144.寄り道、完了
聖地シェレフテオの守護者、カマルクの血族の中でも、特に別格な能力を得ることに成功した女アスタは、その日の朝、目が覚めた時から既にぬぐえぬ違和感があった。
理由もないのに妙に落ち着かず、今すぐ何かをしなければならないような、追い詰められているかのような、据わりの悪さを感じていた。
『何かしら……今日は、特にこれといって特別な用事もなかったはずだけど』
カマルクの血族は、一族が秘中の秘とする儀式により、通常では考えられぬ能力を得ている。
その中でもアスタは、近接戦闘が劇的に有利になる能力、極めて短時間の未来予知が可能なのだ。
相手が視認できているのであれば、アスタに勝てぬ相手はいない。もちろん、この能力を最大限に活用すべく、アスタの日々は鍛錬の積み重ねである。
その能力の延長か、アスタはやたらと勘が良い。良い予感、悪い予感、具体的ではないがそんなものを感じ取ることもできる。
だが今日のコレは違う。何も感じることはない。良い予感も、悪い予感も、何もないのだ。それでいて焦る気持ちばかりがある。
結局一日中違和感はぬぐえぬままで、翌日の昼過ぎ、アスタは一族の頭領に声を掛けられた。
アスタの様子を見て、頭領は表情を険しくする。
「何か、嫌な予感でもあるのか?」
アスタは返答に困った。嫌な予感がする時は頭領に言うよう言われているアスタだが、昨日今日と続いているこれは決して嫌な予感ではない。
困った顔でアスタは自身が感じていることをそのまま頭領に告げる。表情には出していないが頭領も反応に困っているようだ。
「そうか。妙な先入観を持たせたくはなかったんだが……今、シェレフテオにエルフが来ている。それも、街にとって極めて重要な相手らしい。お前から何かあるかと思ったんだがな」
アスタは首を横に振る。
ならいい、と頭領は別の者を呼びに向かった。
今、アスタの未来予知の力は、周辺一帯で最も恐るべき、聖地全体と比してすらより上である個人、エルフのイングに向けられている。
アスタには理解すらできぬ長き時を生き、神と崇められてきた圧倒的上位者を相手に、アスタの予知なぞ通用するはずもない。
そもそもが予言に特化した存在であるドルイドならば、相手が何者であろうとその予知の力を封じることなぞできぬものだが、あくまで突然変異的に生じたドルイドの紛い物でしかないアスタにイングを読めというのは無理があった。
アスタがずっと不安に思っていたものの正体がこれである。今、アスタが無意識に頼っていた予知の力は、その強大さ故に全てがイングに向けられており、そのうえでそれらが通用せぬ、となってしまっている。
アスタが不安を感じていたのは、常日頃からアスタを守ってきた、アスタに先を報せてきた、予知の力が失われてしまったせいであった。
おかげで、その先に待ち構える未来を、アスタは感じ取ることができなかったのだ。
カマルクの血族であるドーグは、その相手を見抜く目の鋭さから、常日頃様々な場面に連れ出されてきた。
聖地シェレフテオという土地柄、ドーグの身分では到底お目にかかれぬような相手をすらその目にしてきたのだ。
だからこそ、どんな相手を見ても決して動揺せぬよう自らを律してこれたし、今この時も、そうできたのだ。
ドーグの隣で、魔術師二人が隠すことすらできず、全身を恐怖に震わせている。
どちらも、ドーグと同じ役割を何度か担ったことがあったはず。自制心に富む、優れた魔術師であった。
『だが、これも已む無しか』
全く表に出していないが、ドーグもこれまで一度も経験したこともないほどに、驚いてはいたのだ。
ほんのわずかの間、イングと名乗るエルフは魔力を放出した。当人曰く、それまで抑え込んでいたものを少し出しただけらしいが、魔力の波に押し流される錯覚を覚えたのはドーグだけではあるまい。
また魔力の質にも問題があった。それは、聖域を構成する魔力そのものでもあったのだ。同行している管理者一族の者たちは、あまりの驚きに言葉もないようだ。
『事前に話を聞いていたが、それでもこれは驚愕を禁じ得ぬ。エルフとは、まるで神そのものではないか』
隣のもう一人のエルフ、スキールニルと名乗った彼女は比較的常識的な魔力の持ち主である。とはいえ、ランドスカープ史上における上位三人の内の一人、とかそういう次元の話である。それでもまだ人間と比較が可能だ。イングに関しては比べる気すら起きない。
またスキールニルは明らかに武術を嗜んでいる。ドーグが十人で挑んでも瞬殺されるぐらいには。
管理者一族の一人が、視線でドーグの評価を問うてきた。
当人を前に言わせるつもりか、と思ったが、あまりに常識を外れた事態のため、少しでも情報を欲したのだろう。その気持ちも痛い程わかる。
ドーグは小声で告げる。
「あの、イングというエルフの方お一人で、聖地シェレフテオの全ての戦力、いやさ住人に至るまで、何もかもを一切合切消し飛ばせる、そんな相手かと。間違っても人と同じと思ってはなりません。或いは地揺れ、或いは津波、或いは噴火、そういった人知の及ばぬモノと心得なされませ」
ドーグの小声を耳を寄せて聞いていたもう一人が、震える声で言う。
「そ、それはつまり、あのお方こそ、大神ユグドラシルで、あらせられる、と……」
「そうであったとしても、私は驚きません。もしお言葉の通り、放出したのが魔力の一部でしかないというのなら、それはこの聖域全てと比するほどの膨大な量でしょう。あのお方ならば確かに、聖域を作り直す力があると言われても納得できます」
ちなみに魔術師二人にもドーグと同じ測定と解説の任があったはずだが、どちらもあまりに大きすぎる魔力にあてられて何もできなくなってしまっている。
エルフ一行は全部で六人と聞いていたが、この場にいるのは三人、イング、スキールニル、そして案内人である人間のキースのみだ。
案内人のキースは随分と気安くイングと話をしている。
だがこの魔力を見せられて、そうできる度胸の持ち主はシェレフテオ側にはいない。いるわけがない。
シェレフテオ側全員が冷静とは到底言い難い状態でもどうにか話し合いが進められたのは、このキースという男が怯えるこちらに気を配ってくれたおかげだ。
そして管理者一族の者たちも、畏れ怯えながらだがその立場に恥じぬ立ち回りをしてくれた。
話を一度持ち帰るということであるが、恐らくは明日にもイングが聖域に入る形になるだろう。エルフの善意を信じる、という意味ではなく、抵抗が無意味だと理解した、という意味で。
ふと、管理者一族の内の一人の表情が気になった。
恐れている。怯えてもいる。だが、表情にそれ以外の色が見える。
果たして彼は、話すべきことを話し終えた者たちがそそくさと退席しようとする中、一人残って話が聞きたいと言いだした。
ドーグ以外の全員が、正気か、といった顔をする。だが、彼は神話に語られる時代の話を聞きたい、だそうだ。彼は熱心な研究者でもあった。
「あ、俺もそれちょっと気になってる」
とかキースが言い出したせいで、その後も話は続くことになったようだ。
他全員、こんな恐ろしい場所に長居なぞしたくはない、とさっさと宿を出ていった。
ドーグは首を横に振る。
『いやはや。学者の知識欲とは、こうまでの無茶をすら許容するものであったか。一つ機嫌を損ねただけでシェレフテオの街ごと全て消し飛ばしてしまえるような相手を前に、よくもまああんな真似ができたものだ』
あのエルフが大神ユグドラシルである、という恐らくは事実を、関係者全員がまだ飲み込めないでいる。
何百年にも亘って語り継がれてきた最も尊貴な出来事を、改めるのは容易なことではないのだ。
それはこの後に行なわれた管理者一族の話し合いの中で、一族の長が語った言葉がよく表している。
「エルフのイング殿は、大神ユグドラシルに連なる者として、公にはできぬがこのシェレフテオにおいては新たな聖者として扱う。あのお方の持つ聖なる威風にはこれを疑う余地がない」
問題はこれを聖都にどう報告するかだが、聖者認定はあくまでシェレフテオのみでのことであり口外はせず、大神ユグドラシル降臨当時を知るエルフを通して貴重な証言を得ることができた、という話で通すつもりのようだ。
予定にはなかった学者の暴走をすら当たり前の顔で利用するのだから、聖地の管理者の長というのは、並の人間には到底務まらぬ至難な重責であるとドーグは納得したものだ。
またこれはイングの意向、つまり大神ユグドラシルであると周囲に公表するつもりはない、という言葉を慮ってもいる。
今こちらにその情報を提示したのは、あくまで聖域を張り直すという作業の正当性とそれが可能であることをこちら側に教えるのが目的なのだ。
その上で、長はかのエルフがこちらを裏切る可能性も排除せず、イングの聖域修復作業中は、カマルクの血族の配備を命じた。
あの力量の持ち主が相手とて、もし聖域を害する目的があったのならこれに抵抗しないということはありえない。
『その時は、我らが全滅するまで戦い、それを聖卓会議への言い訳に彼らは聖地を逃げ出すのであろうがな』
あの魔力の塊が来た時点で聖地の失墜をすら考慮せねばならぬ事態であると、聖地の管理者一族の長はものの一日で決断してみせたのだ。
正直、かの方こそ聖地の管理者一族の長として、歴代でも屈指のお方なのではないか、とドーグは思う。そんな方が聖地シェレフテオ数百年の歴史の中にあって最大の危機に長であったことが、彼らにとっての最大の幸運であったとすら思える。
カマルクの血族は戦士として働ける者の全てがここで死滅しようとも、この場で決死の忠義を見せることができれば、残った一族は決して無下にされることはあるまい。
血族の頭領も、長の言葉に改めて覚悟を決めることができたようであるし、後は、それこそ神に祈るぐらいしかできることはない。
『神に滅ぼされぬようその神に祈るか。まるで古き祟り神を相手にしているようだな』
神と身近に接するということがつまりはそういうことなのではないか、とドーグには思えてならないのである。
聖地の管理者一族の長は、完全にその配下を掌握しているようだ。
あまりにイレギュラーなエルフのイングという存在を受け入れ、現実に対処する方法を模索し、これを実行しようとしているが、長は身内に足を引っ張られる恐れがあるのならば絶対に採れないだろう手段を選んでいる。
この世界の数多の組織、集団を覗き見してきた涼太は、そうできる人物が如何に少ないか、如何に優れているかをよくよく理解できた。
また王都圏の貴族たちの保養所や避暑地といった立ち位置を明確に確立し収益体制を大きく改善したのもこの長であり、聖地としての在り方はともかく、配下たちに繁栄をもたらすという意味では実に優秀な人物であると言えよう。
『シムリスハムン司教といい、教会組織の上には相当頭の良いのが揃ってるな。シムリスハムンで神父になる者は皆教育してるって話だが、コレだけ優秀なのがいるってのは、たくさんの人間を集団で教育するって形のおかげだろ』
人に物を教えるというのはれっきとした技術であるし、担当する教師の技能でもある。
多数の人間を担当することでその手法は精査され、これを共有することで更なる向上を目指す。そういった教育手法の進歩は、貴族がそうするように個人が個人を教える形でしかない家庭教師の形ではどうしても限界がある。
聖地の管理者一族は、つい先日攻めてやったスンドボーン大修道院とは違って、一族の者もシムリスハムンに送り出しこの教育を受けてから仕事に就いている。
それは一族による管理を破綻させる可能性も内包しているが、それでも他神父たちとの教育差からくる能力の差をこそ恐れたのだろう。
そしてスンドボーンとシェレフテオの管理体制をどちらも見た涼太としては、シェレフテオの管理者一族の判断が正しかった、と結論付ける。
『ま、スンドボーンはその辺を考慮したうえでも、望まれている役割が特殊すぎるって部分もあったけど』
つまり、シェレフテオの敵は手強いということだ。
それがわかっていて涼太にはやり方を変えることはできない。最終目標を見据えれば、ここで日和ることは絶対にできないのだ。
それに、どれだけ頭が良かろうと、どれだけ優秀な人材であろうとも、その理解の外からの刃となろう、不知火凪、柊秋穂の襲撃は、絶対に防げないものであると涼太は確信している。
防衛策も、もしもの備えも、どちらも彼らの常識の中で考え用意されるものだ。
たった二人で突っ込んで百の兵すら全滅させてみせる、そんな真似ができる貴重で大切な兵士を、本当に寡兵で百の兵に突っ込ませる馬鹿なぞ存在しないのだ。
戦に絶対はありえず。どんな圧倒的優勢な戦場にも、死の危険は必ずついて回るのだから。
ましてやどんな紛れがあるかもわからぬ敵拠点に放り込むなぞ、歴戦の兵の価値を知らぬ、極めて愚かな所業でしかない。
だから、凪と秋穂はこれまで勝ってきた。そこしか、涼太たちに教会のような集団を相手に勝利しうる可能性は存在しないと信じ、その手法が何処まで通じるか試すかのように挑み続ける。
『悪いなハンス神父。ここの教会の連中とは少し馴染んじまったけど、それはそれだ。俺たちは、お前らを殺す』
涼太たちの殺意は、イングのための交渉の後であろうと失われることはなかった。
結果から先に述べるのであれば、イングとスキールニル、そして涼太であるキースの三人が向かった聖域深部にて、無事に聖域の張り直しは完了した。
現金なもので、最初にイングを見てロクに仕事もできなかった魔術師の二人もこの張り直しに同行しており、イングの為した奇跡の魔術に大いに興奮していた。
同行した管理者一族の重鎮が、イングに対し確かめるように問う。
「では、また六百年後に張り直しが必要に?」
「ううん。今度は千年ぐらい持つんじゃないかな。ふっふっふ、いつまでも六百年前の私と同じと思ってもらっては困るよキミィ」
「そ、そうですか。あまりに遠大なお話で、その、千年後の世というものが想像できぬものでして……」
「さすがに私も千年後の世界がどうなってるかまではわかんないよ。ふふっ、昔はね、六百年も経つ頃には人間なんか身内で殺し合ってとっくに衰退してると思ってたんだ。それがまさか聖域の張り直しが必要になるとは思わなかったよ。頑張ったんだねえ、人間も」
にこやかに微笑むイングに重鎮は、人間全体を称えられたことが誇らしく、嬉しそうに微笑み返した。
和やかに話が進んでいる中、警戒に当たっていたカマルクの血族は、イングが聖堂を出るまで、いやもっと言えば聖域を出るまで一切油断するつもりはなかった。
そして聖域を出て、街の宿に戻るのを確認すると、ようやく人心地つくことができた。
血族の者の一人が、頭領にしみじみと語る。
「我らが神は、何百年も経った後でもこうして我らの聖域のことを気にかけてくださっていた。それが、私は、こう、言葉にできぬほど、感動いたしました」
「ああ、そうだな。本当に、その通りだ。我らがあのお方を警戒していたのもわかっておられたのだろう。それでも尚、すぐ傍でそうしていた血族の者にすらお声をいただいたのだから、あの方がとても慈悲深く人間を好んでおられるというのも信じられようものだ」
「なんと、そんな幸運に恵まれた者が」
「後であやつには自慢を自重するよう言わねばな。本気で妬まれる」
「当然です、私も妬ましくて仕方がない」
「うむ、無論私もだ」
はははと笑い合う二人。
神が何百年も後の世になっても気にかけている聖域を、守護する仕事を任されていることが誇らしい。
今日、イングを名乗るエルフが、大神ユグドラシルが、この地を訪れたことはこの件に関わった全ての者にとって秘中の秘とされる。
だが、カマルクの血族は全ての人員を動員しこれへの対処に奔走したのだ。誰もがこの件に関わり、そして神を知ったのである。
それだけで、一族がシェレフテオの闇に潜み、陰からこれを守護する日陰の役割を受け入れたことを、その決断を下した初代を、今の一族全員が称えてやまぬのだ。
そしてこれからもこの一事のみを頼りに、いつまでだってシェレフテオを守り続けられると信じた。
きっとその感動は、カマルクの血族だけではなくこの件に関わった管理者一族も共有しているものだろう。
聖域が失われる千年後まで、この聖地は何がなんでも守り抜くと遥かな未来に向け誓いを立てただろうことは、言葉を交わさずともわかったのである。
「さて、じゃあ次は俺たちの番だな」
「まったくもう、待ちかねたわよ」
「物事の後先って大事だし、私は納得してるよー」
涼太たちの襲撃を先に行なう方が問題もリスクも少なくて済んだ。だが、そうした場合エルフたちは涼太たちの行動を是認したと教会には認識されようし、エルフたち自身もそう認識せざるをえない。
だから、先にイングによる聖域張り直しが必要だったのだ。
結果多少の困難が増えることになろうが、それも涼太たちは飲み込んだ。
涼太は、イングやスキールニルにとっては人間側がどう見るかもそれなりに重要ではあるがそれ以上に、彼女たち自身がどう見るかが重要であると理解している。
だから彼女たち二人が、自分たちは人間を殺害することに加担した、なんて思うことのないよう、気を配ったのである。
『筋を通すってのは、そこに価値を認める者のために行なうものだ。大抵の場合、それは自分自身になるんだけどさ』
少なくとも、涼太がそうしたのは決して教会や自分のためではなく、イングとスキールニルのために、であった。