ドーナラ高原自治区郷土史より抜粋、『恋磁石症候群との戦い』
かつての我らドワーフ族の母なる故郷、ドーナラ地下王国がドーナラ休火山の火山活動再活性化により失われてより故国の民たちは散り散りとなった。
王族は近隣の国へ亡命し、大半の民衆は賊にならぬよう軍部からの監視の下で各国へ伝手を辿って移動した。
ドーナラ山にほど近いこの高原に居を構えた父祖たちは、故国への想いを断ち切れなかった頑固者と寄る辺無きあぶれ者たちであったと伝え聞く。
ドーナラ山岳地帯に属するこの高原はもともと肥沃な土地ではなかったが、現在も続くドーナラ火山の噴煙の影響でまともな土地よりもはるかに農業に適さない地になっていた。
しかし父祖たちは、生きるためにこの地を耕した。
その辛く厳しい道程は前章でも語った通りだが、まさに泥水を啜り土を食むようなものであったという。
餓死者が出ないことを祈りながら、あってないような余力で収量改善の為にこの荒れ地に自生していた歯欠け黍の品種改良を続ける日々。
最初の百年、新たに生まれた子供たちは生涯満腹を知らなかったとすら言われる。
そんな困窮を極めた父祖たちにとって、のちに『奇跡の三株』と言われた優良種の誕生はまさに福音であった。
歯欠け黍の品種改良の中で生まれたの三種の優良品種。
収量が多く、乾燥に耐性を持つインデンタータ種。
病害虫と寒さに強い抵抗を持ち、十分な陽光の無い年も収穫までこぎつけるインデュラタ種。
そして野生種と比べ物にならない程に食味が向上したサッカラ―タ種。
この優良品種たちこそが、このドーナラ高原自治区の多くのドワーフたちの命を救ったと言っても過言ではない。
特にサッカラータ種はのちに外貨獲得の材料にもなり、我ら自治区のドワーフの地位向上にも一役買ったのはご存じの通りである。
我らの父祖は、すぐさまこの三株限りの優良品種の増産を始めた。
品種改良の過程で歯欠け黍は交雑によって大きく特徴が変わることが分かっていたため、増産は株分けと同株内での受粉のみに限定し行われた。
しかし、育成の際に一定数の交雑種の発生は抑えられず、やむなく錬金術師の秘薬による品種固定措置がとられた。
これによって三品種は他種との受粉によって交雑することはなくなり、同一品種内でのみ交配するようになった。
現在も歯欠け黍の品種改良は続けられているが、この三品種を超える特徴を持つ品種は生まれておらず、品種固定措置で生産の安定を図った当時の農業従事者たちの英断が称えられてしかるべきなのは明らかである。
我らドワーフ族がいくら粗食に耐えうる頑健な身体を持つとはいえ、野生動物も少ないこのドーナラ高原において主食に当たる歯欠け黍の生産の安定がその栄養状態の向上に対して寄与した割合はけっして少なくない。
歯欠け黍が野生種であった頃から荒れ地の植物の中では群を抜いて豊富な栄養を有していたといっても、絶対量の少なさを補填し得るものではなかった。
優良品種の登場と増産によって、歯欠け黍の『強み』は初めて最大限に発揮され、自治区の同胞たちは日々に余裕を取り戻すことができた。
それは十分な食糧備蓄の確保ののちに全自治区民の総意によって生産された初の自治区産の歯欠け黍の酒に、”この高原で最も美しいもの”として『荒野の月の輝き』と名付けられたことからもわかるだろう。
まさに、優良種によって我らは自らの魂を取り戻したのである。
しかし、時代が下ると品種固定措置をとられた三種の優良種の中に『恋磁石症候群』と呼ばれる症状を呈するものが現れ始める。
知らぬ諸兄の為に解説しておくと、『恋磁石』とはかつてのドーナラ地下王国で産出された特殊な石材で、同じ石切り場の恋磁石同士ではただの石材でしかない。
だが、異なる石切り場から産出された恋磁石は磁鉄鉱のように互いに引き合うという特性を持ち、故王国では新婚夫婦の新居の礎石として珍重された。
この恋磁石の名を冠した優良種に現れた症状とは、品種固定措置をされたにもかかわらず同品種内で交配できず、交雑でのみ次代を作るという致命的なものである。
交雑によって作られた次世代は当然の如く親の特質を受け継がず、良くても三品種の性質に大きく劣るもの。
再び品種固定措置を行っても、恋磁石症候群が無くなることはなく、農業従事者と農学者たちは原因究明のために奔走した。
かの慧眼で知られた初代ドーナラ王であろうとも、かつて幸福の象徴であった恋磁石の名が同胞たちに忌み嫌われることになるとは見抜くことはできなかったに違いない。
文字通り命を懸けた農学者たちの観察により、恋磁石症候群の原因は歯欠け黍の食害虫であるドーナラツチメイガという蛾の幼虫にあることが判明した。
歯欠け黍の急激な増産によってドーナラツチメイガも増殖の一途をたどっており、旺盛な生命力のおかげで食害されても枯れるまではいかないために駆虫に力が割かれていなかったことが悔やまれる。
三品種のうちの一つを食害して成虫となったドーナラツチメイガが別の品種に卵を産み付け、そこから生まれた幼虫が食害を起こすことで恋磁石症候群は発生する。
この事実が判明すると農業従事者たちは相対するものの数の多さに戦慄し、しかし子々孫々のために立ち上がった。
その後、五十有余年の長きに渡るドーナラツチメイガ撲滅の戦いの始まりである。
【ドーナラ高原自治区郷土史、 第三章『恋磁石症候群との戦い』より抜粋】
・歯欠け黍
古くからドーナラ高原に自生していた黍に似た植物。
稔った実は名前の通り歯が欠けるほど硬いが乾燥させると日持ちも良く、主に粉にしてから練って焼くか、煮込んで食される。
成熟した実は上部から髭状の繊維を生やす為、ドーナラ地方以外では生産者と掛けてドワーフ黍の名で流通している。
葉からは繊維、茎は肥料、髭は薬になり、実を取った後の芯は着火材にと捨てる所がない。