三千の逢瀬を遂げし 硬派な好色男
「ふむ、遣らずの雨かい」
講義棟の一階に下りたら、硝子戸がくもっていた。
「問題ない」
部下が、エナメル加工の手提げから折りたたみ傘を取り出した。淡いオレンジの地に、白い小花が各面に一輪ずつ刺繍されていた。
「森君、急がぬとも好いでないか。今日の講義が済んだのだよ?」
「事務助手より、時進主任がひどく酔われていると連絡があった。主任の介抱は、最優先事項である」
「私達は、学科主任の護衛を任されている。けれども、だね……」
ほとほと困る上司を、部下はまばたきせずじっと見ていた。
一本の傘に、二人。大雨のもとを歩き始めた。
「わが国では、相合い傘というのだよ」
「…………」
何も言わぬのは「既知だ」ということを示している。独国出身の部下の癖は、上司が誰よりも分かっているつもりだ。
「十年ぶりだなあ。あの頃通いつめていた店の若女将だったかな。うなじに紫陽花の香りをつけていたよ」
「誤りである。正しくは、八日前。二限目の移動時に、国際学部外国語学科伊国語コース所属伊藤ガリバルディ美亜講師の傘に入っていた」
「はは、ははは……そうだったかね? 夢でも現でも、似たようなことを経ているものでね、ひとつひとつ覚えられぬよ」
「……いつでも初恋の気分だと、近松先生は仰っていた」
「君との思い出は、身をもって刻みつけているからね。安心しなさい」
「生々しい表現である。誤解を招く可能性が極めて高いといえよう」
「子どもだった頃、雨を斬る鍛錬をしていたのだよ」
意味の無いことを、子どもは本気になって成し遂げようとする。大人に真実を教えられるか、己で悟るかして、半ばでやめるのだ。諦める行いに甘んじて、人は夢をいくつも捨てて生きる。
「水を斬れたら、海や川は、世界中で取り合いになっているさ」
笑いをとってみたが、部下の反応はどうか。
「六十二点」
「ははは……辛口だね」
部下の基準は、厳しい。きっと、そういうお国柄なのだ。お菓子にだってしかれていると聞く。ひとつでも落とせば、正式にそのお菓子を名乗れない、と。
「近松先生」
上司は色っぽく首をかしげた。
「本朝の歌に、神の涙が空に降りて、飴になったというものがある」
「ドロップ、かね」
「涙ではあるが、雨と飴をかけているのだろうか」
「なにしろ、『雫』だからね……。狙いはあったと思うよ」
部下が、細い息を吐いた。
「飴が、欲しいのかね」
「いいえ、雨の音が、ドロップの歌を奏でているようであったため」
「私は、甘い涙が好いね。酸味のきいた物は、男の舌には合わぬ」
「自分は、どちらの涙であっても、感謝していただく」
部下の指が、上司の唇をなぞった。隙をみせてはいなかった。なのに、彼女は私に入り込んでくる。
「雨の歌といえば、私は蛇の目傘だね」
「母親が迎えに来る童謡か」
「湿気のせいかね、胸の傷が疼いてしまうよ」
「『毒雨の変』で受けた傷は、大層深いのだろうか」
「なに、私の力が及ばなかっただけさ。恥のひとつだ。これと引き換えに、母を守れたら名誉になれたろうにね。だから、今度こそ折れぬ剣となるのだよ。守るべき者のために」
部下がハンカチを渡す。
「構わぬよ、私も持っている」
部下は、巻いたシナモンカラーの髪をわずかに揺らした。
「自分は、貴方の副官、そして盾である」
「森君……」
盾の役割を果たす時が来ないように、剣は前に立って斬りむすぶ。
果てない道を共にゆく、二人に甘き雫よ、降りかかれ。
特別企画:もしも、日文の先生が某人気カードゲームになったら
④近松先生篇
近松 初徳 (ちかまつ そめのり)
体力:240 属性:灰色 弱点:赤(ダメージ二倍) 抵抗:緑
※この登場人物が戦闘不能になった時、伏せ札を2枚取る。
技:ざんげき(斬撃)、灰色エネルギー1枚、白エネルギー1枚 60ダメージ
技:くどきおとす(口説き落とす)、灰色エネルギー2枚、白エネルギー1枚 80ダメージ
→相手の戦闘人物が男性の場合、この技は失敗する。
技:ぶしのこころえ(武士の心得)、灰色エネルギー3枚、白エネルギー1枚 120ダメージ
→この技を使った後、灰色エネルギーを2枚、捨て札にする。
【八十島評】ダメージ大な技を持っているのですが、好色男なので、男性には効きません。男性デッキの使い手を相手にするなら、「ざんげき」か「ぶしのこころえ」で戦いましょう。特別戦場札か道具札とのコンボで補ってやると、安定して使えるのではないでしょうか。