168.黒髪のアキホ対狼人マグヌス
王都闘技場は満員御礼。数万の観客たちは最上級の剣士たちによる殺し合いを、今か今かと待ちわびている。
そして、第一戦の剣士が二人、同時に入場する。
会場全体、割れんばかりの大歓声だ。西より出るは狼の顔を持つ男、獣人マグヌスだ。
それを本物の顔だと思っている者などほとんどいない。だが、ハッタリとしては十分に気が利いているソレを、観衆たちは好意的に受け止めているようだ。
そして、伝え聞く噂ばかりが肥大化していき、王都で聞かれるどんな噂もまるで現実のものとは思えぬようなシロモノになってしまっている、話題ばかりが先行している女戦士アキホである。
少なくとも、アキホはこの世の者とは思えぬほどの美しき女性であるという噂だけは、真実であったと誰もが認めた。
単独でこうして出てくると、恐ろしいほどに整った容貌だとわかる。
比較対象であるナギやシーラが傍にいると、それぞれと比べて穏やかそうだとか、気持ち丸顔だとか、そういった部分が気になるが、一人で出てくるともうその強烈な美の印象が、これこそが完璧なあり方である、と全ての者にねじ込まれてしまう。
それ即ち、秋穂の祖母が正しかったという証明であろう。
秋穂はその容姿だけで、多数の味方と無数の敵を作りうると。
そんな美しさにばかり目がいっている観衆たちとは違い、当の秋穂はといえば、不愉快げに観客席を見渡していた。
『嫌だなぁ、これ。この観客全員が一斉に弓とか射ってきたら、絶対にかわしきれないよ』
また、観衆の中に刺客が混ざっていたとしても、秋穂が事前にそれを見抜くのは不可能であろう。
『かといって、対戦相手のあの人、周囲に気を配る余裕なんてくれそーにないしなー。ある程度見切って動くしかないかー』
多数の貴族の利害が絡んでいる件であるからこそ、下手な真似はそうそうできない、それが鬼哭血戦というものだ。ましてや今回は多数の民衆までもが観戦しているのだから。
それでも秋穂は不満なのだ。つまるところ、貴族同士の信義云々なんてもの、秋穂は全く信用していないのである。ギュルディがこの状況下で全てを監視管理できる、なんて楽観もしていない。
『やっぱりコレ、今回のが無事に終わったら二度とやんない』
そう考えて、対戦相手を見る。
狼の顔だ。なので全然表情がわからない。
両者が闘技場中央に歩み進む。秋穂はちょっと驚いた顔をした。
「ねえ、武器は?」
「俺の武器はコレだよ」
獣人マグヌスはそう言って自身の手から腕までを覆っている大きな金属の籠手を見せる。
全身を金属の鎧で覆った上で、その両の籠手だけは他の部位と意匠が異なっている。
頭部は上と側面と後方をこちらも金属の兜が覆っているが、前面は大きく開いている。視界を確保することを優先したのだろう。
対する秋穂はいつもの通り、簡素な革鎧に数か所を金属で補強したものを身に付けていて、腰から反りの強い片手剣を下げている。
「ふぅん」
秋穂に慣れている凪や涼太なら、これが秋穂が怒った合図だとわかったはずだ。
無手の技も各種修めている秋穂は、やはり武器を持った方がより強いものだと考えている。なのでこれは、なめられた、と受け取ることになるわけだ。
どうしてくれよう、とマグヌスを見ながら、秋穂は剣の間合いから数歩離れた距離で足を止める。マグヌスも当たり前にそうした。
『んー、なんか、普通。武器無しなのに、この間合いで立ってても全く違和感がない』
今はもう、開始の合図待ちだ。
なのに彼は全くの自然体で。入れ込んだ様子もなければ、緊張の気配も感じられない。
戦闘の前に、こうまでソレを感じさせない相手は秋穂もあまり経験がない。
戦闘開始の合図が聞こえた。それは声を闘技場中に届ける魔術道具を使った解説者が、大きな声でそう叫んだことで合図となる。
直後、そんな解説者の声を塗り潰すような勢いで会場中が歓声に沸く。
『っ!?』
秋穂は既に戦いに集中している。開始の合図の前からだ。
だが、この大歓声はさすがに無視できない。耳から入る予定の情報が全く聞き取れない。
大地を歩く音、そのたった一歩分だけでも相応の情報となるものだ。ましてや今は戦闘開始直後。戦闘態勢に入った相手の情報を、少しでも多く入手したい時。
そんな秋穂の意識の乱れを、更に乱すのがマグヌスの行動だ。
無造作に、しかし無警戒ではなく、マグヌスは歩を進める。あっさりと剣の間合いの内に入ってきた。
ほんの僅かに秋穂の反応が遅れたのは、この期に及んでマグヌスからは戦いの気配が感じられないせいだ。だが、そういう踏み込み方をする者を秋穂は知っている。凪と手合わせする中で、何度これで痛い目に遭わされてきたか。
そんな凪の気配もない踏み込みと、同質、同等、そう言って過言ではないほどに、マグヌスの全身から戦意らしい気配は感じ取れない。
『こんのっ!』
攻撃ではなく、退かせる意図で剣を振る。
速く、ではなく重い一撃だ。受ければ弾けるし、かわすのなら連撃の準備がある。
マグヌスの重心は高い。その体勢で片腕を上げて秋穂の剣を受けにかかる。見るからに頑丈そうな手甲だが、秋穂の一撃ならば金属だという理由だけでこれを防ぐことはできない。
だが、ガイン、という音と共に秋穂の剣が弾かれた。男の腕は動かず、打ち込んだ秋穂の剣のみが弾かれたのだ。
直後、秋穂の視界が激しく歪んだ。
振動だ。
視界が上下に揺れている。そのせいで、マグヌスの姿もまたブレて見える。
『あ』
ブレたままの視界でも、すぐ近くにまで寄ってくれれば見える。巨大な、鉄の拳がある。
見えた瞬間、秋穂の意識は明滅を繰り返す。今度はもうまともに何も見えないぐらい、視界が激しく動いた。
揺れが、縦揺れから横揺れに変わった。
身体が何処にあるのかわからなくなる。
今、自分は何をしているのか、見えないし感じられない。
軽い衝撃。それは、秋穂の足が自身の意識とは全く別のところで勝手に動き、崩れる自身の姿勢を踏ん張って支えたことにより生じたものだ。
そのおかげで身体が固定されるも、視界は揺れている。身体の感覚はないまま。意識は、朦朧としたものであるが、こういう状態に、柊秋穂は慣れている。
『んなあっ!』
はっきりとは敵が見えぬままに剣を振る。倒れかけた相手にどうやって追撃するか、に対して有効な剣の振り方をする。案外に、低く倒れかけた相手に対しての攻撃方法とは多くはないものだ。
その一閃で敵が下がってくれたと仮定して、秋穂もまた一気に距離を空ける。
多分その辺にいる、と決めつけて秋穂はそちらに身体を向け、顔を向ける。剣を突き出し、いつでも反撃してやるぞ、と威嚇しながら。
呼吸を、一つ、二つ。
どうにか、意識がはっきりとしてきた。そうするとマグヌスに何をされたのかもわかってくる。
最初に右拳。予備動作もほとんどない恐ろしく速い一撃をもらったことで視界がブレ、そこに左のストレートをまともにもらった。
そして見えなかったが、半歩踏み込んで右のフックを叩き込まれた、といったところだろう。
秋穂は驚愕を顔に出さぬようにするのに相当な努力を強いられた。
『ボクシング!? 冗談でしょ!』
恐らく、観戦している凪も驚いていることだろう。
今のはジャブから始まるボクシングのコンビネーションだ。そしてもう一つの驚くべき事実に気が付く。
『それを! 私に通じるレベルで! 全身金属鎧をつけながら動けたっていうの!? めっちゃくちゃ速かったんだけど!?』
中世らしき異世界で全身金属鎧の男に、いきなりボクシングなパンチをぼこぼこぼこ、と叩き込まれるなんてさしもの秋穂も予想だにしていなかった。
そして秋穂のブレた視界が戻ると、対戦相手であるマグヌスも随分と驚いた顔をしていた。
「嘘だろ? 初見でコイツに対応するか普通? しかも寸前で急所だけは避けやがったぞコイツ。おい、お前、誰かに俺の戦い方を教わっていたのか?」
回復の時間がもらえるのなら望むところであるので、秋穂は彼の会話に付き合ってやることにした。
「その戦い方は元から知ってたよ。ただ、それができる人がこの国にいるなんて思ってもみなかったけど」
「なんだと? おいふざけんな、コレは俺の、人狼となり果てた俺だけの戦い方だ。俺以外にコレができる奴がいてたまるか」
「素手での殴り合いに特化した戦い方だよね? ボクシングって名前、知ってる?」
「……信じられねえ、本当に、俺の戦い方を他にもやってる奴がいるってのか? そういう流派があると?」
「信じられないのはこっちだよ。ボクシングってね、長い年月をかけてたくさんの人が戦い方を研究してできあがったものなんだよ。それを、君が個人で、ここまでの形を作り上げたってこと?」
「師はいる。が、師の教えを実践できるようになったのは狼人と化して後だし、少なくとも今の連撃は俺が自身で編み出したものだ。まいったな、まさか、この技を師以外に知っている者がいようとは……」
「ソレ、君的には困るところじゃないと思うよ。正直、凄いと思うし。ああ、うん、でも、凄いと思っちゃったからこそ、腹立ってきたなぁ。すっごく頭にきたかもしんない」
秋穂は剣の柄と剣先をそれぞれの手で掴む。
そのまま、膝の上に剣の腹を叩き付けると、その一撃で剣は折れ欠けてしまった。
「私もね、武器使わないの、得意なんだ。いいよ、そっちが使わないんなら、私も使わないし」
残った剣の柄を後ろ手に投げ捨てる。
「あー、ホント、殴られるのって斬られるより腹が立つ。斬っても気分晴れないだろーから、私も絶対にぶん殴ってやる」
大観衆からは秋穂のこの行動に熱狂絶叫雨霰であるのだが、秋穂の意識は完全にマグヌスに向けられてしまっており、凄まじい勢いとなった歓声にも一切注意を向けることはなかった。
不知火凪は、剣士控室で待っているのも退屈なので、出場剣士用の観戦席に出向いて秋穂の戦いを見ていた。
同じ理由でアルフォンスとコンラードも一緒に来ている。シーラは、闘技場にて来ている者に用事があるとかで席を外したままである。
エルフジジイ、イェルハルドは誰にも何も言わずに姿を消していた。このクソジジイに本気で隠れられると、アルフォンスが魔術を使ってもどーにもならないらしい。
凪は秋穂が危機だというのに、呑気な口調であった。
「いっやー、強いわねーアイツ」
秋穂が剣を捨ててから、両者の戦いは無手での殴り合いに切り替わった。
それも、手数は圧倒的にマグヌスが上だ。
秋穂は構えも変えている。半身の姿勢のままで、両手を顔の前に上げ、手は半開きにした形だ。
こうでもしないと、マグヌスの最も速い右拳が防げないのだ。
アルフォンスは低い声で唸る。
「うーむ、あのような戦い方はちと記憶にない。だが、恐ろしいほどに技が練り上げられているのはわかる。むむむむむー、アレとは是非とも私がやってみたかったな」
コンラードは呆れ顔だ。
「敵だってんなら相手してやるが、望んでそうしたいとは思わん相手だな。あの速さは俺にはちっと手が出せそうにない。アキホはよくもあんなのに合わせられるな」
じっとマグヌスの戦い方を見つめながら、凪は彼の戦い方の背景を想像する。
そして、あの全身鎧が鍵であると気付いた。
『そっか、あの全身鎧で刃も防げるから、正中線が見えなくなるぐらい半身になって身体を武器で隠したり守ったりなんてことしないでもいいんだ』
だから右前の構えではあれど、秋穂がそうしているような深い半身ではないため、右の拳のみならず左の拳も使いやすいのだろう。
あれだけの重装備をつけていながら身軽に動ける、というのがあの戦い方の大前提だ。それでも武器を使った方が効率的だとも思えるが、凪はマグヌスの拳のもう一つの可能性に思い至る。
『膂力に自信があって武器を使わなくても一発で仕留められるんなら、拳足を守るていどの鎧をつけてぶん殴るのが一番回転が速い。それはきっと、対集団戦闘ではより効果的な戦い方になるんでしょうね』
対軍剣術なんてものを考えている凪だからこそ思い至れた発想である。
本来、ボクシングの技術は武器を持った相手には相性がよろしくないはずなのだが、それを鉄鎧で補っているのだろう。
とても機嫌よさげに笑う凪は、ここまでどう見ても不利な展開でしかない秋穂の戦いにも、不安があるようには見えない。
「いいじゃない。同門とはいえあのレスクって女の子とはまた違った強さがある。油断しちゃ駄目よ秋穂、ソイツ、まだまだ奥の手隠してそうだからねー」
鬼哭血戦十番勝負、その緒戦はのっけから大きな盛り上がりを見せている。
全身鎧の狼顔が、とんでもない速さで、それも素手で剣を相手に先制を食らわせてやると、対戦相手の美少女がその気概に応えるといわんばかりに剣をへし折り投げ捨てた。
そのまま両者の殴り合いが始まった。
まず観客が驚いたのは、狼人マグヌスがあの天上の逸品とも言うべき美しきアキホの顔を、全く躊躇せずぶん殴ったことだ。
だが、アキホもそれを苦ともせず、厭う様すら見せずに雄々しく殴り合っている。
秋穂が上段に上げた両腕は、マグヌスの鉄拳を何度も何度も受けながらも折れる気配すらなく。
手の平で止められた時はもう、拳打の衝撃全てが吸い込まれてしまうかのようだ。
ならば、とマグヌスは更に半歩踏み込んで胴を打ち抜きにかかるが、これは肘を落としてきちんと防いでくる。
『コイツッ! 本当に防ぎ方知ってやがる!』
辛うじて通用するのは、肩をほんの少し動かし重心を移動させることで、打つ、という気配のみを見せつつ敵の防御を誘い、その結果できた別所の隙をつくやり方だ。
これはそれこそ師匠を相手にした時ぐらいしか使わなかった技術だ。よほど勘の良い相手でもなければ、マグヌスの打つという気配を察し即座に動いてくれないのだから。
ただ、そうやって数発の拳をねじ込んだのだが、最初の時もそうだったが秋穂はマグヌスの、魔術により強化された手甲にてぶん殴ってもそれだけでは終わってくれない。
『ああ、くそっ、受けられた感触でわかる。コイツ、今の俺と膂力で差がほとんどない。どういう生き物なんだよコイツ』
そこで気付く。マグヌスは元々こんな膂力があったわけではない。だから技を磨き鍛えたのだ。そして今こうして人の域を超えた膂力と頑強さを手にしたが、もし、元からそんなものがあったのならきっと、こうまで技術を磨きはしなかっただろう。
『なのに、なんでコイツはここまでの素材持ってて、俺と技で勝負できてんだよ』
マグヌスの頭に血が上っていくのがわかる。
マグヌスは背はそこそこの高さがあったが、身体に肉がつきにくい体質で、どうしても身体の性能差で他の戦士たちに劣ってしまっていた。
同門のレスクなぞはその最たるものだ。女であるという性別以外、その巨大な体躯も頑強な肉体も人並外れた膂力も、全てが嫉妬と憧憬の対象であった。
だがマグヌスはその類まれな技量を、アーサの王族の者に見出されたのだ。
人を捨てる覚悟があるのなら、人の身では決して届き得ぬ高みに連れていってやろう、と彼はマグヌスに言ってくれたのだ。
『届いてるのいるじゃないですか! ほらここに! 俺とほぼ同じ膂力ありますよコイツ!』
思わず心中で彼につっこんでしまう。
ただ、マグヌスが一番腹が立っているのは、実はそこではない。
『今の俺と同じ膂力、頑強さを持つ相手に負けたりしたら、俺が技でコイツに劣ってるみたいだろうが』
それだけは断じて認められない。
かつてさして恵まれぬ体躯でありながら頂点を目指し鍛え上げた時間が、創意工夫の日々が、そんな事を絶対に許してはくれないのだ。
「お前には! お前にだけは! 絶対に! 負けん!」
さんざん殴り合ってきた結果、秋穂はマグヌスという人物の武術をそれなりに把握することができた。
昔、祖母とその友人に教わったボクシングほどには、洗練された技術ではなさそうだ。
また時折蹴りが混ざってくる辺りは、ボクシングというよりキックボクシングやムエタイを思い出すが、マグヌスの蹴りは鉄の足甲の爪先をつかって秋穂の脛を削りにくる感じであり、こういった蹴り方はむしろ秋穂の中国拳法の技に似たものがあった。
『ホント、何が飛び出してくるかわからないからおっかないよ』
秋穂は祖母から、様々な格闘技を学んでいた。
それらの技術を自分で使えるようになる、というものではなく、知識として、もしくは実際に体験して、様々な武術にどう対処すべきかを学んだのである。
そんな中で祖母は言っていた。
「たとえば。ボクシングでもなんでもいいさ、今のリングの上でわちゃわちゃやってる格闘技と真正面から殴り合ってみな。中国拳法がびっくりするぐらい不利だから」
「え」
中国拳法の型の大半は、そのまま武器を用いても使える動きである。剣を、槍を、棍を、そういった武器の使用を考え、また武器を使用されることを考えて作られたものだ。
なので、敵は絶対に武器を使ってこない、鎧を着こむことはない、もちろん自分も絶対に使わない。そういった前提で組み上げられた技術体系と比べて、武器を一切使わないという前提条件で競い合ったらそりゃ不利に決まっているだろうと。
「だから、そういった格闘技やってる奴とぶつかった時は、そこらにある、何でもいいさね、棒でも椅子でも。刃がありゃもっといい。それを使えば逆にびっくりするぐらい簡単に勝てるようになるよ」
特に刃がいいらしい。大抵の格闘技は、ナイフでも錐でも包丁でも、そういった腕や足で防ぐことができない道具を持ち出されると、すぐに防御が破綻してしまう。
少なくともこれらの武具をいつもの型の延長で用いることのできる中国拳法の敵ではないだろう。
もちろん相手が、腕や足、胴に刃を防ぐことのできる何かを仕込んでおけばその限りではない。マグヌスは正にソレである。
『殴る蹴るの格闘技を戦場で通用させるために鎧を着てるんじゃなくて、鎧を着て刃を防ぐという前提があった上で敵の防御を潜り抜けやすい戦い方を選んだ結果、っぽいのが面白いところだよね』
珍しい武術であっても、この世界の武術は花拳繍腿とは程遠いものだ。戦場が近いのだから当然であろうが、元の世界とのそんな違いは、秋穂にとってはとても好ましいと思えるもので。
『でも、それはそれとして殴るけど。頭きてるし』
秋穂は自身の姿勢を低い位置に落とし構える。
その状態で、秋穂は前の足でマグヌスの前足を蹴りにかかるのだ。
上から振り下ろす形になるマグヌスが有利、に見えがちではあるが、秋穂はその姿勢から更に低い、拳打が有効でなくなる高さにまで落とすことができる。そうできるほどの強靭な足腰の持ち主だ。それは幼い頃より祖母に徹底的に鍛えられてきた場所でもある。
そして、その位置からでも秋穂の蹴りは十分に有用なほどの威力を持つ。
それまでは圧倒的手数差があった秋穂とマグヌスであったが、秋穂が戦い方を変えた途端、今度は秋穂が一方的にマグヌスを攻める形になる。
六度蹴られた後、マグヌスはたまらず右前から左前へと構えを切り替える。右足の足甲は傍目に見てもわかるぐらいべこべこにへこんでしまっている。
また重心を後ろに残し、秋穂の蹴りに、左足の動きで受けの形を取れるよう整える。
それでも対応しきれたとはいえない。武器があれば秋穂の今の低さにも有効な攻撃をしえたのだろうが、拳では間合いが短いし、今の秋穂と蹴り合うのはマグヌスには難しいだろう。
痛打ではないが、細かく積み重ねるような一撃を繰り返し、マグヌスはどんどん追い詰められていく。
マグヌスは、博打に出ることにした。
秋穂の蹴りの間を測り、低い位置にある秋穂の頭部を蹴り飛ばす機を窺う。低い位置に頭部があるのだから、これを蹴り飛ばすことができればほぼ一撃必殺となろう。
いや秋穂のタフさならば必殺ではないかもしれないがそれでも、その後連撃に繋げることを期待できるぐらいには強烈な一撃となろう。
拳をけん制に足にて蹴りを防ぎ、じっと機を待つ。
そしてマグヌスは、秋穂が見せた隙に飛びついた。ソレを罠だと知っていながら。
『ここっ!』
『かかったな!』
マグヌスの受けに専念する姿勢から、秋穂が大きく動いて前足を一発で潰す蹴りを放たんとする。
この大きな動きに被せるように、マグヌスの一直線に貫くような前蹴りが、秋穂の頭部目掛けて伸びる。そう、伸びかけた。
斜め前方へと大きく飛び出す秋穂。低い低い姿勢でありながら一瞬でそんな動きができてしまうのが、秋穂の足腰の強靭さである。
マグヌスの前蹴りを脇の下に通し、自身の拳をマグヌスの顎へ、伸びあがるように叩き込みに動いたのだ。
『伸びて、ない!?』
マグヌスの蹴りは、惑わしであった。そう見せるために重心移動をしながら足は伸ばさぬまま。
伸びあがりながら懐に踏み込んできた秋穂に対し、下からすくいあげるように腕を振り上げる。足を振り上げてないのだから、秋穂が迫るよりマグヌスの腕が下から振り上げられる方が先だ。
またコレあるを読んでいたマグヌスは、秋穂の拳を顔脇に通すようにかわしつつ、秋穂の胸の下、両脇の下に引っ掛けるように腕を振り上げる。
『んにゃああああああ!』
秋穂の内心の悲鳴は、まさかまさかのマグヌスの動き故だ。
片腕のみを使い、秋穂の重心を下から抱え上げてみせたのだ。そう、この男、投げ技も使うのである。
前へと踏み出してきた勢いのせいでかわすこともできず、完全に秋穂の身体が宙に浮いてしまう。
こうなってはもうどうにもならない。そしてマグヌスは投げを使う以上、その先もある。
『投げて、極めて、終わりだ!』
一対一、絶対に邪魔の入らぬ決闘ならではの戦い方だ。状況に合わせ戦い方を最適化することも、優れた戦士の力量の表れだろう。
だが、秋穂は投げも極めも、知っているのだ。
『なんとおおおおおおお!』
空中にある秋穂は、マグヌスの腕を掴みながら全身を思い切り振り回す。
猫の立ち直り反射、なんて理屈を知っているわけではない。だが、空中でどう力を入れればどう動くかを、秋穂は経験で知っている。
ぐるりと秋穂の身体が回り、両腕はマグヌスの腕を掴み、片足がマグヌスの首に引っ掛かる。そこから。
『がっ!』
空中で身体を大きく反らす秋穂。音はない。だが、マグヌスの腕はあってはならぬ方向に曲がってしまった。
当然投げは失敗だ。しかし秋穂は顔面から地面に落下したせいで、観衆からは投げが成功したかのように見えている。
マグヌス、折れた腕とは逆の腕で秋穂を極めに動くが、片腕が動かぬと知っている秋穂は、冷静にマグヌスの動きを捌き、後ろに回り込んで首を極め、そのまま締め落とした。
勝った。それを、心の底から安堵し、感激できる好敵手であった。ほんの一瞬の差が勝敗を分ける。そういう恐るべき敵であった。
だからこそ秋穂は、観衆やこの鬼哭血戦自体に全く好意的でなかったにもかかわらず、つい、そうしてしまった。
決着の歓声を上げる観客たちに、拳を握って片腕を頭上へと突き上げてみせたのだ。
闘技場を後にし、控室へと戻った秋穂。そこには参加剣士用観戦席から戻った凪がいた。
「なんていうか、決闘っていうかこれ、もうそのまんま総合格闘技の試合みたいだったわね。決着も含めて」
「決闘って聞かされて出てきたのがコレだもんねえ、びっくりだよ。……以前に凪ちゃんの飛びつき腕ひしぎ食らってなかったら、最後のアレ絶対もらってたと思う」
「あれ秋穂は練習もしてなかったでしょうに。危ないことするわね」
「こっちも必死だったんだよ。あーもう、もんの凄い強い人だったなー」
「剣を捨てたのが悪い、とは言い切れないものがあるわね。アイツ相手だと、秋穂なら剣捨てたのは必ずしも悪手じゃなかった。てか、どうしてアレ殺さなかったの?」
それは秋穂も考えていたことらしい。考えていたことなのだが、答えは出てこない。
なので咄嗟に思いついた言い訳を言ってみることにした。
「まだ、私あの人殴ってなかったんだよね。だから次が欲しいなって」
自分で言ってて馬鹿らしい理由だとも思うが、口にしてしまうと案外にこれこそが真実であるという気もしてくる。
次がある、というのは本当に良いものだと思えたのだ。




