失恋したら公園のベンチでとりとねこのぬいぐるみに慰められた話。
夜の公園。
その外れの暗く人気のないベンチに、アスミはぺたりと腰を下ろした。
今日、彼氏のケンジから突然別れを告げられた。
そんな前触れ、全然なかったのに。
結婚だって考えていたのに。
大事な話があるって言うから、そっちの話かと期待していたのに。
一生懸命定時で仕事を終わらせて駆けつけたアスミに、ケンジはものすごく言いにくそうに、他に好きな人ができた、と言った。
くやしい。
悲しい。
くやしい。悲しい。やっぱりくやしい。
高校時代に二股かけられたときのトラウマが蘇る。
なんなの、男って。
結局みんな裏切るじゃん。
絶滅すればいいのに。
でも好きだ。
まだケンジのことが好きだ。
今日の今日まで普通に好きだったんだから、そんな急に嫌いになれない。
だからくやしい。だから悲しい。
だったら、もっと取り縋って大騒ぎすればよかった。
無様に泣き喚けばよかった。
全てが終わってしまった今なら、そんなことも思い付くのに。
その場のアスミは、頭の中が真っ白になって、とにかくその場をどうにか取り繕わなきゃ、なんていうつまらない見栄だけが働いて、それで「うん、分かった」とだけ言った。
ケンジは拍子抜けしたようなほっとしたような、何とも言えない顔をしていた。
ああ。
思い出したらやっぱりくやしい。
ケンジの部屋に乗り込んで、今までにもらったプレゼント全部叩き返して、それからお返しに家具を全部叩き壊して帰ってこようか。
好きになったっていう女のことを調べて、ケンジの嫌なところ全部メールで送ってやろうか。
そういうあれこれを、実行できる人が羨ましい。
そんなことをする度胸がないことは自分でよく分かっている。
それがくやしくて悲しい。
ああ。これからもずうっとこんなことが続くんだろうか。
誰かを好きになって、それから裏切られて。また誰かを好きになって、また裏切られて。
いやだな。そんな人生、いやだな。
「もういっそ死んじゃいたい。誰か私を殺してよ」
そう呟いたときだった。
「おいおい」
突然、ベンチから声がした。
「やけに不穏なことを言ってるじゃないか」
ベンチが喋った。
「えっ」
「やっぱり夜になると、昼間とは趣きが変わるんですねえ」
また別の声がする。
「え、えっ」
突然のことにうろたえたアスミは、見付けてしまった。
喋っていたのは、ベンチではなかった。
ベンチに座るアスミのすぐ脇に、ピンクのポシェットが転がっている。
その横に、白いとりと三毛ねこの、まぬけな顔のぬいぐるみがふたつ、ぽこりと置かれていた。
どっちも片手に乗るくらいのサイズ。
それがふこふこと動きながら、喋っているのだ。
「朝までここにいるのは、だいぶ刺激が強いな」
とりが言う。
「この堅いベンチで寝られるかなあ」
と、ねこが言う。
「ああ、もう」
アスミは天を仰いだ。
「私、頭までおかしくなっちゃった。ぬいぐるみが言葉喋ってるよ」
「失礼な」
アスミの隣でとりが手羽を振り上げる。
「名も知らぬ女よ。お前の頭がおかしいのとぼくらが言葉をしゃべることとは、何の関係もないぞ」
「ぬいぐるみが何か言ってる」
無性におかしくなって、天を仰いだままアスミは、あはは、と乾いた笑いを漏らした。その拍子に、ぽろりと涙がこぼれる。
「もうやだ、こんな人生」
「あーあ。とりさんが泣かせたー」
ねこがふこふこと身体を揺らしながらとりを指差すと、とりは心外だと言わんばかりに手羽をぶんぶんと振りまわした。
「ぼくは何もしてないぞ。勝手にこの女が泣いたんだ」
「なーかせたー、とりさんがなーかせたー」
楽しそうに歌いながらねこがくるくると回る。とりは「むう」と唸って手羽をふこりと上げた。
「しかたない。それならなぜ死にたいのか聞いてやろうじゃないか」
とりはアスミの脇まですすすと寄ってくると、ビーズの目で見上げてきた。
「さあ女よ、話すがいい」
「話せって言われても」
アスミは涙を指で拭って鼻をすすった。
「彼氏と別れただけだよ。ぬいぐるみには関係ない」
「失恋!」
大声をあげたのはねこのほうだった。
「やっぱり夜は大人の時間!」
興奮して両腕を上げて、ひゃー、とか言っている。
「うるさいぞ、ねこくん。まずはじっくりと話を聞こうじゃないか」
とりのほうは何だか妙に落ち着き払って手羽をふこふこと振る。
「そうか、彼氏と別れたのか。理由は何だね」
「向こうに、他に好きな人ができたんだって」
自分で口に出すと、すごく惨めになってきて、また涙があふれてきた。
「言わせないでよ、こんなこと」
「言わせなきゃぼくには分からないだろう」
とりは偉そうに言って、それからふこりと頷いた。
「なるほど、それなら簡単だ。女よ。お前も他に好きな人を作ればいい」
「女って呼ばないでよ。私、アスミっていう名前があるんですけど」
「そうか、ならアスミ」
「やっぱりやだ。その呼び方、ケンジのこと思い出しちゃうじゃん」
この年になると、家族や地元の幼馴染を除いたら、下の名前で呼び捨てにするのなんて彼氏くらいだ。
アスミ、なんて呼ばれると、さっき聞いたケンジの声が蘇ってくる。
また悲しさがあふれてくる。
アスミが嗚咽しながら両手で顔を覆うと、とりは「アスミはめんどくさい女だな」と言った。
「分かってるよ、めんどくさいんだよ。だからケンジも逃げたんだよ」
「じゃあきっと別れ話もこじれたんだな」
とりの言葉にアスミはぐっと詰まった。
ずずっと盛大に鼻をすすり、アスミは顔を上げてスカートの裾をぎゅっと掴んだ。
「そういうときは何にも言えないの。物わかりのいい女みたいに頷いちゃうの。それで後からこうやって、ごちゃごちゃごちゃごちゃ悔やんで恨んで泣くの。その場で言っちゃえばちょっとはすっきりするのに。そういうところがめんどくさいし自分でも大っ嫌いなの!」
「ふうむ。めんどくさいかくさくないかで言えば」
とりはねこを振り返る。
「めんどくさいな、ねこくん」
「めんどくさいよー」
ベンチの上でくるくる回っていたねこは、何の躊躇もせずにそう答えた。
「でもやさしいんだねー」
「そうだな。やさしいな」
とりも頷く。アスミは思わずかっとなった。
「何がよ! 何が優しいのよ! 分かったようなこと言わないでよ!」
「だって何も言わなかったんだろう」
激高するアスミにまるで驚きもせず、とりはぬいぐるみのくせにやけに落ち着き払った態度でそう言った。
「どうしてケンジに何も言わなかったんだ」
「だって、自分がもっと惨めになるだけだから。自分が傷つくのが怖いから」
「ケンジに何か言うと、どうしてアスミが傷つくんだ」
「だって、そんなの、だって」
そこまで言葉にしようとしたことはなかった。
それでも偉そうなとりに言い返そうと、アスミは言葉を探す。
「騒いだらケンジだって困るし、私も興奮してケンジにひどいこと言うかもしれないし、そんなことしたってケンジは戻ってこないし、ただケンジを傷つけるだけで私もつらくなるばっかりで惨めじゃない」
「ほらみろ」
とりはふこりと頷いた。
「どうせ別れるなら、こっちだって相手のことを思いっきり傷つけてやる。そう思う人間もたくさんいるのに、アスミはそう思わなかった。人が傷つくことで自分も傷ついてしまう人間だからだ。そういうのをやさしい人間というんだ。こんなにかわいいぬいぐるみでもそれくらいのことは知ってるぞ」
「優しくなんかないよ」
そう言いながら、それでも涙があふれてきてアスミはまた両手で顔を覆った。
「こんなときにそんなこと言わないでよ。ぬいぐるみのくせに」
何なんだろう、これ。
どうして私、こんなところで変なぬいぐるみに泣かされてるんだろう。
「ぼくは言うべきことはきちんと言うぬいぐるみだからな」
とりはまた偉そうにそう言うと、ベンチに座るアスミの腿をふこりと優しく叩いた。
「今はつらいだろうが、いずれ必ず時間が解決する。ぼくの知る限り、時間が解決しなかった人間の問題はないからな。アスミは必ずまた誰かのことを好きになるぞ」
「もういいよ」
アスミは首を振った。
「もういやだよ、こんな思いするの。どうせまた裏切られるんだよ」
「やさしい人間はこの世でアスミ一人だけじゃないぞ」
「ないぞー」
ねこが言った。
「アスミ、絶対いい人見付かるよ。だってすごくきれいだもん」
「やめてよ」
アスミはねこを睨む。
「ただでさえ美人じゃないのに、泣いたせいでこんなひどい顔なのに。どうせ夜だからほとんど見えてないんでしょ」
「ぼくはねこなので」
ねこの目がきらりと光った(ようにアスミには見えた)。
「夜でもばっちり見えます。だからアスミがきれいなことも分かります」
ねこは得意げに胸を張った。
「ぼくがアスミのことをきれいだと思うのは、アスミが自分のことをきれいだと思っていないこととは何の関係もないのです。なぜならぼくがそう思うからです」
「……やめてってば」
どうして私、こんなベンチでぬいぐるみに慰められてるんだろう。
「ちなみにぼくは鳥目なのでほとんど何も見えてない」
とりも胸を張る。
どうしてこのとりはこんなに偉そうなんだろう。
そんなことを考えているうちに、アスミはさっきよりも少しだけ落ち着いてきている自分に気付く。
「まあ、人間いつかは必ず死ぬんだから、わざわざ死にたいと思う必要もない。いずれ勝手に死ぬ」
とりはそう言うと、ベンチの背後をふこりと振り返った。
「ああ、救援が来たぞ、ねこくん」
「あ、ほんとだ」
ねこも振り返って嬉しそうに腕をぴこぴこと振る。
「おーい、マキー。こっちこっちー」
アスミが振り返ると、女性が一人足早に歩いてくるところだった。
このぬいぐるみたちの飼い主だろうか。
知らない人と、こんな顔で話したくない。
こんな時でもそう思ってしまうのは、やっぱり私が見栄っ張りだからだろうか。
アスミは立ち上がった。
「私、行くね」
アスミは言った。
「話聞いてくれてありがとう」
「うむ。少し元気になったようだな」
とりはまた偉そうに頷く。
「何かあったらぼくらはいつでもここにいるから」
「とりさん、てきとうなこと言っちゃだめだよー」
「うむ、まあここには滅多にいないが」
ねこに指摘されたとりはそう訂正すると、手羽をふこりと上げた。
「ここで会ったのも何かの縁だ。がんばれ、アスミ」
「がんばれー」
ねこもぴこぴこと手を振る。
「うん」
アスミはおかしなぬいぐるみふたつに、ぺこりと頭を下げた。
「話聞いてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
「ましてー」
手を振るふたりに見送られて、アスミは歩き出した。
まだ胸は苦しいけれど、自分の吸う夜の空気が少しだけ澄んだ気がした。