208.ハーニンゲ領に迫る危機
不知火凪は、山麓の町を抜けるとすぐに、かぶっていたフードを下し、空を見上げた。
「んー、かいっほうっかーん」
凪も秋穂も、好きでこんなフードをかぶっているわけではない。いつだって、なんで自分だけこんな面倒なことしなきゃなんないんだ、なんて思いもあるのだ。
そんな面倒も、町を離れてしまえば起こらない。
対人用に常にそうしている、そこそこ腕利きに見える立ち居振る舞いも、もちろん必要ない。
警戒はするが、間合いの内を見ず知らずがうろちょろしているなんていう状態でもないので、凪が考えるところの当たり前の警戒で済む。
この辺が、凪が野外活動を好む理由だ。凪にとって人の多い場所にいることは、ただそれだけでも大きく手間がかかるものであるのだ。
今日は涼太もいないので、凪は早速走って移動を始める。
『久しぶりにいってみよっか』
走りながら、大地を蹴る。
木の幹を蹴り更に高くへ。ここはまだ、林というほど木々が隣接しているわけではない。
それでも凪が次の木へと飛び移るには十分な距離だ。
敵も見物人もいないのだ。のんびり宙を飛んでいてもこれを咎める者もいない。ついでに言うと馬鹿やってるとすぐに呆れる涼太もいない。
「ひゃっほー」
ぴょーんぴょーんと木から木へと飛んで回る姿は最早猿そのもの。
そのまま興が乗ったとばかりに数時間延々木から木へと飛び続ける辺り、中身も相当に人間離れしている。
さすがに息が荒くなってきたところで木から降りると、もう周囲は木々が密集している森の中であり、もっと言えば山の中であった。
凪が下りたそこは見晴らしの良い場所になっており、凪がのぼってきた山を見下ろすことができる。
「こういう時、涼太がいれば一発なんだけどね」
どんな場合でも涼太の遠目の魔術が腐ることはないだろう。しかし無いなら無いでどうにかなるもので。
凪は水場を見つけてそちらへと向かう。
そこは、ちょっとした滝つぼになっている場所で、川の途中で広く池のように水が広がっている。
川の側に近寄るのも容易であり、凪はここで水を確かめながら待ち構えることに。
そして、エモノが来る。
「おー、ここらは熊かー」
のっしのっしと黒い熊が水場に近寄ってくる。
いや、途中で凪の姿を認めると、じっとこちらを見つめてきた。
もう何度も山中にて魔獣を狩ってきた凪の直感が言っている。この熊、間違いなく人間をなめていると。
案の定、たった一人なら恐れるなにものもない、とばかりに熊は駆け出した。
これを。
「馬鹿めっ」
すれ違いざまに首を落とす。熊はそのままの勢いで川の側にまで走っていき、ちょうど川の水の中に、千切れた首をひたす位置で倒れた。
凪は手元の剣をじろじろと見る。
「むう、やっぱりコレ、よくできてるわね」
凪の腰に差してある剣は、リネスタードから王都へと運ばれてきた、最新型の片刃剣であった。
ただ、刀とはやはり色んな部分で差異が見られる。そもそも、最終的に魔術で硬くするという前提の剣なわけで。
当然斬れ具合も変わってくる。だが、武器として用いるには十分すぎる性能を持っている。
凪は熊を蹴り飛ばして川に放り入れると、川の中に沈んだ熊に向かって、自身も川に入りながら剣を振り下ろす。
水ごと、下の熊の皮を切り裂き、血抜きと冷却を同時に行なう。
熊はそのまましばらく放置し、凪は川からあがって薪を集めに向かう。
恐ろしく手慣れた様子で薪を集め、料理の為に石を組んで即席のかまどを作り、そして懐から最新の道具を取り出す。
「ふっふっふ、遂に完成っ、ふぁいあーすたーたー」
一人で自由になったせいか、妙に高いテンションで小さな木の筒を使って火を起こす。
これも王都の職人に作らせたもので、構造を知っていて、後は工作精度さえあればこちらの世界でも作れる火起こしの道具である。
凪が川にひたしていた熊を引き上げ、肉を捌いて焼こうか、とした時、木々の間からまた別の熊がのそっと姿を現す。
それも一匹ではない。二匹、三匹、四匹、と続々と熊が姿を現し、まるで凪を逃がさぬようにしているかのごとく、その周囲を取り囲みに動く。
そして、最後の一匹、頭部が焼けただれた特に大きな熊が姿を現す。
その巨体はもう他の熊とは比べ物にならない。魔獣の一種であり、魔熊と呼ばれる種のものだ。
魔熊は周囲を他の熊に囲ませた後で、自身はまっすぐ凪へと向かって進み出る。そして、山中に響き渡るほどの大声で、吠え声をあげた。
そんな熊たちの珍しい行動を見て凪は、引っ張り上げようとした熊を再び水の中に戻しながら呟いた。
「ここらの熊、案外仲間意識強いのね。っていうか、熊って群れるんだっけ?」
緊張感などない。強力な個体と思われるが、凪はこいつらケダモノ如きに負けるつもりなぞ欠片もないのだから。
風鳴き山。
そう呼ばれる山岳地帯には昔から熊が多く住んでいる。
なので獲物がかち合う上に、体格的に大きく不利がつくこの地の狼は、どうしても群を大きくしていくことができなかった。
それでも、魔狼であるレージングは他の狼とは違う。一対一ならば熊をすら屠ることのできる優れた魔狼であった。
だが、そんな熊相手にすら怯まぬ勇敢なレージングであっても、その熊だけはどうにもならなかった。
頭部が焼けただれた巨大な魔熊は、レージングにも決して敵わぬと一目でわかる巨体を持ち、そしてその威容に相応しい恐るべき力を持っていた。
『ちくしょう、やべえ、やべえよ。とんでもねえことになっちまった』
魔熊は風鳴き山に現れるや見る間に他の熊たちを配下に収めていく。抵抗する者は、一切の例外なく全て食い殺された。
それでも熊はマシだ、降れば許される。だが、熊以外の生き物は、全てが魔熊とその配下の餌である。
レージングも、魔熊以外を狙ってその勢力を削りにかかっていたが、魔熊の勢力は広がっていくばかり。じわりじわりと追い込まれていた。
『やられちまった。みーんなやられちまった。とんでもねえ、とんでもねえことが起きちまった』
そんな焼けただれた魔熊を、たった一人の人間がぶっ殺してしまったのだ。
焼けただれた魔熊が集めていた配下の、こちらも明らかに普通の熊とは違う魔熊たちをもまとめて、全て、一人で、殺し尽くしてしまったのである。
『ありえねえ! ありえねえよあの人間! あの、恐ろしい金の頭の人間! 黄金カブトがよおおおおおお!』
不知火凪さん、人間からは隠れられているようだが、どうやらケダモノ界隈では随分と有名人になってしまったようである。
凪や秋穂と違い、涼太は別段顔を隠す必要はないし、尾行をまくような真似をするつもりもない。
ハーニンゲ領主よりの許可ももらってあるので、堂々と領内各都市の行政府に向かい、そこで資料の開示を請求できる。
また護衛と称して、恐らくは監視も兼ねている人間たちを引き連れており、彼らは同時に涼太が資料を調べる時の助手にもなってくれている。
護衛五人の内、男が四人、女が一人だ。女性が一人いるのは、どちらかに偏るのはよろしくないとの配慮と、やはり家事に関しては女性の方が上手であるからだ。
『いや、まあ、いいんだけどさ』
涼太の見たところ、五人の護衛はそれぞれ出所が違うようだ。
涼太に見えるところでソレを出すことはないが、やんわりと対立しているらしい空気を感じることはできる。
特に対立のはっきりとした二人は、片方がハッセが用意した戦士で、もう片方が明確に領主側の立場を打ち出している戦士だ。
仕事上のこと以外ではまるで協力しあおうとしないこの二人を見て小さく嘆息する涼太。そして、唯一の女性がそれを見てくすりと笑う。
「リョータ様、あの二人にもそれぞれに主あってのことですから……」
「らしいね。ま、両者共弁えた人だし、問題になるようなことはないだろうさ」
「あら、案外に信頼してくださっているのですね。それ、二人に教えてあげればきっと喜びますよ」
「やめてくれ。あまりに距離感が近すぎるのも居心地が悪い」
やはりくすくすと笑い言う女性。
「そうですか、ではそのように」
これら各都市の行政府では、涼太はハーニンゲの有力者、ということになっている。
まさか氏素性の知れぬ他国の者に、税収や人口や商取引の数字を見せるなぞ、本来は絶対にありえぬことであるのだから。
この辺、ハッセがどういった交渉をしたのか涼太も知らないのだが、可能ならば、と頼んでみたところ、ハッセががっつりと許可を取ってきたのである。
涼太たちがこうして情報収集をしているのにも意味はある。
この後で涼太たちはアーサに向かうつもりであるのだが、国の統治方法や国内の雰囲気などはランドスカープよりもハーニンゲの方がアーサにずっと近いと言われていて、事前にここを知っておけば、いざアーサに入った時の選択肢が増えると思ったのだ。
そして書類を探すとなれば、それぞれの行政府の人間が案内についてくれるのだが、涼太にとっては到底許し難い問題にぶつかってしまう。
『書式が全く統一されていないっ! せめても同じ行政府内では統一しとけよ! 書く人間によって書式が変わるって意味わかんねーって! つーか同じ奴が書いても変わってる時あるとかぶっ殺すぞてめえら!』
涼太の脳内ツッコミがとても口汚くなっているのは、数字一つ拾うだけでも馬鹿みたいに時間がかかってしまうためだ。
これを全て自分の頭の中だけで整理できるほど脳に自信のない涼太は、拾った数字を丁寧に紙にまとめていくのだが、それを見ている案内人は毎回言うのだ、その紙の持ち出しは許可できないので、後でこちらに寄越すように、と。
既にここで三か所目だが、全部で同じことを言われた。
『こいつは良い、なんて顔でそーいうことを言うな! せめて体裁は整えたんだから本音はきちんと隠しとけ! つーか俺がやる前に自分たちで整理しとけっ!』
不機嫌顔が表に出てしまっている涼太に、苦笑しつつも少し心配したように女性が問うてくる。
「抗議、します? とはいえ、その紙を持ち帰るのは流石に無理だとは思いますが……」
「言ってることは道理だし、これも俺が頭の中でまとめるのに使ってるだけだから欲しいんならくれてやっても構わない。俺が腹が立ってるのは、そもそもこんなぐちゃぐちゃな管理してんじゃねーって話だよっ」
「それは、まあ、リョータ様のように過去の資料を見返そうという機会が少なすぎるせいでしょうね。後、リョータ様のそのまとめ方、ランドスカープの書式ですか? とても綺麗で読みやすいものですね」
女性が問題点を明らかにしつつ、涼太の意思を問い続けていくと、自然と涼太のいら立ちも収まってくる。
自分で言っている通り、涼太がこの資料を見るのはそもそもかなりの無理筋であり、文句を言う筋合いではないと涼太自身もわかってはいるのだ。
そして女性がほほ笑む。
「私もお手伝いしますから、頑張って終わらせてしまいましょう」
そう言われると、涼太も素直に気を取り直して作業に戻る。
こういう作業は残る四人の護衛も手伝おうとはしてくれるが、実際にやってみるとこの女性が一番上手い。というか、彼女が飛び抜けて頭が良いと思われる。
それでいてあまり表に出ることもなく、自身が優れていると周囲に思わせぬように立ち回るのだ。
こういう優れた人物と共に仕事ができるというのなら、行政府での不満もあまり気にならなくなってくるのが涼太という人間である。
気が付けば五人の護衛の中で、涼太が一番話をするのはこの女性ということになっていた。
その女性は、元娼婦である。
それも最も高価な娼婦であり、その身請けにはそれこそ国の予算かと思われるような額が必要とされるほどであった。
そんな彼女を身請けしたのはハーニンゲ領の諜報組織であった。正に国の予算で買い取られたのである。
最高級の娼婦というものは、当代で最高級の教養を要求されるものだ。その中でも彼女は特に優れた頭脳を持ち、強靭無比な自制心を誇る。
また長く娼婦を続けていたこともあって、対人交渉能力も高く、女性諜報員としてはこれ以上ないというほどに適任であった。
イデオンは自身のツテを活用し、領主の諜報組織より彼女を借り受けることに成功した。
それが、今涼太の五人の護衛の一人となっている、彼女である。
「どのような展開になるにせよ、同行者であるアレを押さえておくのは有効であろう」
イデオンは決して手を抜かない。やるとなればとことんまで準備をするタチであり、彼がこれまで積み重ねてきた成功も故あってのことだ。
だが、イデオンは知らない。いやさそれはイデオンのみならず、ランドスカープの者たちすら知らぬことだ。
涼太に対するこの手の仕掛けは、凪と秋穂に対して、最もやってはならない逆鱗そのものである、と。
普段、筋や道理を気にする凪と秋穂であるが、それらをすらかなぐり捨ててしまうであろう、正に急所中の急所である。
そして、急所を突いて倒せるのならばそれはそれで有効な手段であろう。
だが、そこの急所を突いたところで凪も秋穂も死にはしない。その行動を制するのも難しい。
何故なら、涼太がよほど他の女性に入れ込んだとしても、だからと親友である凪と秋穂を蔑ろにはしないであろうから。楠木涼太の精神には恋愛に対する強烈なブレーキが根付いている。
つまりこの行為は、凪と秋穂にとってはただただ、その怒りを買うのみとなる。それも、怒髪が天を衝くほどに。
もしそうなったら、相手がたとえギュルディやシーラやコンラードであろうとも、これを止めることは至難。
もちろんそれ以外の誰が何を語ろうと、一顧だにしないだろう。
これを画策した者。その手伝いをした者。そしておそらくは、これを黙認した者すら怒りの対象となろう。
真相を隠し通せればいい。
無理である。凪も秋穂も、涼太を頼らずとも人知れぬ諜報を行なうことが可能だ。それも、今の二人の身体能力から考えるに、ハーニンゲ領内に二人が忍び込めぬ場所なぞ、金庫の中や衆人環視中の公会堂ど真ん中等、物理的にそうできぬ場所ぐらいだ。
そもそも、真相なぞすぐに知れよう。何故なら涼太を篭絡したのであれば、その者は絶対に涼太を通して凪と秋穂を制しようとしてくるだろうから。
後はその指示によって利益を得る者を、片っ端から消してやればいい。
どの道、五人の護衛の一人に涼太が篭絡されたとなれば、ハーニンゲ領の領主側が関与しているのは明白だ。これを捕らえて口を割らせればそれだけで話は済む。
凪も秋穂もきっと、躊躇など一切しないであろう。
そして真相が明らかになればもうハーニンゲは終わりだ。
イデオンは元より、これを黙認した領主も、貴族たちも、この領地を統治する立場の人間がごっそりと消えてなくなる。
そしてそんな無法行為を座視しては独立領の意義が失われる。彼らはそのありったけを振り絞って凪と秋穂に、この行為を咎めにかかり、そして、ハーニンゲ領は滅びることになる。
今、ハーニンゲ領の命運は、たった二人の人間にかかっている。
楠木涼太が篭絡に抗し得るのか、はたまた彼女が涼太の心を掴み取るのか。
誰も知らないところで、ハーニンゲの民の命運をかけた戦いが始まろうとしているのだ。




