007.不知火凪ってどんな人?
盗賊による村襲撃の後始末は涼太が思ったよりずっと大変なものであった。
連中、後のことなど一切考えず暴れていたようで、家に火は付けるわ死体を井戸に投げ込むわとやりたい放題である。
食料品の倉庫も燃やされており、苦労して用意した猪肉の燻製も半分以上が焼けてしまった。
凪と秋穂は二人がそれぞれ山に入り、食料、もしくは取引材料となる獲物を獲りに行く。残った涼太はベネディクトを洞窟に返したあと、復旧の手伝いを行なっている。
後片付け自体は丸一日かければ終わりそうであったのだが、妙に張り切った凪と秋穂が次々獲物を狩ってくるため、これの解体作業などが増え結局全部が終わるのに二日ほどかかってしまった。
涼太たちは村の果物や野菜を楽しみにしていたのだが、さすがにこの状況で譲ってくれとは言い難く、あげるだけあげたら三人は村を離れた。
村が襲われた光景はいまだに目に焼き付いているが、その後ずっと忙しかったのが良かったのだろう。
凪も秋穂も今はもう落ち着いているし、面白い話でもすればきちんと笑って返してくるようになった。
「ベネには悪いことしたな」
涼太が洞窟に置いてきたままのベネディクトの話をすると、秋穂も表情を曇らせる。
「そうだねぇ。なんかベネくん喜んでくれるようなもの、持って帰れればよかったんだけど」
「酒が飲みたいとか言ってたような。あの身体で飲んだらエライことになりそうだが」
「あはは、それはさすがに止めとこ。……というかそれ以前に、ベネくん味ってわかるのかな?」
「あ、それ俺も気になってた。人間向けの食べ物食ってるけど、ネズミ舌で大丈夫なもんかね」
「あっはははははは。ネズミ舌はヒドイよ。あれでベネくん中身はきちんと人間のつもりなんだから」
「つもりとか言ってやるなよ、おめーのがよっぽどひでーぞ。…………おい、不知火」
全く会話に加わってこようとしない凪に涼太が声を掛けると、凪は少し煩わしそうに目を向けてきた。
「何よ」
「お前……機嫌悪いのはわかるが、そいつをほんの少しも我慢しようとしないのはどうなんだよ」
ふいっと顔を逸らす。
「我慢したくないし」
「子供か!」
せめても村人たちの前では不機嫌顔を晒してはいなかったのだが。
理由に気付いた秋穂が、少し嬉しそうにしながら涼太の耳元で囁く。
「多分ね、凪ちゃん、身内相手だから取り繕うような真似したくないんだよ」
「え? 身内、か。俺ら。それは、そう思ってくれるのはすげぇ嬉しいけど」
「うん、私も。だからね、好きにさせといてあげよ」
まったくもう素直じゃねえなあ、とにやにやしている涼太。
単純でわかりやすいのはどうやら凪だけではないようである。
洞窟に戻るまで凪は拗ねっぱなしであったが、洞窟でベネディクトと合流するとようやく機嫌を直して話をするようになった。
涼太と秋穂とベネディクトが、油断したのはそのせいであった。
『アイツら頭にきたからぶっ殺してくる』
こんな書置きを残し、不知火凪は姿を消した。
何が小憎らしいかと言えば、朝起きて、じゃあそれぞれの訓練に行く、今日は秋穂とは別口で獲物を探そう、なんて話を振っておいて、全員が洞窟から出てから動いたことだ。
このせいで残された書置きに気付いたのが昼前になってしまい、先行した凪に数時間の後れを取ってしまった。
これを読んだ涼太は、その場に突っ伏してしまった。
「マジか……アイツマジか……」
内容が信じられず短い一文を何度も何度も読み返す秋穂だ。
「え? 本気で? 本当に? しかも一人で? え? え? えええええ? ありえないよ。ありえないでしょ。どーなってるのこれっ!」
いつでものんびりのほほん顔な秋穂も、さすがにこれには焦りを隠せないようで。
一人、まるで動揺しているように見えないベネディクトは、うろたえる秋穂と動きを止めた涼太に声を掛ける。
「どうする? もし脇目も振らずまっすぐ例の砦に突っ込んでいるのだとしたら、もう突入してしまっているぞ。呼び戻すにせよ、参加するにせよ、動くならば急いで動くべきだと思うが」
涼太と秋穂は、同時にがばっと身を起こし言った。
「なんでそんなに冷静なんだよ!」
「なんでそんなに冷静なの!?」
その責めるような口調は不本意だ、と言わんばかりの顔でベネディクトは答えた。
「お前たちの言動が理解不能なのは今に始まったことではないだろうに」
俺を一緒にするな、私は違うよー、と二人揃って抗議の声を上げるが、ベネディクトは無視して後を追うのかどうかを改めて問うのであった。
不知火凪は、幼少の頃より虐待を受けていた。
当人にその自覚はなかったし、虐待を行なっていた父親にもそのつもりはなく、ついでにこれを見守っていた母親もまるでそうは思っておらず、唯一虐待を疑っていたのは父親の親友ぐらいのもので。
その親友にしてから、凪がとんでもない扱いを受けていると気付いたのは彼女が小学五年生になった頃だ。
両手の平の皮がむけにむけ、硬いマメが幾つもできるほどに素振りを行なっているとしたら、それを小学校にあがったばかりの頃から続けているとしたら、それはやはり虐待と呼ぶべき行為に極めて近かろう。
走る、跳ぶ、登る、といった基礎体力を充実させる訓練も含め、一日数時間をみっちり鍛錬に費やす。終わる頃には声も出ぬほど疲れ果て、その場に寝転がってしばらく動けなくなるような、とても子供に耐えられるようなものではない鍛錬を課されてきたとしたら、やはりそれは虐待と呼ぶべきであろう。その訓練メニューを日本陸連辺りに知られていたら、子供の小さい身体をなんだと思っていると激怒されていただろう。
問題はそれを指摘する人間が一人もいなかったことであり、凪当人も不思議とも思わず受け入れてしまっていた。
父のほうがよっぽど厳しい鍛錬をしていること、母もまた凪よりもずっとたくさん走っていることが、これを受け入れやすくしていた理由の一つであろう。
これのせいかおかげか、小学校で凪に運動で敵う者は一人もおらず、競争相手にすらなりえなかった。
教師たちは皆無邪気に、或いは無責任に、天才児であると凪を持て囃したものであるが、凪としてはあまり納得のいく評価ではなかった。
『なによ。みんな全然走ってもないし、訓練もしてないんだから当たり前じゃない』
なんてことを小学三年生が考えていたのだから、随分と早熟な子供であったのだろう。
それでもまだ、五年生の時まではぎりぎり普通の小学生で通る範疇であった。
だが五年生になったある日、凪の父は凪にとある映像を見せた。
凪の父が凪に厳しい鍛錬を強いてきた理由であり、今後はより厳しく凪を鍛えていく理由であった。
内容は、間違っても父と娘が一緒に見るようなシロモノではない。凪の父が警察官の知り合いから譲ってもらった映像データであり、美しい女性が犯罪者に拉致されたその後を、克明に記した映像記録であった。
五年生の頃にはもう中学生すら歯牙にもかけぬような豪胆な小学生に育っていた凪であったが、この映像はさすがに許容範囲を超えていたようで、顔中を真っ青にしながら映像を見ていた。
凪の父が凪を鍛えに鍛えてきた理由がこれだ。
凪の母は、凪にそっくりであり、それはそれは美しい女性であった。
そしてそれが故に、数多の苦難を強いられてきたのだ。
凪の父は生まれたばかりの凪を見て、すくすくと育っていく天使のように可憐な凪を見て、凪が母と同じ道を辿ると確信した。
凪の父は武の道に生きる男であったが、だからこそできぬはできぬと言い切れる。凪の父がどれほど力をつけようと、凪を常に守り続けることは不可能であると。
だから、凪に自らを守る術を教えることにしたのだ。
そこで凪の母にそうしたように、どんな状況からだろうと逃げきるために足を鍛えるなんて話ではなく、本気で武の全てを叩き込もうとしたところに、父親の複雑な親心というものが介在しているのであるがそれはそれとして。
美しい女性というものは、ただそれだけでたくさんの危険を背負うものである。そう重々しく凪に伝えた凪の父の、後頭部を全力でぶん殴ったのは父の親友である男だ。
「おっまえなんてことしてやがんだこの馬鹿! 道理で凪ちゃんばか強ぇと思ったらこんなことしてやがったのか! ここはロシアじゃねえんだぞ! 日本だぞ日本! こーいう目に遭わないためにわざわざ日本に来たってのに向こうとおんなじことしてどーすんだボケええええええ!」
とても不本意そうに凪父が言い返した。
「……いや、日本でもこういった事件は起こっていてだな……」
「事件発生率は考慮に入れる必要がねえぐらいに低いっつーの! 現役警察官相手にその手の数字で誤魔化そうったってそうはいかねえんだよ! つーかこんなもん自分の娘に見せる馬鹿親が何処にいるってんだ!」
喚く親友君に、凪は腹の据わった目で言った。
「おじさん。私、やるよ。もっともっと、絶対に強くなる。私は、絶対にあんなことに、ならない」
「おおおおおおい! 凪ちゃんやる気出しちまったじゃねえええええかあああああああ! 落ち着け凪ちゃん! あれは警察の極秘資料だ通常は表にでねーからそんな目に遭うなんて話は一般人なら誰も知りゃしねえって!」(←かなり動揺している模様)
「うむ、凪よ。もしもの時は、かまわん。やれい。俺も、母さんも、どんなことがあろうとお前の味方だぞ」
「煽ってんじゃねえええよこんタコスケがあああああああ! つーか警察官の目の前で犯罪行為助長してんじゃねえええええええええ!」
かくして、凪の人生はこの親友君のおかげでどうにかこうにかまっとうなものに戻る道筋がついたのだが、既に、凪当人にそのつもりがなくなってしまっていた。
あの映像を見た時の、恐怖、嫌悪、憤怒、憎悪、そういった悪感情の数々を、凪は消化しきれぬままに厳しい鍛錬を自らに課し続ける。
なんやかやと付き合いのいい親友君も、時々凪の鍛錬に付き合ってくれた。
「……いや、ほっとくと凪ちゃん洒落にならんことしでかしそうでな……」
とても刺々しく育った凪が本当に危険な連中と揉めるようなことにならなかったのは、主にこの親友君がそれとなくそういった場所から遠ざかるよう誘導していたおかげである。
幸いなことに危険極まりないような集団といえば隣町に公安監視対象がいるぐらいで、そこにさえ行かなければそれほど問題にはならない、治安の良い地域に凪は住んでいたので、親友君もさほど手間をかける必要はなかった。
小学校高学年、中学校と凪は、学校で授業を受ける時間以外はほぼ全て鍛錬に費やした。
学校の生徒全員が集まった中でも、たった一人輝いて見えるほどの美貌を持つ凪であったが、その極端すぎる生活のせいで友人らしい友人も作らぬまま。修学旅行ではあまった生徒が集まる班に押し込まれるレベルである。
そして、高校へと進学したのがつい二か月前の話だ。
高校でもその美貌から注目はされたが、全く馴染もうとしないのでとても浮いたままであった。
高校生活を送りながら凪は感じていた。周辺の反応から面倒なことになってきていると。
小学校からほぼ同じメンバーであった中学校と違って、高校は全く新しい人間と接することになる。
それは不知火凪が、どれほど凶悪な武力を有しているかを全く知らない者と接するという意味でもあり、凪は普段の生活の中で、そんな馬鹿が凪に迫ろうとしている気配を感じ取っていた。
『……少年院って、そんなに窮屈な場所なのかしら?』
そんなことを考えネットで少年院を調べねばならないようなことをしでかすつもりであったようだ。この時の凪は。
格闘技を数年やっている倍の体重の男子を、剣道でも柔道でもそれ以外でも、木端微塵にぶちのめせるぐらいには鍛えていたのである。或いはこれでその道に進んでいればまた別の生き方も選べたのかもしれないが、不知火凪の頭にあるのは、理不尽な目に遭った時、これを腕づくで突破する武力を身につけることだけであった。
結局、そんな話にはならず今、凪は異世界なんてものに来てしまっている。
盗賊の砦に向かって走りながら、凪は考えていた。
『もし、向こうで私が同じものを目にしてたら、今こうしているように、馬鹿を殺しに走っていられたのかしら。……って意味のない話よね。きちんと機能している警察の有無って、社会にとってこんなにも大切なことだったのね』
前から尊敬はしていたが、やっぱりおじさんは素晴らしい仕事をしていたのだ、と改めて確認できてちょっと嬉しい凪だ。
だが、そんな大人の庇護はここでは期待できない。
許せない行為を許さないためには、自分が動くしかないのだ。だから、凪は走っているのだ。
村の惨状を見た時、心の奥底から湧き上がってくる怒りがあった。それは、父に犯罪被害者の映像を見せられた時に感じたものとほぼ同じものだ。
熱が噴き出してくる。とめどなく留まることなく。
身体中が沸騰しているようでじっとしていられない。
それはきっとイケナイことなのだろう。だが、知ったことではない。
法律だとか、人を殺すなだとか、人権がどうのとか命の価値云々だとか、全部、どうでもいい。
奴らがのうのうと息をしているのが許せない。今すぐ、どいつもこいつも息の根を止めてやる。
凪が自身を救いがたいと思うのは、今の殺意に満ちた自分がそれほど嫌いではないということだ。
だから、止める気も止まる気も全然起きない。どこまでもこのまま突っ込んでいってやろう、そうできるだけの鍛錬は積んできたはずだ。
後は試すだけだ。自分が本当はどこまで走り続けることができるのかを。
「よくも、殺してくれたわね」
平和な日本に生まれ、警察のお世話になるようなことは一度もないまま育ってきたはずの不知火凪は、これから盗賊を殺しにいくのだ。
秋穂の焦りっぷりがひどかった。
涼太の足では秋穂と共に山中を走るのは無理なので、秋穂はまず先行して砦の様子を窺っておく、と主張する。
魔術という飛び道具抜きに砦なんていう対物理最強壁を突破しようとする秋穂に、涼太は懸念を告げるも秋穂は今すぐにでも全速で走り出したそうだ。
これを止めるのは無理だと考えた涼太は、ベネディクトを連れていくことと、こちらでの戦いの知識は涼太たちには無いのだから、ベネディクトの指示に従うことを条件に秋穂先行を許可した。
別段、秋穂の行動選択に涼太の許可は必要ではないのだが、お互いの納得は重要であると秋穂は考えているので、承諾してくれたことに、いや秋穂の望みを可能な形に落とし込んでくれたことに感謝しつつ、ベネディクトを引っ掴んで秋穂は走り出した。
「え? ちょっ! こらアキホ! 何故木を蹴って登るか! おいこら! せめて普通に走れ登るな飛ぶなぴょんぴょん跳ねるなあああああああ!」
ベネディクトを肩に乗せた秋穂は、明らかに人類には不可能な高速機動ですっとんでいった。
ここが山中でなければ走ったほうが速いのだが、丘陵や崖がそこら中にある状態では、木の上を移動したほうが移動は安定するのである。それができるのであればだが。
ぽつん、と一人取り残された涼太であるが、秋穂と違って特に焦った様子もなく、一人ゆっくりと移動を始める。
この間に思考は高速回転しているが。
『マズイ。絶対にマズイ。村を襲った盗賊は二十人だかって規模だったが、砦に行ったら絶対それどこじゃない数がいる。百人超えるような人数を一人で? ありえん。アホか。てーか盗賊だろうと弓持ってる奴ぐらいいんだろ。それで終わりだ馬鹿め。ほんと馬鹿だ。アイツ、何考えてこんな真似……ああ、考えてたらやるわきゃねえか。いやいや、村が襲われてから不知火のアホが暴走するまで結構な時間が経ってる。その間、あのアホでも、馬鹿でも、考え無しの猪野郎でも、何かしら飛び道具やら多数の敵をどうにかする工夫を考えてるはず。考えてしかるべきだ。てーか考えてろよ頼むぞマジでっ』
涼太も凪の特攻に、驚いていないわけでも焦っていないわけでもないのだ。
ただ、起こった出来事があまりに洒落にならないものであったので、焦っている場合ではない、どうすべきかをひたすらに考えるべきだと理性が言ってきたのでこれに従おうと努力したまでだ。
努力及ばず思考の幾つかは支離滅裂なことを考えていたりもするが、完全に冷静であることを高校一年生でしかない涼太に要求するのはあまりに酷であろう。
『考えろ、考えろ、考えろ。俺の手持ちの魔術、砦への潜入、不知火の救出、脱出、全部完璧にこなさなきゃ地獄だぞ。ああ、うん、既に不知火は地獄、かもしれない。かなりその可能性高い。くっそ、ダメだ。キレるな俺。生きてさえいりゃ後はどうにか、どうにかする。ああくそっ、慰めの言葉なんて思いつかねえ。くそっ、くそっ、くそっ、これは後回しだ。まずは……』
凪を責める不毛を飲み込み、想像するだに恐ろしい未来予想図への対策を先送りにし、何度も思考が横道にそれながらも、涼太は必死に凪をどう助けるかを考え続けるのだった。