135.そのとき、ふしぎな事が起こった(涼太視点)
スンドボーンの街は、完全に教会領となっている数少ない土地であり、だからこそ、教会として兵を出す時は大抵、兵の供出を求められる。
なので教会の揉め事に関して、スンドボーン修道院長クレーメンスは常に注意を傾けている。
出兵させる兵数は状況によって五百から千の間であるが、今回、司教が殺されたということを考えるに最大の千を要求されるだろう。
「馬鹿馬鹿しい話だ」
教会の面目を考えるのなら、領主に兵を出させることで十分に面目は立つとクレーメンスは思うのだが、十聖剣が率いる兵というものを教会のみの力で揃えたいのだろう。
その十聖剣からして、剣術の腕が選出の重要な要素であるというのだから、クレーメンスはとても付き合ってられん、と思うのだ。
兵を動かすのと剣を振り回すのでは、必要とされる能力がまるで違うのだから、十聖剣に剣術を求めるのならこれに兵を率いらせるのは不合理なことだろう。
クレーメンスとテーブルを挟んで椅子に腰かけている大男、モンスも苦い顔をしている。
「まともに兵を動かしたことがあるのは半数もいない。その内の二人が早々に討ち取られているんですから、兵を出すこちらとしてはたまったものではありませんよ」
ヤーンは十聖剣として何度も兵を率いた経験があり、クリストフェルは十聖剣になる前から前線指揮官として活躍してきた男だ。軍務に関しては十聖剣の中でも上位に入る二人である。
苦労するのは、戦争経験の乏しい十聖剣を将として迎えた部隊の副将になる者だ。モンスは数度こういった立場をやらされたことがあるので、その面倒さはよくわかっている。
クレーメンスは首を横に振る。
「いや、今回はお前は出さん。お前は村の連中を連れてボロースに行け」
それだけでモンスはクレーメンスの意図を理解する。モンスはリネスタード侵攻により揺れるボロースの経済圏に食い込めと言っているのだ。
これをモンスに頼むわけだからそのための手段はもちろん、暴力だ。
「いいんですか? 俺が行かなきゃ教会に預ける千の兵、下手すりゃ全滅しますぜ」
「シムリスハムン司教が死んだのだ。そのていどのお布施は許容せねばな。それよりも、辺境に食い込める好機を見逃すわけにはいかん。今なら、お前たちが暴れたところで咎められる者もおらんだろう」
モンスのやり方は単純明快。その土地の狙いを付けた商品を取り扱う商人を殺し、代わりにモンスの息のかかった商人をここに配する。それだけだ。
シムリスハムンにはクレーメンスの影響下にある神父が多数いる。これを連れて土地に入り、土地の有力者との交渉を終えた後でならば、こんな無法も押し通せてしまう。
もちろん、その土地に強力な庇護者がいる場合はその限りではないのだが、庇護者たるボロースが失墜し、新たな庇護者であるリネスタードはまだ土地を把握しきれていないだろう。この隙をつくという話だ。
くへへ、とモンスは下卑た笑いを浮かべる。
「辺境にゃあ山ほど宝が眠ってるって話、ありゃ本当っぽいですね」
「ああ、田舎娘と馬鹿にしたものではない。今、王都で一番勢いのある娼婦も辺境の出だ」
「……運がなかったっすね。せっかくその娼婦を手配した連中と取引できるようになったばかりだってのに」
「ドルトレヒトは新たな街長になって随分と動きが鈍くなった。知っているか? あの街を拠点に娼婦を集めていた連中、娼婦をさらったことで怒りを買った地元の者たちに嬲り殺されたそうだ」
「なんと、まあ、もったいない。街長は止めなかったんで?」
「地元の怒りを抑えきれなかったようだ。あれではとてもではないが取引なぞできん」
「使える奴ってのは、なかなかいないもんですなぁ」
モンスは上目遣いにクレーメンスの表情を窺う。
「リネスタードと取引の予定は?」
「今の時点で口にはできん」
教会の一部であるスンドボーン大修道院が、教会との関係が破綻したリネスタードと取引なぞできるはずもない。ないのだが、リネスタードとの取引はそういったマイナス全てを吹っ飛ばしてしまうぐらい、魅力的なものなのだ。
実際、教会と縁の薄い領主などは、教会に対して遠慮しているように見せるぐらいはしているが、リネスタードとの取引を止めるつもりはないだろうし、むしろこれから取引を増やしていくだろう。
肩をすくめ、ぼやくように言うモンス。
「へいへい。んじゃあリネスタードが出張ってきたら引っ込む、でいいですね」
「うむ。それまではせいぜい暴れて名を売ってこい」
「はっはっは、修道院長は俺たちのそーいうところ理解してくれてるのがありがたいっすね」
モンスと彼の率いる一党は、教会直下の組織でありながら、違法無法を物ともしない非合法暴力集団である。こういった連中を抱えねばならないというところが、スンドボーン大修道院の難しさである。
そして、彼らの価値観は武侠のそれで。男として名を馳せるというのは、モンスとその一党にとっては極めて重要な指標であるのだ。
話しておくべきことを話し終えた後、モンスは言い難そうにしながら話を振る。
「修道院長。その、ですね。御嫡男殿のお話なんですが……」
クレーメンスは僅かに眉を顰める。
「ん? 例の勘違いした神父候補の件か?」
「いえ、それは終わってます。いやまあそいつが原因でもあるんですが……」
「息子のことでお前を咎めたりはせん。言え」
「神父候補を御嫡男殿がぶっ殺しちまった件は、修道院長が話をまとめてくれたんでそれでいいんですが。それで、ですね。ぼっちゃん、どうも色々と勘違いしちまったみたいで。修道院長がいるんだから、気に食わない奴はぶっ殺してもどうにかなる、と」
「いや、そこまで愚かではなかろう」
「ええ、そうですね。誰でも、とは思ってないでしょうが、それこそ貴族子弟でなければ誰を殺そうとどうにかなる、って思ってるフシがありまして。そんでもって、コイツが一番の問題なんですが、それ以下の連中はもう皆殺しにしようとなんだろうと問題ない、ってな態度でして」
「……おい、幾らなんでも私の息子を馬鹿にしすぎではないか?」
「順番が、逆になっちまってるんですよ。そういうの、修道院長も覚えあるんじゃないですかね。ぼっちゃんにとっては、自分の機嫌と都合が最優先で、その後に、教会の体面や次期修道院長としての立場がくるんですよ。そこは絶対に間違っちゃいけないところですよね」
不機嫌そうではあるが、クレーメンスはモンスに言い返さない。
きっと、とモンスは言い添える。
「修道院長の目の届かないところでそうするようにはしてるでしょうが、お目付け役にももう、制御できなくなってるんじゃないっすかね」
「……お前のところにも、行っているのか?」
「ええ、まあ。次期修道院長の頼み事なら、俺たちだって喜んで聞きますぜ。そいつが、スンドボーンのためになる仕事だってんなら、ね。ですがね、ぼっちゃんのソレは違う。当人は街のためだって言い繕えているつもりでしょうが、さすがに、ありゃ目に余ります。ガキがかっこつけるだけのために、ウチの連中は動かせませんぜ」
クレーメンスにも事態の深刻さは理解できた。モンスはスンドボーンにおける暴力の頂点であり、最も恐れられている暗部でもある。
それをすら見くびるような態度をとっているのだろう。であれば、それ以下に対する態度なぞ推して知るべしだ。
無言のままのクレーメンスに、モンスは幾つかの提案をする。
「まごう事無き本物を見せてやる、ってのも、一つのやり方だとは思います。ぼっちゃんが怒鳴ろうと喚こうと、何なら郎党一同を揃えようとも、どうにもならん圧倒的な剣士ってのを連れてこられるんなら、ソイツに根性叩き直してもらうって手もアリだとは思います」
「それは聖堂騎士、それもかなり腕の立つ者が必要になるな」
「ですな。随分と金はかかりますし、結構な貸しがあるでもなきゃこんな難しい仕事を引き受けてはもらえんでしょう。それがキツイんなら、ぼっちゃんが遊ぶ暇もないほどに仕事させるとか、ですかね。けどねえ、こっちは、勘違いしたまんまで仕事なんてさせた日には、仕事を解決するのにどんな手使ってくるかわかったもんじゃないですから……」
悪あがきのようにクレーメンスは問う。
「緊急か?」
「こういうの、長引けば長引くほどよくないのはご存知でしょうに。即座の対応が望ましいかと」
「……わかった、打つ手を考えておく。それまではモンス、お前がなんとかしておけ」
「努力はします。が、最悪もありうると思ってください。ぼっちゃん、ウチの連中にも手ぇ出してきかねませんから、あの調子だと」
不機嫌顔のままのクレーメンスに、モンスは無表情を崩さぬよう意識しながら言った。
「ぼっちゃんが相手でも、引かねえようなクソをこそ集めたんでしょうが。ウチのも馬鹿ばかりじゃねえですから、どうにか穏便にまとめようとはしますがね、限界はあるし、限界を超えた時の保証なんてしきれるもんじゃありませんぜ」
もちろん、もしクレーメンスの息子を害したならば、クレーメンスは絶対にその相手を許さないだろうし、モンスもその相手がたとえ自身の手下であろうと確実に殺す。
それがわかっていても、あまりになめられたならばクレーメンスの息子に手を出してしまうようなのがいるのだ。息子の復讐を遂げたとて息子が帰ってくるわけではないのだから、それはクレーメンスにとっての最悪の事態である。
そして、そんな自制の利かないような荒くれを集めたのは、他でもないクレーメンスなのである。
モンスが退室した後、クレーメンスは大きく肩を落とし、嘆息した。
『自身の子供如きに振り回されるなぞ、なんと愚かな者であろうか、などと思っていたのだがな。なるほど、これは、確かに頭の痛い問題だ』
他の者に対してならどんな手でもとれるクレーメンスであったが、自身の跡取りに対してとれる手は、自分で思っていたよりずっと少ないものであると、ようやく理解したのである。
凪は極力、下働きのおばちゃんたち以外とは接触をもたないようにしていた。
それでも男性たちの視界から常に外れていることはできないが、そもそもからして、下働きがその身分に相応しい場所にいる分には彼らはそれを見咎めたりしないし、視界に入ったとてそれを意識すらしない。
だが、その男、次期修道院長であるヨーランは、凪の動きに目を止めた。
「へえ」
ヨーランは二階の窓から外を見下ろしているが、その視線の先で、凪はえっちらおっちらと水汲みをしていた。
木桶をかついで川と屋内とを往復するのだが、足元はしっかりとしているし、移動速度もおばちゃんたちとは比べ物にならない。そして何より、ヨーランがじっと見ている間ずーっと凪は水汲みを繰り返しており、ヨーランの目から見た凪の姿は、随分と熱心に働く感心な女、であった。
ヨーランは興が乗ったのか凪の下に向かう。
あと二往復で水汲みが終わる、そんな時に、凪はヨーランに声をかけられた。
「おい、お前」
おばちゃん情報により、凪はこの男が次期修道院長であり、今スンドボーン大修道院で最も関わってはいけない男であるヨーランだとすぐにわかった。
警戒から身体をかたくする凪であったが、ヨーランは凪の反応を特に見ておらず、言いたいことをすぐに口にする。
「お前、一人で水汲みとか、いじめられているのか?」
「いえ、そんなことはありません」
「じゃあなんで一人でやっているんだ?」
「私は若くて体力もありますので。他の方がやるよりも、私がやった方がいいと思いまして」
ヨーランはにかっと笑った。
「そうか、良い心掛けだ。励めよ」
まさか褒められるとは思ってもみなかった凪は驚きに目を見張るも、ヨーランはそれだけ言うとその場を立ち去っていく。
首をかしげながら水汲みを再開する凪。そして歩き去るヨーランに声をかける六人の集団の声がきこえた。
「お、いたヨーラン様。なーにしてんっすかー」
「あ? おう、おめーらか。ちょっと面白いもん見つけたんだよ。そこの女、そいつ一人で水汲み全部やってんだよ。しかもよ、なんでかって聞いたら自分は体力あるからって自主的にやってんだと。いやぁ、働き者ってな見ていて気持ち良いよな」
「はあ? 出たよ、ヨーラン様ってすーぐ次期修道院長面しますよねえ。真面目くっせー臭いがぷんぷんしてくるわ」
「ばっかやろう、俺は次期修道院長だし真面目じゃねえか。てめーらみたいにすぐサボるようなのと一緒にすんじゃねえ」
「あーあー、まーた自分だけはまともです発言、きましたわー。そんなまともな次期修道院長顔なんてしたって本性は隠せねえっすよ。どーせその水汲み女にも、腹の底じゃつまんねー奴とか思ってんでしょ?」
「おまっ、なんてこと言いやがる。お前らもあの女をちったー見習え。もし俺が部下にするんなら、お前百人よりあの女一人を取るぞ」
「そりゃ俺もだわ。俺たちみたいな馬鹿なんざ絶対部下にしたくねえ」
その男の発言に、ヨーラン含む全員が一斉に笑い出す。
「で、あいつら何処行ったかわかったか?」
「それが何処にもいねえんですよ。娼婦さらって逃げたかもって思ったんすけど、行方のわからねえ娼婦もいねえときた」
「ほんっとアイツらときたら、いっつも面倒ばっか起こしやがって。もういい、ほっとけ。どーせ街の女でもさらってどっかに篭ってんだろ。それより、今日は北西地区の地主の息子に気合いいれてやろうや」
「お、いっすね。あいつ、本当にへたれですからね。あれじゃ徴兵されてもクソの役にも立ちやしねえ。俺らできっちり鍛えてやんねえと」
戦争も近いのだから、街を回って気合いの入ってない奴に一発くらわしてやらないとな、などと言ってヨーラン一行は意気揚々と街へと向かっていった。
話を聞いていた凪は思う。
『自分は良いことしてる、って思ってる奴ほど、ヒドイ無茶をするものよね』
あれは確かに評判通りの男だ、と凪は目を細めるのであった。
柊秋穂の曾祖母は、隣国より来た諜報員、つまりスパイであった。
曾祖母は秋穂の祖母にもこの活動を継がせるつもりであったようだが、秋穂の祖母はこれに徹底して抵抗し、曾祖母とは全く逆の勢力に力を貸すことに。
その後、曾祖母と祖母との間にどんな争いがあったのか、秋穂は聞いていない。
だが曾祖母は布団の上で死ぬことはできず、祖母は公安監視対象ではあるが、それなりに自由な生活を送ることができていたことを考えるに、そういった決着があったのだろうと秋穂は考えている。
そんな波乱万丈の人生を歩んだ秋穂の祖母が、秋穂に武術を教え込んだのは老人の気紛れだけではない。
凪の父がそうであったように、秋穂の祖母もまた、秋穂の持つ美貌が将来害を招くと危惧したのだ。
そうしてやらせてみれば、とんでもない才能を持っていることがわかり、当初の想定以上に入れ込んでしまったのもまた凪の父と一緒である。
秋穂の祖母は時折言っていた。
「こういう技術をさ、必要にかられてでもなく、誰かに強制されてでもなく、趣味で学べるのって、そりゃあとんでもなく幸福なことなんだろうねえ」
秋穂の祖母は武術が人殺しの技術である、と理解していたし、その上でこれをそのままに秋穂に教えていた。だが、技術の継承とは、その継承自体を目的にしてしまうこともあるほどに、楽しいものでもあるのだ。
祖母は厳しい人であったが、秋穂が懸命に励む姿を見て、思わず頬を緩めてしまう時もあったのだ。
結果として現在の秋穂になってしまったことを考えるに、秋穂の祖母は自身の息子とその嫁に土下座して詫びねばならぬであろうが。
そんな来歴の祖母の薫陶を受けた秋穂だからこそ、ソレを見て違和感に気付けた。
『ああ、そっか。アイツ、気配も違和感も無さすぎるんだ』
目を付けてしまえば後は簡単だ。凪を通しておばちゃん情報により秋穂が目を付けた男の評判や来歴を知る。
結論として、その男は、あまりにも不自然がなさすぎた。
たった一点、スンドボーンの生まれではない、という点以外に彼を疑う要素は何一つない。ここまで何もないということに、秋穂は作為を感じたのだ。
いや正確には、秋穂が祖母から教わった、意図して作られた自然さ、というものを感じ取ったのだろう。
秋穂は夜間に施設から外に出て、涼太に目を付けた男の監視を頼む。
男が外部と連絡を取り合うのならば、それは施設の外に連絡員を置いておくだろう、と考えたのだ。施設の中に人を送り込むのと、外に送り込むのとでは難度が段違いだからだ。
しばらくして涼太から監視の結果を受け取った秋穂は、すぐに行動に出た。
人の出入りの少ない部屋に、ちょうど横をすれ違うタイミングで、秋穂は男の背後を取り、腕をねじ上げ身体の移動先を誘導し、部屋の中へと放り込む。
男にはあるていどの武術の心得があったが、部屋に放り込まれて床に倒れ込むその時まで、何が起こったのか全く理解できなかった。
だが、そこで自身の手に負えぬ武の存在に思い至り、即座に精神を緊急事態のソレへと切り替えられるところが、一流の諜報員である証だろう。
秋穂は部屋に転がしただけで、その男にそれ以上手は出さなかった。
「話し合いをしたいんだけど、いいかな」
秋穂の声にも男は、普通の修道士のフリを続けたのだが、街の外で連絡員と繋ぎを取っていたこと、その日時場所を正確に言ってやると彼は誤魔化すのは難しいと思い観念した。
相手が確証を得ていて、その上で、今目の前にいるこのフードを深くかぶった女の目を盗んで何かをできる気がしなかったのだ。
「……話し合い、と言ったな」
男の目から見て、秋穂はそれなりに怪しい人物だった。
だが、諜報員としては初期設定が目立ちすぎている。なので逆に白黒はっきりとしなかったのだが、まさか忍んできた者がこんな派手な動きをするとは思ってもみなかった。
探るような目の男に、秋穂はあっけらかんとした様子で問うた。
「ここの連中の中で、誰がどれだけ権限を持っててどういった仕事をしているのか、そういうのをこまかーく聞きたいんだよね。ほら、あまりそういうのを調べて回ると疑われそうだし。なら、疑われても問題ない人に聞こうかなってね」
大丈夫、と秋穂は続ける。
「キミが何処の所属かだとかは興味ないから。私の潜入捜査期間を短く済ませるためにも、是非とも協力してほしいかな」
「……そんな理由で俺に手を出したと? そんな馬鹿な話を信じろとでも言うのか? お前が俺の口を割らせようとしているここの人間でないと、どうして言い切れるのだ」
くすくすと笑う秋穂。
「あはは、やっぱりそういう所きちんとしてるんだね。なら、とっておきの話を一つ教えちゃいましょー」
「……言ってみろ」
「私の名前。秋穂、って言うんだよ」
秋穂はフードを外し、傷だらけの顔を彼の前に晒す。
男は、口元に手を当て、驚愕を隠せぬ顔で秋穂をじっと見つめている。
口は開かぬままだが、彼がその思考能力の全てを割いて、秋穂の言葉の真贋を見抜かんとしていることが見てとれた。
やはり秋穂はにこにこと笑いながら言った。
「ね、これなら私が聞きたいことと引き換えにできるぐらいの、情報だと思うんだけどなー」
相手が情報を集める機関の人間であるのなら、今ここに秋穂がいることの意味、そして秋穂と接触することができていることの価値を理解できると、秋穂は思ったのである。
更に、それを見極められる能力があるかどうかわからないが、秋穂は立ち方を変えた。
次の一挙動でこの男を仕留められるような、そんな、噂に広まっているアキホの名に相応しい佇まいである。
がたり、と男は音を立ててしまった。反応なんてしてしまえば、反応できるだけの知覚能力があると教えているようなものなのだが、男の自制心を以てしても堪えきることのできぬ、圧倒的圧力であったのだ。
「で、どうする?」
男は、情報量が多すぎるせいで冷静な判断ができていない、との自覚もあったのだが、この状況を突破するにはそれなりの無理をしなければならぬと腹をくくり、一時的に秋穂の申し出を受けることに決めたのである。
涼太の遠目遠耳の魔術が通らないのは、スンドボーン大修道院の敷地内だけであり、その外の調査では相変わらず強力無比な武器となる。
毎夜修道院を凪か秋穂のどちらかが抜け出してきて、涼太と連絡を取り合い相互に進捗を確認する。
内と外との連携などもあり、必要と思われる情報は概ね出そろったと考えていい。だが、涼太はこれを素直に喜ぶ気にはなれない。
「……なんで、あの二人の潜入調査なんてシロモノが、こんなにも上手くいっちまうんだ? おかしいだろ。俺、潜入初日修道院全焼すら覚悟してたんだぞ」
二人共が修道院の中において、腰を低く、敬語を欠かさず、無理も無茶も制御可能な範疇に収めて大人しくしていたおかげなのだが、そんな二人の姿がまるで想像できない涼太は一人付近の林で野宿しながら、わからん、わからん、と呟き続ける。
凪も秋穂も、涼太に対しては隔意の欠片も持っておらず、一から十まで全部素で付き合っているせいで、逆に猫を被った時の二人の姿を見る機会がなかった、という話である。




