6.面影をさがして
近鉄阿部野橋駅は、近鉄南大阪線のターミナル駅だ。
吉野行きのホームは、同じ年代の若者であふれている。
ゼミ合宿といっても、今回は、学部全体のイベントでもあるので、
他の学科の学生たちもいる。
学科またはゼミごとに、別の宿舎に分かれて泊まることになっている。
研究室では、(なんでわざわざ吉野?京都でいいやん)という人もいたけど、
話してみると、そういう人たちも含め、案外、みんな吉野に行ったことがない
ということがわかった。僕も、そのうちの一人だ。
近鉄南大阪線で手軽に行けるのに、逆にいつでも行けると思って、行けて
いない場所なのかもしれない。
この路線は、ブルーシンフォニーとか、ちょっとお洒落な特急が走っている。
なので、僕も気になってはいたのだ。
でも、その特急には時間が合わない、というのと、当然ながら特急料金もかかるので、
みんな、結局、別料金のかからない急行に乗り込んでいた。
もちろん、中には、明日帰るときには絶対乗るで!と、勢い込んでいる学生もいる。
急行は程よく混んでいる。
僕はドア横に立って、カバンから本を取り出した。
本を開こうとした瞬間に、声をかけられた。
「伏見さん」
近くで聞こえた声に、顔をあげると、同じゼミの院生の、
「三井さん」
「三井です」
声が重なる。
「あ、名前、覚えてくれてましたか」
「もちろん」
三井さんの顔が、嬉しそうにパッと笑顔になった。
彼女は、4月当初、体調を崩していたとかで欠席していて
話をするのは、今日を入れてもまだ数回程度だ。
でも、同じゼミで、彼女も学部は他の大学を出てから、この大学に
来ているということもあって、印象に残っていた。
「京都から、京阪と御堂筋線で来たんですか」
「うん。三井さんは?」
「私は、近鉄南大阪線の藤井寺から」
「え?この路線?じゃあ、わざわざここまで来て、また同じ駅を通って
吉野まで?」
「はい、そうなります。なんか不思議な感じです」
「そうかあ。でも大学来るよりずっと近いし、今日はちょっと楽でしょ」
「はい。大学に行く日は、6時過ぎには家を出てなあかんから、今日は
ほんまラッキーでした」
「よかったね。僕は逆に早起きやってん。おかげで、めっちゃ眠たい」
「それで、メガネなんですね」
「うん。目しょぼしょぼで、コンタクト入れたくなかってん」
「メガネも似合ってはりますね」
「そう?ありがとう。このメガネかけたら、眠たそうって言われて、妹には
あんまり評判良くないねんけど」
「そんなことないですよ。なんか、ぽわんと眠そうな子犬みたいで・・・」
「ほら、やっぱり、『眠そう』なんや」
「ほんまや・・・」
2人で笑う。 いつのまにか、三井さんの敬語が、タメ語になっていた。
とくになんていうこともない、他愛のない話をしながら、時々、窓の外を眺める。
やがて、電車は、三井さんの家の最寄り駅、藤井寺駅を通り過ぎる。
急行は止まらないんだそうだ。
最初の停車駅は、古市駅という少しひなびた感じの駅。
それでも、駅前には、ショッピングセンターやバーガーショップなどが
立ち並ぶバスロータリーがある。
ここで、少し席が空いたので、僕らは運よく座席に座ることができた。
すると、偶然、三井さんの隣に座ったのが、彼女の高校の後輩で、
2人の会話が始まった。
僕は、その後輩さんに挨拶をして、三井さんに言った。
「ごめん。めっちゃ眠くなってきたから、少し寝るわ。ごめんな」
「どうぞどうぞ。おやすみなさい」
2人の声が電車の音と一緒に小さく聞こえてくる。
(ひさしぶりやねえ、どうしてたん?)
(今、大学行ってます。あの・・・先輩、あのひと、彼氏さん?)
(ちゃうちゃう。同じゼミの院生の人)
(めっちゃ、イケメンですね)
(そ、そやね。・・・でも、聞こえるって。本人のそばで噂話はあかん、て)
(は~い…)
目をつぶって、電車の揺れに身を任せる。
自然に麻ちゃんの声が頭に浮かぶ。
(今頃、何を考えてるんやろな・・・)
僕が帰ったら、何を話そう、とか考えてるのかな。
僕は、麻ちゃんのことを思い浮かべる。
でも、どうしても、
(今頃、何をしてるんやろな)と、
その姿を思い浮かべることができない。
そのことが、いつももどかしい。
僕が、頭に思い浮かべることができるのは、
その声だけ。
ついさっきまで、言葉を交わしていたのに。
つかめない幻みたいに、彼女のイメージがあやふやになる。
なんだか、手の中を大事なものがすり抜けていくようで、
僕はちょっとさみしくなっている。
(会いたいな)と思う。
(会いたいな)と思っても、思い浮かべる顔が、ない。
そのことが、さみしい。
こんな気分のとき、僕は生きている彼女に会いたかった、と切実に思う。
あの部屋で暮らし始めて以来、僕らは
毎日、一緒にテレビを見ながらおしゃべりしたり、
読んだ本や映画について感想を話し合ったり、
時には、好きな歌を一緒に歌ったりもして。
毎日、ちょっとした恋人同士以上に、僕らは言葉を交わしていると思う。
それでも、僕らが、言葉を交わすことより先に進むことは、
永久に、ないのだ。
目をつぶり、電車に揺られながら、僕は眠り込むこともできずに、
閉じた目の向こうに、会ったこともない彼女の面影をさがそうとしていた。