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お忙しい方のための、対位法風「Süße Tropfen(甘き雫)」

 四人目:近松先生と、五人目:森先生の話は、実は、独立しつつも、二つで一つのお話になっているしくみなのです。二つ(以上の)違う旋律を同時に組み合わせる作曲技法を、音楽用語で「対位法」といいます(『新明解国語辞典 第三版』より)。

 今回、答え合わせとして「Süße Tropfen(甘き雫)」を発表します。

「ふむ、()らずの雨かい」

 講義棟の一階に下りたら、硝子戸がくもっていた。

「食堂だったならば、お茶でもしながら待てるのだけれどもね」

 上司は、流し目を作って言った。

「問題ない」

 部下が、エナメル加工の手提げから折りたたみ傘を取り出した。淡いオレンジの地に、白い小花が各面に一輪ずつ刺繍されていた。

(もり)(くん)、急がぬとも()いでないか。今日の講義が済んだのだよ?」

「事務助手より、時進主任がひどく酔われていると連絡があった。主任の介抱は、最優先事項である」

「私達は、学科主任の護衛を任されている。けれども、だね……」

 ほとほと困る上司を、部下はまばたきせずじっと見ていた。

「君には降参するよ。行こう」

 一本の傘に、二人。大雨のもとを歩き始めた。

「わが国では、相合い傘というのだよ」

「…………」

 何も言わぬのは「既知だ」ということを示している。()(イツ)出身の部下の癖は、上司が誰よりも分かっているつもりだ。

「十年ぶりだなあ。あの頃通いつめていた店の若女将だったかな。うなじに紫陽花の香りをつけていたよ」

「誤りである。正しくは、八日前。二限目の移動時に、国際学部外国語学科伊国(イタリア)語コース所属伊藤(いとう)ガリバルディ美亜(みあ)講師の傘に入っていた」

「はは、ははは……そうだったかね? 夢でも現でも、似たようなことを経ているものでね、ひとつひとつ覚えられぬよ」

「……いつでも初恋の気分だと、近松先生は仰っていた」

 上司が、ネクタイを締め直す。分が悪い時の仕草だ。部下は、何年も目にしてきた。

「君との思い出は、身をもって刻みつけているからね。安心しなさい」

「生々しい表現である。誤解を招く可能性が極めて高いといえよう」

 量が増えてきた。上司は、自然な手つきで部下を抱き寄せた。

「濡らすわけにはいかぬ」

「自然現象に嫉妬しているのだろうか」

「いや、私自身の問題さね」

 背負っていけたら、いつ腹を切れと命じられても構わない……は、戯曲の世界に留めておく。部下を残して自害したら、取られてしまうではないか。

「子どもだった頃、雨を斬る鍛錬をしていたのだよ」

 意味の無いことを、子どもは本気になって成し遂げようとする。大人に真実を教えられるか、己で悟るかして、半ばでやめるのだ。諦める行いに甘んじて、人は夢をいくつも捨てて生きる。

「水を斬れたら、海や川は、世界中で取り合いになっているさ」

 笑いをとってみたが、部下の反応はどうか。

「六十二点」

「ははは……辛口だね」

 部下の基準は、厳しい。きっと、そういうお国柄なのだ。お菓子にだってしかれていると聞く。ひとつでも落とせば、正式にそのお菓子を名乗れない、と。

「近松先生」

 上司は色っぽく首をかしげた。

「本朝の歌に、神の涙が空に降りて、飴になったというものがある」

「ドロップ、かね」

「涙ではあるが、雨と飴をかけているのだろうか」

「なにしろ、『雫』だからね……。狙いはあったと思うよ」

 部下が、細い息を()いた。

「飴が、欲しいのかね」

 四角い缶は生憎持っていないが、オブラートに包まれた柑橘の飴なら、個人研究室に備えている。ゼミ生のお土産だった。

「いいえ、雨の音が、ドロップの歌を奏でているようであったため」

「私は、甘い涙が好いね。酸味のきいた物は、男の舌には合わぬ」

「自分は、どちらの涙であっても、感謝していただく」

 部下の指が、上司の唇をなぞった。隙をみせてはいなかった。なのに、彼女は私に入り込んでくる。

「森君には、負かされてばかりだ」

「先生が、勝とうとしていないだけではないだろうか」

 上司は、わざとらしく肩をすくめた。

「雨の歌といえば、私は蛇の目傘だね」

「母親が迎えに来る童謡か」

「結局、母の傘に入れてもらえず、だったがね」

 詳しくは明かされていないが、上司の母親は事件で帰らぬ人となった。

「湿気のせいかね、胸の傷が疼いてしまうよ」

「『(どく)()の変』で受けた傷は、大層深いのだろうか」

「なに、私の力が及ばなかっただけさ。恥のひとつだ。これと引き換えに、母を守れたら名誉になれたろうにね」

 部下としてできることは、静かに聞くのみ。

「だから、今度こそ折れぬ剣となるのだよ。守るべき者のために」

 上司の背広に、しみが広がっていた。部下がハンカチを渡す。

「構わぬよ、私も持っている」

 部下は、巻いたシナモンカラーの髪をわずかに揺らした。

「自分は、貴方(あなた)の副官、そして盾である」

「森君……」


 盾の役割を果たす時が来ないように、剣は前に立って斬りむすぶ。

 剣がもうこれ以上刃こぼれしないように、盾はかばい害を防ぐ。


 果てない道を共にゆく、二人に甘き雫よ、降りかかれ。



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