083.逃避行
涼太は、如何に敵の追撃が正確であっても、山中に入ってしまえば振り切るのは難しくはないと思っていた。
なにせ涼太たちは簡単に敵の居場所がわかるのに、向こうはこれを捜索しながら追わねばならないのだ。
また上空から見下ろす視点を持つ涼太がいる以上、土地勘云々は大した優位点にはならない。この時代ではありえぬほど正確な地図を涼太は作り上げることができるのだから。
森での活動に長けたアルフォンスや、野外活動の知識をふんだんに持つ凪といったアドバイザーの存在も見逃せない。
それを慢心だと断じるは簡単だが、もし敵指揮官がレンナルトでなかったなら、或いは今挙げた好条件のみで押し切ることも可能であったろう。
しかし、これこそが街一つを敵に回すということである。
街一つ、数千を超える人間たちの中から、特に優れた者に実務の責任者が任されるのはごく自然なことで。
ましてや今回敵に回したのは街どころではない、幾つもの街を支配下におくオッテル騎士団だ。それはオッテル騎士団の戦力という意味だけではない。
幾つもの街の数多の人材よりも優れているからこそ高い権限を持つ者を、敵に回したという意味でもあるのだ。
「……なめられているのか? 異常に初動が遅かったが」
レンナルトは本陣を進めながら隣を行く副官に問う。
「こちらの動きや陣容を掴めていなかったからでは?」
「にしては、動き出してから選んだ道が悪すぎる。連中の動きから考えるに、こちらの本陣の規模を把握しているとしか思えん」
レンナルト曰く、最善の道を選ぶのならもっと大きな街道があるのだが、レンナルトが本陣としている部隊の規模では著しく進軍速度が落ちる道を選んで進んでいるということだ。
しかも、大規模部隊をまくのに最適な山中を目指して移動しているとのこと。
副官は目を丸くしている。連中の移動跡を見つけ追跡を開始してからまだ丸一日といったていどだ。
痕跡を見つけたのも三か所のみで、それでいてどうしてそこまで断言できるのか、副官には全く理解できなかった。
そもそも痕跡のあった場所からして、レンナルトが幾つもの箇所を調べろ、と命じた場所であり、そうでなければこんなにも早く発見することはできなかっただろう。
『これが、オッテル騎士団で若くしてのし上がった方の力か』
これならば数日もせず捕捉できるだろう、そんな副官の予想は敵の妙な動きにより覆されることとなる。
追跡開始から一週間が過ぎた頃、アルベルティナの交渉担当、首切りラスムスがレンナルトのもとに訪れた。
「レンナルト殿、どーにも敵の動きが妙なんで報告に来た」
レンナルトはとても不機嫌そうである。それも当然だ、本来の予定ならば三日前に一度、そして昨日とそれぞれ一度づつすでに捕捉しているはずだったのだ。
小隊毎に展開し、敵の逃げ道、抜け道、そういったものを抑えつつ押し込み、圧力をかけながら追い込んでいたのだが、レンナルトも予想だにしない動きでするりするりと抜けていく。
レンナルトの不機嫌顔にもラスムスは動じた様子なく告げる。
「こりゃ、こっちの動き完全に見切られてる。アンタもとうに頭の片隅にはあるんだろ? ……内通者を疑えよ」
「内通者が連中に連絡する術がない」
レンナルトが即答したのは、既にその可能性に思い至っていたからだろう。
この動きを後十日も続けられれば、副官もこの可能性に思い至れたであろう。二十日もあれば、小隊長たちもそう考えるようになるかもしれない。
それを、七日目であっさりと断じることができるところが、優秀さの証明となる。
「獣、鳥、魔術、熟練の技術はいるが、見つけようのねえ連絡手段ってのは多い。せめても内通者を絞り込む動きをするべきだろ」
「…………今日までの、ドルトレヒトの兵の働きに不満はない」
「わかってる。良い兵士たちだ。だが、こういった仕掛けってのは早ければ早いほうがいい。迷ってるってんなら俺が言ってやるよ。今すぐ動き出すべきだ。連中が何処の時点でこちらの動きを察するのか、その情報を一つでも多く手にしとかねえと、いざ決戦って時に後手に回りかねねえぜ」
とても渋い顔をしながらだが、レンナルトはラスムスに言う。
「卓見だな。しかし、正論というのはどうしてこうも耳に痛いものなのか」
「耳にも優しい内容なら俺に言われるまでもなくアンタが自分で実行してるからだろ」
苦笑するレンナルト。
「違いない。忠言、感謝する」
追うレンナルトは涼太たちに嘲笑われているかのように感じていたが、もちろん涼太にそんな余裕はない。
『なんなんだよコイツら! 明らかにこっちの居場所見えてないってのにどーしてこうも正確にこっちが嫌がること選んでこれるんだよ!』
山中に逃げ込んだ時点で絶対に捕捉は不可能だろう、と考えていた涼太であったが、本隊と五つの小隊が山の中を動き回ると、あれよあれよという間に逃げ道を塞がれ追い詰められていってしまう。
ところどころで道なき道を抜けることで難を逃れているのだ。
涼太の遠目の魔術は、この道なき道を危険少なく、かつ道を過つことなく抜けることができるという、山中では絶対のアドバンテージを約束してくれるもののはずだったのだが、道のない道は当然通行には全く適しておらず常に通り続けるのは負担が大きく要所のみでの使用しかできず、そこまでの優位点があっても、涼太の知恵知識ではふりきれぬほどに敵が巧みであったのだ。
忠言の一件以来、時折レンナルトはラスムスの意見を聞くようになった。
それは主にレンナルトの考えをラスムスに確認してもらう、といったものであり、ラスムスから積極的に意見を述べるといったものではなかったが、この確認作業ができるというのは思いのほか大きいのである。
「レンナルト殿、その顔、確証を得たな」
「ほぼ間違いあるまい。奴等は、本隊に加え全小隊の動き全てを把握している。それも、考えられないほど高い精度でだ」
指示を出すレンナルトの近くにいて盗み聞くなんて単純な仕掛けではない。内通者がいるていどではここまでの精度の対応力はありえない。
幾つかの確認作業を経たうえでレンナルトは、少なくともレンナルトの知る常識的な手段では再現不能な行為が行われていると確信した。
それもエルフをさらった、という点から考えれば一応の推測もたつ。
「ギュルディはエルフの協力者を得た。そしてその魔術を利用している」
「……断言してくれているが、そのギュルディというのはエルフと繋がりを持てるほどなのか? エルフとの接触はボロースが独占しているはずだろう?」
「ギュルディの下には優れた魔術師もいるが、それがギュルディ側固有の魔術であるのなら、こんな場所で披露していいような魔術ではあるまい。戦でいきなり使われていたら、まず間違いなくその会戦は大敗していたぞ。秘匿すべきものをそうしなかったというのなら、秘匿に意味がない、つまり会戦などでは利用できない、ということだろう。エルフの協力者の魔術と考えるのが合理的だ。……ここまでの優れた魔術をギュルディのところで開発できたというのもちと考えにくくはあるしな」
「そうか。で、どうする?」
肩をすくめるレンナルト。
「尻尾を撒いて逃げ出したいところだ。もし敵方の指揮官が私なら、とうの昔に私の命はなかったろうよ」
「だろうな。だが、付け入る隙は見つけたのだろう?」
「うむ。そもそもこの逃避行を指揮している者、軍をあまり知らぬと見える。それ以外にも失策の跡と思しきものも見つけた。隙、と言っていいものかしらんが、相手が失策をする者だという前提で、こちらは準備を整えるさ」
「……だが、対応が徐々に、正確にもなってきている」
苦々しい顔のレンナルトだ。
「本当に、貴様はよく見ている。愚か者ではないのだろうな、単純に、経験が足りていないだけなのかもしれん。面倒な相手だ」
「育つ前に殺せると考えれば悪くはないさ」
「殺せれば、な」
エルフを逃がしたとなればレンナルトの面目は大いに潰れることとなる。だが、だからと兵の全てを損耗してでも、なんて真似はしない。
そんな指示を出したところで、兵が言うことを聞くわけがない。
オッテル騎士団が勢威を振るい後が怖いぞと脅そうとも、崖から飛び降りろと言われて従う兵が何処にいようか。
レンナルト、すなわちオッテル騎士団としてはこの兵全てと援軍と、共に全て磨り潰してでもエルフは奪還したいところだ。そうしても十分プラス収支になる。それで良心が痛むなんて殊勝なタチでもない。
だが、そんな指示に諾々と従うような兵は、普段から厚遇し死後も一族を安心して任せられる環境を整えていてはじめてそうなれるのだ。
そこを見誤り無理やり愚かな指示を出したとしても、その軍が持つ戦力を十分に発揮できるわけがない。それならば、兵が受け入れられる指示を出しながら軍の力を十全に発揮させたほうがよほど効率的だろう。
兵の使い捨ては、兵士を率いる者ならば当然考えてしかるべきやり方であるが、優れた指揮官たるを望むなら、これの用い方には十分な配慮が必要であるとレンナルトは考えている。いや、そう教わった。
『このままエルフを逃したら、降格か。追放か。……八つ当たりで処刑、なんてことはないと思いたいが』
兵を出すなんて場面は、大抵の場合において大きな利害が絡んでいるもので。
これを指揮する者に課される責任は重大だ。レンナルトの師は、だからこそ指揮官に対し過剰な重圧は任務達成の妨げにしかならないと言っていたが、同時に、指示する者からすれば問題が発生した場合は部隊の指揮官に全てをおっかぶせるのが一番楽、なのだそうだ。
この話を最初に聞いた時は、どの道軍事行動の失敗は生命の危機に直結するのだから軍事行動に臨むからには成功するしかないのだろう、なんてことを安易に考えていたが、いざ自身がそんな状況に直面すると、当時考えていたような傲慢で不遜で短絡的で、つまるところ馬鹿な考えをする者はみんなまとめて縊り殺してやりたくなる。
『こんなザマをアレに見られたらなんと言われるか……』
レンナルトは即座にアレが言いそうな言葉を思いつく。
色々と諦めた顔で、世の中そんなもんだ、と嘆息する年下の師匠。共にあった時はあの覇気もやる気も感じられない態度にいらいらしたものだが、今は無性にそれが懐かしく感じられた。
凪も秋穂も、ここまで必死な顔をしている涼太を初めて見る。
山中を移動しながら、何度も何度も魔術を行使し、その都度険しい表情をしては指示を出す。
涼太が必死になっているからこそ凪も秋穂も口を出したくなる。邪魔をしたいのではない、文句があるのでもない、その力になれないかと思うが故だ。
だがどちらも口を挟まない。
敵が何処にいてどうすべきかという話を相談しあいながら進路を決める、なんて悠長な真似をしている余裕がないのだろう。
普段の涼太ならばそういうところまで気を配ってくれる。凪も秋穂も納得したうえで動けるようにと。
だからこそ、今の涼太に口を出せない。
時折ぶつぶつと呟き、地面に指で絵を描いては舌打ちや罵り声を発し、乱暴な口調で進路を示す。
凪も秋穂も言われるがままに森を進み、藪を拓く。涼太に言われるまでもなく、極力音を立てぬように、痕跡を残さぬようにできるときはそうしながら。
涼太の苛立ったような緊張感は凪と秋穂に伝播し、道中さんざっぱら脅されてきたディオーナと男は怯えながら後に続く。
唯一緊張や不機嫌と無縁のままのアルフォンスであるが、そこが森の中であるのなら、最悪ディオーナ一人抱えて己の力でどうにかする自信があるので涼太に任せて口を噤む。
涼太は、とてもわかりやすく追い詰められていた。
『信じられねえ。信じられねえけど、コイツ、魔術も何も無しで、経験と知識だけでこっちの居場所から動きから全部予測してやがる』
しかも、追い詰められた涼太たちが逆撃に出てくることも想定済みだ。
涼太が追い込まれながらもどうにか優位に逆襲を決めようと思うなら、それを行うことができる敵部隊には必ず、アルベルティナの三人かアーレンバリ流の二人がいる。
凪と秋穂がこいつらと戦って負けるかどうか、涼太にはわからない。だが、恐らく足止めはできるだろう。雑兵を相手する時のようにあっという間に殲滅して次へ、とはいかない可能性が高い。
そうしている間に瞬く間に包囲される。そんな動きをしている。し続けている。
『くっそー、まるで逃げ切れる気がしねえ。山に入る前は、こんだけ有利な俺たちをどーすりゃ追い込めるんだよって思ってたもんだが、いやー、いざ追い込まれてみると、確かに向こうがどうやってこっちを追い詰めてるのか皆目見当もつかねーわ。段位持ち棋士相手に負けたら死ぬ将棋やってる気分だ』
山中を逃げるためのセオリーや敵の目をくらますための手法なんてものを、涼太は何一つ知らない。
だが、偵察の耳から聞こえてくる敵兵、敵指揮官の言葉から、涼太が何を失敗し、何を上手くやれたのかを聞くことができる。
敵がこれだけはやってほしくない、なんてことを聞けた時は最高だ。
そういった話を逃走経路に反映しながら、涼太は必死に頭を使い続ける。
凪も、秋穂も、アルフォンスも、余計なことは何一つ言わず黙々と従ってくれる。これをありがたいと思えても、感謝を述べる余裕すらない涼太は、日が暮れ夜になっても足を止めず。
エルフの森とは反対方向に向かって延々進んだところでようやく敵が涼太たちを見失ってくれた。
敵軍が涼太たちの痕跡を求めまるで見当違いの場所を探しはじめたところで、ようやく涼太は足を止め、一行に休憩を言い渡す。
同行者全員、それこそディオーナすらそう思った。
誰がどう見ても、休憩が一番必要なのは涼太だろう、と。
一度完全に振り切ってしまえれば、遠回りではあれどエルフの森へ向かう道は無数にあるため、涼太たちの道中はそれほど警戒を必要としなかった。
それでも人目は避けるし、大きく迂回するルートを選びはするが。
道なき道を行くとなると、足に不安があるのは涼太と男の二人だ。ディオーナは大して鍛えているようには見えないが、腐ってもエルフだ、山中森中で過ごしてきたのは伊達ではなく、細身でありながら徒歩での移動もまるで苦にした様子はない。
なので道中は男と涼太が馬に乗り、残りは徒歩でといった形になる。
涼太は敵軍の動向をきちんと把握したままで、彼らはどうやら追跡を諦め、エルフの森付近での待ち伏せに切り替えるようだ。
敵指揮官は涼太たちが未知の魔術によって敵軍の動向を察知しているだろうと読んでいるが、結局それが具体的にどういった魔術かまではわかっていないし、有効射程も把握していない。
知っていれば待ち伏せなんて手段も取らないだろう。だが逆に、この遠目遠耳の魔術がどちらかしかない、もしくは有効射程が他の魔術のように短かったなら、待ち伏せは回避できなかっただろうと思うと、連中を愚かと笑う気にはなれない。
結局一行は予定日数を十日もオーバーしてエルフの森に到着した。
アルフォンスが、連れてきたディオーナを森のエルフたちの前に引っ張り出すと、ディオーナの両親らしき男女が涙ながらにこれを迎える。
集まった他のエルフもとても感激している様子で、アルフォンスを労う者も多かった。
「あの、アルフォンスがなあ」
「おお、あのアルフォンスが森のみなのためにとは……何十年ぶりかなぁ、こんなにも感動したのは」
「よくぞ、よくぞ、連れ戻してくれたものよ。しかもそれをなしたのがあのアルフォンスだぞ。こんなにも嬉しくも、驚くことが他にあろうか」
予想していたことだが、と涼太は呟く。
「やっぱアルフォンス、エルフの森でも困った奴扱いなんだな」
凪はくくくっ、と含み笑う。
「話に聞いてたエルフよりずっと乱暴だし雑だしいい加減だったものね」
秋穂は当たり前につっこんでやる。
「凪ちゃんほどじゃあなかったけどねー」
「なーんでいっつも秋穂は私に当たり強いかなあ!?」
実は無事エルフの森につけたことで、一番安堵していたのは涼太だったり。
『何処までこっちの手の内がバレてるのかまるでわかんなかったからな。包囲を抜けてからずーっと、罠なんじゃないかー、ハメられてんじゃないかー、なんて考え続けるの、ほんっとしんどかったよなぁ』
エルフの森へと至る道筋の全てを、それと悟られぬようにしながら連中は完ぺきに塞いでいた。
油断して無警戒でのこのこ歩いていっていたらそのまま囲まれていただろう。
やはり遠目遠耳の術の便利さは破格のものだ。その有効性がこいつらのような軍事の専門家にも通用するものだとわかった涼太は、一度機会を作ってこの術の由来をベネディクトに問い質してみようと心に決めた。
ディオーナの帰還に沸くエルフたちを他所に、凪と秋穂はさっさと一晩の宿を確保する。
アルフォンスに口添えを頼めば、人間ではあるがここまで協力してくれたこともわかり、エルフたちもやや警戒しつつも良い食事と広い寝床を用意してくれた。
急いで休みたがる二人に、涼太は一応、聞くだけは聞いてみる。
「もう目的は果たしたし放置でもいいんじゃないのか? しばらくここにいれば連中も諦めて帰るだろうし」
あっはっは、と笑う凪。
「面白い冗談ね、涼太」
わかってないなー顔の秋穂。
「このままじゃさ、私たちがあいつら怖がったーなんて思われちゃうよ。そういう致命的な勘違いはさ、早めに早めに改善しとかないとね」
涼太はじっと二人を見る。
「あしでまとい抱えて逃げ回らされたもんで頭にきたって話じゃないのか?」
「「それもある」」
凪も秋穂も、食べるものを食べ、ゆっくり眠ってその後で、まだ馬鹿面下げて道路封鎖している追撃隊をぶっ殺しに行く気満々なのである。




