなく、メジャーな主食にもかかわらず、まったく食べられない年もあるという。
そのため、日々の食事はルノーヴレからパンのようなものを輸入していて、その輸入代を希少な資源を輸出することで賄っているが、収穫がほぼない場合は赤字なことが多いらしい。
「……なので、フラヴィアさんの力があれば、輸入の量を減らしてできるだけ支出を抑えることができるかもしれません」
「で、でも、婚約の条件は、希少な資源を優先的に輸出することで、私の、こんな力とじゃ、釣り合わない、と思います……」
「資源が尽きたら、そうなりますね。ですが、しばらく、少なくともこれから300年ほどは尽きることがないと、専門家の分析結果が出ています」
「300年!?」
とてつもない数字が出てきて、思わず大きな声を出してしまった。ハッとして、何事もなかったように口元を押さえるが、王子の口角が少し上がっているような気がする。
「す、すみません……」
「いえ……なので、貴女の力は、使えない力なんかではありません」
「……」
使えないと、今も、昔も、貶されていたから、そうすぐには彼の言葉を信じ込むことはできない。
できないけど、彼が、他の男性とは少し違うことだけは、なんとなく分かる気がする。……多分。
いろいろなことが起きて、緊張が解けてしまったのか、不意に私のお腹の音が部屋に響いた。
「っ!」
「……式の食べ物にほとんど手をつけてませんでしたね」
「す、すみません! こんな、はしたない……!」
「そんなことは……あ、そうだ。少しついてきてもらえますか?」
「は、はい」
扉の方に行く彼の後ろをついて歩く。どこに行くのだろう。そう考えていると、扉の前で彼が一時停止する。どうしたのだろう、と、顔を上げると、少し高い位置から私を見つめていた。何か粗相をしてしまっただろうか。びくびくと怯えていると、肩にふわっと服がかけられた。彼が今の今まで着ていた上着だった。
「あ、あの……?」
「……いや、そんな格好で歩いていたら、風邪を引くかもしれないので、着ていてください」
「ですが……」
「体調を崩して、力が出せなくなると困りますので」
そう言われると従うしかなくなってしまう。肩の上からかかっているのが落ちないように、身体の内側にぎゅっと手繰り寄せて、どこかへと向かう彼の後をついて行った。