251.状況設定終了
トシュテンの伯父は、配下の兵を引きつれ領都の統治業務を行なう建物を訪れる。
この建物は領地全体の行政機関でもあり、領都で公務に当たるものはそのほとんどがこの建物を使っている。
この一室を借り受け、同時に伯父は典礼部門のメシュヴィツ子爵を呼び出すよう命じる。
メシュヴィツ子爵は呼び出しに心当たりがないのか呑気な顔でこの部屋に入るが、中に控える兵士たちと、何より貴族でありながら憤怒の表情を隠すことすらしていない伯父に驚いた。
「な、何事でしょうか」
「まずは、座れ」
これは尋常ならざる事態であると理解したメシュヴィツ子爵であったが、伯父はアクセルソン伯の側近で、彼に逆らうというのはかなり気合のいる仕事であり、何より背後に控えている兵士たちこそが伯父の覚悟であると察したメシュヴィツ子爵は言われるがままに椅子に座った。
「昨日、隣領、それもアクセルソン伯領に近い場所で盗賊が発生した。一件目は、それでも一般的な盗賊、と言い逃れられるていどの規模であったが、二件目は襲撃者が百名を超える大規模なものであり、襲撃位置から考えるに、犯人は我らがアクセルソン伯領に潜伏したと見られている。そして今私の手元に、襲撃の際奪われた物資の大まかな種類と量が届いている。これを見て、ご領主様に何か言うべきことがあるかどうかお主に問いたい」
メシュヴィツ子爵も教育を受けた貴族だ。ここまで言われれば自身が何を疑われているか理解はできる。
だが、賊というのは言い過ぎだと。密かに抜け荷をしたというだけであるというのに。と、そこまで考えて、メシュヴィツ子爵の背筋が凍る。
『いや、待て。この方が、確証もなしにここまでのことをするか? こちらに兵を出してまでというのは余程のこと。もしや、メシュヴィツ家を陥れることで、領地の危機を乗り切る術を見出したか』
メシュヴィツ子爵の脳内で様々な思考が巡るが、伯父はといえば、子爵が即座に抗弁してこないことで大きくなった可能性を追う。
「悪いが、隣領での賊の件は事実だ。お主が関わっていようといまいと、これから大きな問題となりうるであろう。もちろんご領主様にもご報告申し上げる。だがその前に、私の心当たりであるお主に話をしにきたのだ。今、この場で言い逃れようと、後日間違いなくお主に追及の手は伸びるぞ」
隣領を襲った盗賊がいて、領内には禁輸中の物資を多く確保している貴族がいるのだ。疑われない方がおかしいだろう。
「賊の退治は私の権限でできるものだからな、とうに兵は出した後だ。この報告がくる前に、動くべき者がいるのではないか?」
メシュヴィツ子爵にとってはあまりに突然の窮地である。ギデオンからは、リネスタードでの仕事の繋がりから抜け荷を手配してくれる商人がいる、と聞いていたのだから。
まさか、このようなすぐにバレる嘘をつくほどに愚かであるとは、思ってもみなかったのだ。いやリネスタードに行く前のギデオンであったならそれもありうるなんて思われていたかもしれないが、リネスタードより役目を終え戻ったギデオンは、以前と比べて一回りも二回りも大きく成長して見えたのだ。
伯父は静かに告げる。
「話が拗れなければ良い。ただの賊として退治し、奪われた物資に関しても多少なりと補填すれば面目は立つ。だが、話が拗れたのならば。今の領地の状況を考えるに、伯にまで責任が行きかねん」
そこまで言って、伯父はじっとメシュヴィツ子爵を見つめる。
子爵も貴族だ、伯父の言うこともよくよく理解している。だからこそ、顔中真っ青を通り越して真っ白になっており、両の手は小刻みに震えてしまっている。
「これもお役目よ、わかるな」
実際に賊の手配をメシュヴィツ子爵がしたかどうかは、もし話が拗れた場合においてはあまり関係がない。
言い逃れのできぬ状況で利益を得てしまっているのだから、誰かが責任を取るとなればそれはこのメシュヴィツ子爵以外にいない。アクセルソン伯に責任を取らせるなんてことになれば、それは到底座視できぬほど大きな、領地全体の損失となるのだ。
メシュヴィツ子爵の首だけで済むというのであれば、そちらの方がよほど経済的なのである。
『これは……子爵は無関係であったか』
内心でそう呟く伯父。こうして領主への報告の前に子爵を詰問したのも、言うなれば伯父の情けである。
せめても伯父と一緒に子爵も領主への報告に向かえば、自身は潔白であると領主に信じさせることもできるかもしれないし、領主の同情が得られればお家の存続も十分にありうる場面だ。
伯父は席を立ち、子爵の傍らに歩み寄るとその肩に手を置く。
「伯に、ご報告に行くぞ」
子爵は伯父の情けにも気付かぬほど怯え震えながらであるが、ゆっくりと席を立ち、伯父の後に続くのであった。
メシュヴィツ子爵を連れた伯父が領主の館にまでくると、そこに一人の従者が待ち構えていた。
彼は伯父に報告すべき事項を口頭で告げる。もちろん子爵の耳には入らぬようにして。
「事件現場にほど近い、オルヘスタル家別宅をメシュヴィツ家が借りうけておりました」
「そう、か。トシュテンには?」
「はっ、既に伝令が後を追っております」
「アレの勘の良さも大したものよな。この報告の前にあの地に目を付けておったのだぞ」
「いずれクロンヘイム家へ将軍位をもたらしてくれる方かもしれません」
「ふん、まだまだひよっこよ。ご苦労、続報あらばこちらの状況問わず報せよ」
従者は一礼して立ち去った。
そして伯父はちらと子爵を見て言う。
「オルヘスタル家別宅、でいいか?」
びくり、と子爵の身体が震える。
この調査も、子爵がしらばっくれた時のためのもので、その場合、この報せによりほぼ確信を持ってしまった伯父が一人で領主との面会を行なっていただろう。
伯父もついつついてしまったが、あまり委縮させすぎるのもよくはない。
これ以上余計なことは言わず、伯父は子爵と共にアクセルソン伯との面談に赴いた。
結論から言えば、アクセルソン伯は怒った。とても怒った。周囲の者が止めなければメシュヴィツ子爵を斬り殺しかねないほどに怒った。
メシュヴィツ子爵が生き残ったのは、決してアクセルソン伯が許しただのといった理由ではなく、殺すのであれば領地にとって最も効果的にその命を消費すべきだ、という言に納得したからだ。
退室を許された後、凍り付いたように表情が固まってしまったメシュヴィツ子爵に、伯父からかける言葉などない。同情はするが、どうにもならぬ。
「子爵、ご一族を集め、当主の責務を果たされませ」
やはり表情を変えぬままに子爵は頷き、伯父に一礼すると自身の屋敷へと戻っていった。
一族の存続も危ういが、せめても当主の首を差し出すという厳しい処置を受容するのであれば、何がしかの形でお家は残ろう。
その時、如何に一族をまとめていくか、それを現当主の子爵が指針を示しておかねば、下手をすれば一族が内より崩れることになる。
自身の死がほぼ確定した状況下でありながら、メシュヴィツ子爵はその後のことを考え難しい仕事をこなしていかなければならない。一族の当主という仕事は、決して軽くも容易くもないのだ。
『哀れな』
立ち去る子爵の背中を見て、そう思えてしまう伯父だ。今朝屋敷を出た時は、こんなことになるなど想像だにしていなかったろうに。
トシュテンが盗賊退治に失敗した場合に備え、援軍の手配を整えるべく動き出す伯父。
また、情報収集にも新たに力を入れねばならない。経済制裁で困窮している中ではあるが、それでも今きちんと金と手間をかけなければこの先に数多待ち構えているだろう厳しい選択を誤ってしまうかもしれないのだ。
精力的に動き回る伯父のもとに、トシュテンから急ぎの報せが届いたのはこれより五日後のことで、報せが届くなり伯父は大慌てで領主のもとに駆け込み、緊急会合が開かれることとなった。
領主アクセルソン伯は、皆が集まっている中だというのに、頭を抱えたまま机に突っ伏してしまっている。
いつもならこれを咎める立場にある宿老も、アクセルソン伯に声をかけることすらできない。
「何故だ。何故こうもたたみかけるように……」
昨今のランドスカープにおいて、最も領内に来てほしくない人物の二人、黒髪のアキホと金色のナギが既に領内にいるという話が、騎士トシュテンよりもたらされたのだ。
経済制裁の真っ只中、王都とのぎりぎりの交渉を重ねている最中に、馬鹿が隣領に盗賊行為を働き、どうにか馬鹿を討ち取ったと思ったら今度は、ランドスカープ最強の無法者と呼ばれているアキホとナギの襲来である。
たった二人で三千騎を撃破しうるなどという、最早人類扱いなどできぬ怪物が、経済制裁で困窮し王都とは一触即発な状態のアクセルソン伯領にきて、何をするつもりなのか。
「誰か、誰でもいい。答えてくれぬか。あの悍ましき二人組は、本当に、ただ海を楽しみにきただけだと思うか?」
騎士トシュテンからの報告にはそうあった。
間違っても領都に近寄るなんて真似だけはさせないよう、多少の迂回路を通りつつトシュテンは海へと彼女らを案内している。
その途上でハーニンゲでの活動内容や、直前にあったカテガット砦での攻防の話を聞き、手にした情報を随時領都に送り続けるトシュテンの働きに文句などないが、それでも皆が思ってしまうのだ。何とか上手いこと言って帰ってもらうことはできなかったのかと。
以前とは、国内の空気が変わっている。
涼太たちがハーニンゲに行きカテガットで戦っている間に、ランドスカープ国内では秋穂と凪の大暴れが周知されるようになり、誰もがその暴威を恐れるようになっていた。
特に他領の情報をいち早く入手できる貴族やそれに類する者たちは、かつて王都圏で暴れ回ったシーラ以上の脅威として、注意と警戒を怠らぬようしていた。
伯父が内心でぼやく。
『警戒してようと注意してようと勝手に来るのだがな』
トシュテンからの一番初めの連絡には、少なくともトシュテンに対し横暴であったり強圧的であったりすることはなく、特に交渉役であるリョータという青年とは理知的で理性的な会話が可能、とあった。
総大主教猊下を殺してしまうよーな奴らが理性的だの理知的だの言われてもなー、なんてことを考えながら、伯父はアクセルソン伯に向け口を開く。
「警戒しつつも極力刺激せぬようその要求を叶えていく形で、まずは様子を見るべきかと。アレらと良好な関係を築けた事例を、今、急ぎ集めさせております。対応に当たっているトシュテンも心掛けのしっかりとした者なれば」
「はっ! まるで王でもきたかのようではないか! 何故この私が! 私の領地にいるというのに! こうまでへりくだらねばならんというのか!」
伯父含む部屋の全員が、痛々しいものを見るような目でアクセルソン伯を見る。
馬鹿にしているとかではなく、おいたわしや、といった目である。
言うだけ言った後で、片手で顔を押さえるアクセルソン伯。
「……すまん。そう、だな。お主の言う通りよ。かの両名を相手に安易な選択だけは選べまい。よい、よいぞ。それで、よい」
皆が口にしていないことがある。
秋穂と凪の来訪が、アクセルソン伯へのギュルディ王からの警告ないし制裁の一環である可能性だ。
早く決断しなければ、アレらがお前の領地で暴れまわるぞと。
大まかな方針は決定した。後は各人がそれぞれの職責に応じた対応をするということで、集まった者たちでより具体的な対策対応を相談し始める。
その間ずっとアクセルソン伯は無言のままであったが、それらの話し合いを途中で遮るように、小声でぼそりと呟いた。
「……あの二人を、殺すことはできぬのか?」
その表情を見れば誰もがわかる。アクセルソン伯自身がそんな手段存在しないとわかっている。それでも尚、問わずにはおれぬのだろう。
尚武の国ランドスカープにて、武勇を誇ってきたアクセルソン伯が、脅しに屈することの無様さ、惨めさは、他の者たちがそうするよりずっと屈辱的なものであった。
これは他の皆には言わせられぬ、と宿老が口を開く。
「王都での暗殺合戦を生き残ったことを考えれば、暗殺に類する作戦の成功率は絶望的に低く、失敗したならば兵士だけでも千以上の損失を覚悟しなければなりません。ましてや抵抗の術すらない民たちでは……。そして何よりもその場合、伯の御身をお守りすることもできなくなるでしょう」
がたん、と音を立て席を立つアクセルソン伯。
「後は、任せる」
そう言って足早に部屋を出ていった。
癇癪をおこすのを必死になって堪えたことが他の皆にもわかったので、誰もが無言でこれを認めた。
そして皆で一斉に深いためいきをつくのであった。
「いいかアンタら、これだけは絶対に守ってくれ。必要な分だけ獲るんだ。一度に食いきれない量持ってかえるような馬鹿な真似だけはしてくれるなよ」
涼太たち一行に、新たに加わったのは海での漁の経験がある兵士だ。
凪と秋穂が自分で海に潜って漁をするということで、同行者であるトシュテンが海での漁の注意事項を聞くべく呼び寄せた者である。
彼は到底貴族の前に出せるような教育を受けた者ではないのだが、これまでの旅でトシュテンはこういった人物でも涼太たち三人は機嫌を損ねないと理解していたのである。
「一日分まとめて獲るとかもやっちゃマズイ?」
「獲ってすぐが一番美味いっつったろ。なんでわざわざ陸に上げてマズくなるまで放置するような馬鹿なことしてんだよ。そんなことするなら海に置いたままにしときゃいいだろ」
「そりゃー、そーか、な。うーむ、なんか考えてたよりずっと野生な生活になりそうね」
肩をすくめる秋穂。
「凪ちゃんはそっちのが好きでしょ」
「人を未開の原住民みたいに言わないでよ。ま、その辺は実際に漁してみてから考えましょうか」
凪と秋穂と漁師な兵士の三人で、どの魚はどう獲るだの貝の見つけ方だのといった話を延々としているのを他所に、涼太はトシュテンが欲している情報をせっせと提供してやっている。
「とりあえず俺たちからどこかに連絡するってのをしなければ、アンタが変な疑いを持つってこともないだろ」
「私だけ納得しても意味はありません。貴族の方々が納得するようにしていただかなければ……」
「そんなの絶対に無理じゃん。凪と秋穂の二人はもう、存在してるだけでソイツら納得なんてしないだろ」
「さ、さすがにそこまでは……」
「そこまでだから、俺たちは何度も何度も殺し合いするハメになったんだっての。ただ、この領地は他とは随分と違うよな。他所よりもずっと、凪と秋穂のことわかってくれてるようだし」
「それは単純に認知度の問題では? お二人の武勲が国中の貴族たちに広まったの自体ごく最近の話ですし」
「それはつまり、他の領地でももう似たような対応が受けられるってこと?」
「恐らくは。お話に伺ったハーニンゲのような愚かな真似は、よっぽどの馬鹿でもなければありえないと思いますが」
ギデオンとかな、とは口にはしなかった。涼太は別段、意地悪な人間ではないのである。
領都においては相当に悲観的な見方が大勢を占めていたが、トシュテンはといえば涼太たち三人の対応に手応えを感じていた。無難に穏やかに滞在を済ませる手応えをだ。
それは涼太も一緒であり。この調子なら楽しく海の休暇を楽しめそうだ、なんてことを楽観的に考えていた。
リネスタードに元加須高校生離脱組が出戻ったのは、王都にて鬼哭血戦が開催される準備期間の頃の話だ。
彼らは残留組を見捨て学校を飛び出していった者たちであり、残留組としても彼らの受け入れには複雑な思いがある。
とはいえ、無残にのたれ死ね、などと切り捨てるような見方のできる者もまたごく少数であり、感情的な部分はさておき、外で苦労をしていた彼らを労い、温かく迎え入れてやったのだ。
愛野美香は、リネスタードでの生活を始めて、最初の内こそ驚き戸惑うことも多かった。
何せ今のリネスタードにおける加須高校生の生活水準は、平均的な農民たちとは比べ物にならないほど裕福なものであったのだから。
またリネスタードならではの技術が各所に行き渡っており、それまで異世界にきたことで数多被った不便さの幾つかはほぼ完全に解消されていたのだ。
美香は運動部であったこともあり、女性ながらそこそこ腕力も体力もあったため、農作業に加わることで売春担当を免れることができていた。
だがその暮らしは決して楽なものではないし、我慢しなければならないことも山とあったのだ。
「……何よ、コレ。どういうことなのよ」
売春担当の中には、仕事の最中に殺されてしまった娘もいる。
お金を稼ぐべく傭兵になり死んでしまった者もいる。
そして教会に追い回されたあの時、かなりの人数がそのまま教会にさらわれてしまった。美香たちを助けてくれた傭兵たちが言っていた、生存は絶望的という言葉は、異世界での生活を続けてきた美香にも理解できるものであった。
なのに、学校に残った、あの生きるために行動をしなかった連中が、幸せいっぱいという顔で楽しく過ごしているのを見て、腹立たしい思いがこみ上げてくるのだ。
それを、同じく学校を出ておきながら、秋穂による襲撃を受け即座に学校に出戻りした面々の内の一人に、美香は漏らしてしまったのである。
「なんでアンタたちはそんなへらへら笑ってられるのよ! オリーも! カドちゃんも! ミッツも! 下級生たちだっていっぱい死んだのよ! なのになんでアンタたちはのうのうとこんな楽な暮らししてるの!? 私たちがどんだけ苦労したのかわかってんの! おかしいじゃない! 私たちは生き残るために一生懸命考えて! 工夫して! それでどうにか生き残ってこれたのよ! なのにあの時何も考えないでただぼけーっとしてただけのアンタたちが! どうしてこんな楽な暮らししてるのよ!」
怒鳴られた娘は、そんな理不尽な美香の怒声にも激昂するなんてこともなく、そんなに大変だったの、と話を促すと、美香は勢いよくこれまでの苦労を語り出す。
語る途中で涙が止まらなくなってしまうが、美香はそれでも話し続ける。
娘は話を聞く中で、美香たちのリーダーであった五条理人が何を失敗したのかを正確に察することができた。
『ああ、五条くんは、結局最後の最後まで、現地の為政者を信用しなかったんだね』
個人間での信頼関係の構築はありえたのだろうが、五条理人は結局最後まで現地の統治機関と関わることを徹底的に避け続けていた。
自身の特異さを理解しているからこそであろうが、それでも、現地の為政者の協力なしに、今こうして喚いている美香たちが望むような裕福な暮らしはありえなかっただろう。
或いはそのための布石を打っている最中であったのかもしれないが、彼らはその前にこの異世界の悪意に飲み込まれてしまった。
『どっちが良いとかそういうのじゃなくって、きっと、それは、運不運の話でしかなかったんだろうね』
娘は泣いて喚いてぐしゃぐしゃになってしまっている美香の頭をなでながら、しかし自身が気付いたことに関してこの子には絶対に言わないようにしようと決めた。
『不平も、不満も、きっと、時間が経てば解決してくれるから。私も、そうだったからね』
リネスタードに引き取られた加須高校生たちは、かなり上手くやれているのだろう。
だが、だからといって苦労や不満が一切ないなんて話は、もちろんありえない。今こうして泣いている美香ですら聞けば鼻白むような話なぞ、この娘にだっていくらでもあるのだ。
加須高校生リネスタード組改め、異世界加須高校生チームのボス、ドン、リーダー、高見雫には、人生初の彼氏に浮かれている余裕なぞはない。
ギュルディがランドスカープの王になったことで、それまでほど注意深く用心深くしなくても、技術漏洩や盗用の心配は減ってくれた。
またリネスタードの技術や商法が広くランドスカープ全体に広められることになり、爆発的に増加していた移民の数も随分と落ち着いてくれるようになった。
ただ、加須高校生たちによる新たな技術開発は今も続いており、いまだに新しい技術が生まれ続けている。
またこれは極秘事項ではあるが、技術開発の最奥にエルフ二人が加わったことによりこの技術開発の速度が増してしまっていたりもする。
「だからってそっちにばかりかまけてもらんないのよねー」
雫が今考えているのは、膨張を続けているリネスタードに、安定期をもたらすことだ。
リネスタードが抱えている様々な問題や矛盾を、今はただただ勢い任せで乗り切っているだけだ。いずれ状況が落ち着いてきた時にこれらの問題矛盾が噴き出してくるのは明白で。
勢いにのって調子の良いことばかりを言ったりやったりする連中を他所に、雫はこれらの解決に力を注いでいた。
ちなみにこれ、雫は自分だけが貧乏クジを引いておけばそれで良い、と考えていて、目に見える成果を挙げられずとも元より出世は十分と思っている雫だからこそこれをするべきとまで考えているのだが、リネスタード合議会の連中は雫のこういった態度行動をぜーんぶギュルディ王に報告しており、ギュルディ王はこれを受け、いずれ雫にリネスタードの領主を任せられるようになるまで育てておけ、と彼らに指示していたりする。
雫が抱えている仕事はこれだけではない。
加須高校生のボスであるのだから、新たに加わった元五条配下生徒たちも上手く使ってやらなければならない。
『まさか売春続けたいなんて言い出す娘がいるとは思いもしなかったわ。五条を探しに行く、なんて奴もいるけど、五条行方不明なのよね。多分、楠木がシムリスハムンで見つけた死体たちのどこかに混ざってたと思うんだけど、もう確認しようもないしねー』
戻ってきた生徒たちの話を聞けば聞くほど、五条がよほどに頑張っていたとわかるだけにやるせなく思う。
こういう嫌な話ばかり聞こえてきたり、忙しくてどうにもならなくなるような仕事が増えるような話ばかり聞こえてくる時、雫は意識して良かったことを探すようにしている。
『ギュルディさんが王になったことで、ランドスカープ国内からのあまりにも理不尽すぎるちょっかいはなくなったし、外国がちょっかいかけてくるのももうないでしょ、戦争にも勝ったし。なら後は、ひたすら内向きな仕事に集中できるんだから、良い事だと思いましょう』
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