103.ミーメ将軍とボロースの軍隊
サーレヨック山を王都圏側にくだった先には、サーレヨック平野が広がっている。
ここは平野であり、畑を作るに適した土地でもあるのだが、致命的なほどに水の便が悪く人が集まることはないだろう。
故に、王都圏と辺境との野戦に幾度も使われてきた土地だ。ボロースがここに兵を出すのも歴史的にはこれで三度目になる。
そういった土地であるため、ここで戦を行なうことはある種の約束事のようなものになっている。規模の大きな軍が激突するには、それ相応の広さが必要になるのだ。
このサーレヨック平野を眼下に見下ろしながら、涼太ははふうと嘆息を漏らす。
「いっやあ、この術、強い強いとは思ってたけど、やっぱ洒落になんねえわ」
遠目の術により、空高くから見下ろす視点を確保した涼太は、ボロース軍、シェルヴェン軍双方が如何に布陣しているかを誰よりも正確に把握していた。
伝令が走る様、指揮官たちの声、兵士たちの表情まで確認できるのだから、今この世で最も速く正確な戦場情報を手にしているのは間違いなく涼太であろう。
涼太の左右には凪と秋穂が。三人の立場故か、敢えて近づいてくる者もおらず、三人のみで固まっているので会話が聞かれることもない。
嬉しそうな涼太を見て顔がほころぶ秋穂。
「そう、どんな感じ?」
「んー、とりあえず陣形の綺麗さではシェルヴェン軍が上かな。けどなあ、ボロース軍、ありゃ数で負けてても必勝の確信持ってやがる」
「え、なにそれ、もしかしてこっち負けそう?」
「ぶっちゃけどっちの作戦も全部筒抜けなんだけどな。まあ聞かれなかったし、俺が言っても信じてもらえないだろうから言ってないけど」
堪えきれず噴き出す凪。
「ひっどい話ねえ」
「この術、あまりに有用すぎるんだよ。これ絶対他所に漏らしちゃマズいやつだわ」
アッカ団長に遠耳の術で可能なことの一部を漏らした時、とんでもなく真剣な顔になったアッカ団長にそう言われた涼太である。
なのでこれを用いた結果得られた情報をこの三人以外で共有することができないので、涼太が知っている敵の作戦を初老の千人長に伝えることができなかった。
で、と話を戻す凪。
「どっちが勝ちそう?」
「わからん」
「なによそれ」
「どっちの作戦も聞いたが、その作戦が成功するのかどうかの判断が俺にはできねーの。ただ、ボロースの作戦がヤバイってのはわかる。連中、開戦と同時に動く気だわ」
開戦直後は当たり前だが両軍共に体力に満ち満ちた時間で、どちらにとっても突き崩すのが難しいものだ。
疲労も無く被害もなく、の状態ならば、不測の事態に対する備えも万全に機能する。だから敵陣を崩す手があったとしても、まずは一当てして敵の動きや力、出方を見定めてからというのが定石であろう。
そういった軍事的常識を、辺境最強戦士ミーメとその配下の戦士たち個人の武勇によって塗り変えようとする試みである。
本当にボロース軍が想定するような戦力差があるのなら、きっと味方に作戦を伝えても対応は難しかったろう。ボロースの策は、単純明快なのだ。
後方にある涼太たち三人にも聞こえるぐらいの、大きな大きな鬨の声が聞こえてきた。
両軍の姿がお互いに見えるぐらいの距離にくると、誰よりも先に、ボロース軍中央に配されていた騎馬軍が動く。
そもそも、騎馬隊が軍中央前面にいるというのがおかしい。
本陣前にずらりと並ぶ騎馬の群を見て、シェルヴェン軍はひどく困惑したものだ。
ましてやこれが、一番槍であるとばかりに真っ先に、最も陣の分厚いシェルヴェン軍中央に向かって、一直線に突っ込んでくるなど誰が想像できようか。
迎え撃つ中央部隊の将は、呆気に取られた顔のままで溢す。
「アホだ、アホがいる」
当たり前に騎馬迎撃の構えを取らせる。
重厚な歩兵陣の後ろには弓隊が構え、突っ込んでくる馬鹿に狙いを定める。
だが、常の突撃と違いこれは、錐のように細長く隊列が伸びた形で、弓隊は自然と狙いを先頭に集中させることに。
中央部隊の将は、その先頭を走る男の顔を見た。
「……馬鹿、な。アレ、アイツ、そーだいしょーじゃないのか? そーだいしょーがー、まっさきにー、つっこんでくるとか何考えてんだ! 辺境最強でもなんでもいいが! 誰か止める奴ぁいなかったのか!」
そう、騎馬隊の先頭きって突っ込んでくるのは誰あろう、ボロース軍総大将、ミーメ・ボロースその人であった。
ありえねー、とか思いつつ、中央部隊の将は、放たれた無数の矢がミーメとその周辺に降り注ぐのを眺める。
だがそこで、彼の余裕は吹き飛んだ。
遠目に見る形だ。それでも、その挙動がこの世のものではないことは彼にもわかった。
馬に乗りながら、片手に握った長大な槍を、馬の前方で振り回したのである。
矢は断続的に降り注ぎ続ける。だが、先頭を走るミーメの槍は止まらない。つまり、雨のように降り注ぐ矢は、あのたった一騎すら仕留めることができていないということで。
しかもこの槍、かなり幅広く、高くにまで届いていて、数百人が次々と放ち続けている矢の全てを、悠々と弾き払っているではないか。
もちろんその全てを防ぎきることはできておらず、ミーメの後方で矢が当たり落馬している者もいるが、それはとてもこの矢数で与えられる損害として納得できる数ではない。
将以上に焦り慌てた様子で、先頭の部隊を率いる隊長が迎撃を指示する。槍衾は、少なくとも正面からの突撃は防いでくれる。
本来騎馬相手ならば側面に回り込まれて突き崩されるからこそ歩兵は騎馬に弱いとされるのだろうが、この陣形では回り込もうにもここは軍中央で右にも左にも部隊は展開している。迂回はありえない。
「でぇえええええりゃあああああああ!」
凄まじい怒声が兵たちの耳を打つ。
先頭を走るミーメが、幾重にも重ね構えられた槍に向かって馬で突っ込みながらこれを、手にした槍で払ったのだ。
比喩表現でもなんでもなく、数十人の槍がまとめて左方へ吹っ飛ばされた。
槍だけではなく持っていた兵までもが一緒にぶっ飛ばされている。この勢いでミーメより左方の槍衾は斜めに崩れ落ちていく。
「よおおおおおし開いた! ミーメ様の左に抜けるぞ!」
ミーメのすぐ後ろに従っていた副官が怒鳴ると、従っていた騎馬は槍衾の崩れた歩兵の群に馬ごと突っ込んでいく。
当のミーメは馬は馬で走るに任せ、自身は馬上で手にした槍をぐるんぐるんと振り回し続ける。
後に続く連中が敵兵士に引っ掛かって転びにくいよう、一人でも多くの敵兵を進路から吹っ飛ばすようにしているのだ。
そして軍中央部隊のど真ん中に、ミーメ率いる騎馬隊が飛び込んだ。飛び込めてしまった。
そうなるともう歩兵には為す術がない。相手は馬なのだ。
体重は数倍、走る速度も数倍、そんな質量が群をなして突っ込んできたのなら、人間がまとまっていたところでどうにもならぬ。
弾き飛ばされ踏み殺され、陣形なんて維持することは不可能だ。
中央軍の将は、咄嗟に今できる最善の選択を怒鳴る。
「道を塞ぐな! そのまま後方に抜けさせていい! だが! 素通りなぞさせるなよ! 味方に当たってもかまわんから左右から突くなり射るなり好きに料理してやれ!」
更に細かな指示を各隊に伝える伝令を走らせる。
ありえぬ事態にあっても指示を途切れさせぬ将に対し、部下たちは信頼を新たにしたものだが、将は内心冷や汗ものだ。
『こ、これが開戦直後でなければこの一撃だけで崩れていたぞ! だが、今ならば! 抜けた先にいる本陣が、後方の予備兵力が、お前らを圧殺してくれるわ!』
将にはこの中央の戦闘しか見えていない。だが、開戦直後に動いたのは中央だけではなかった。
ボロース軍左翼。
巨大な盾を眼前にかざしながら、歩兵を引き連れ走って突っ込む戦士が一人。
「ばーっはっはっはっはっはっは! さすがにこの数を向こうに回した経験はこれが初めてじゃのう! 愉快愉快!」
戦士の盾にはひっきりなしに矢の命中音がするが、それで戦士が足を緩めることはない。
盾の隙間から走る先を見ながら走っているが、時折盾を動かし隙間から入る矢を防いでいる。つまりこの男には、嵐のように降り注ぐ矢の中から、隙間を抜けてくる矢が見えているということで。
「いいかお前ら! 余計なことは考えるなよ! 盾を構えてただただワシについてこい! 盾を外す時はワシが教えてやる!」
一方的に矢で射すくめられながら歩兵の一団は足を止めることなく、遂に敵軍と接触する。
盾の戦士は大盾を投げ捨てると、その巨大な己の身の丈と同じだけの長さの大剣を背中より抜き放つ。
「行くぞ! シェルヴェンのあほう共! どいつもこいつも生かして帰すなよ!」
そのあまりに巨大すぎる大剣が、細剣を振り回すが如き速度で縦横に跳ねまわる。
どんな兵士も、騎馬ですら、この大剣を止めること能わず。
触れるだけで死が確定する理不尽極まりない暴風は、シェルヴェン軍に食い込む強固な楔となってこれを引き裂いていく。
ボロース軍幕僚たちは、その戦場の様子を半ば呆れたような顔で見守っていた。
「いやぁ、できる、とは思っていたし、そうなる、とも思っていたんだが、いざこうしてやっているのを見ると……」
「とても現実の光景とは思えんな」
ミーメ率いる騎馬隊が中央を、ボロース五剣の一人が左翼を、軍での運用に適しているという理由で連れてきた男が右翼を、それぞれ突撃でぶちぬく鏃となって突っ込んだのである。
ただそれだけのことなのだが、ミーメだけでなくそれぞれ突撃の先頭になった戦士の武名も兵士たち誰しもが聞いているもので、こんな無茶な突撃にも不安は覚えていなかったようだ。むしろ一緒になって勇んで突っ込んでいた。
幕僚の一人が感心したように言う。
「ほう、それでももう立て直しに動いているか。さすがに王都圏の軍だけあって、きちんとしぶとくできているな」
「だが、今回のこれで連中も学んだはずだ。ウチの突撃は絶対に止められんと。いや、次同じことすれば止めてくるか。だが、次はもちろん、もっと普通に突撃すべき時に使うぞ。ソレを、止める手立てがあるか?」
強い個人が突っ込んで道を切り開く。そんな戦い方もこれまでなかったわけではない。なので対策もあるのだが、強すぎる個人がその対策をすら凌駕するのというのは、なかなかお目にかかることができないものだ。
そしてボロース軍はそれだけの軍ではない。
「よーっし、ミーメ様たちは完ぺきに仕事をこなしてくれたぞ! 次は我らの番だ! シェルヴェンの連中に辺境の恐ろしさを思い知らせてやろうぞ!」
崩れ混乱するシェルヴェン軍に、ボロース軍がこれを包囲せんと動き始めるのだった。
敵中央をぶち抜けたところで、その先頭を馬で駆けていたミーメは、すぐ後ろについてきている副官に言った。
「はははっ! あれだな! 戦ってのはエライ規模のデカイ出入りみたいなものか! ぶつかるまでは色々あるが、いざぶつかった後はあれと大して変わらん!」
「ええ、その認識で間違いありませんよ。ただそのぶつかる前の色々にとんでもなく手間がかかるというだけで」
「そうみたいだな。なあおい、出入りと一緒ってことは、だ。俺は今こそアレをやる時だと思ったんだがどうだ?」
「正に、正に今がその時です。合図をお願いしてよろしいでしょうか」
「おうよ任せとけ!」
馬を走らせながらミーメは馬の上に飛び乗る。今までも乗ってはいた、だが、今は、馬の背に両足をつき、馬の上に立っているのだ。
片手で手綱を持ちながら、馬はそんな真似をされているというのに動揺することもなく足は止めない。
そして恐ろしく揺れるはずの馬の背で、ミーメは昂然と胸をそびやかしまっすぐ直立しているのだ。
ミーメの身体が後ろに揺れる。
バランスを崩したのではない。大きく大きく、息を吸い込んだのだ。
そして口より呼気が炸裂した。
そのとてつもない発声は、音の大きさも相まって爆発と称しても大袈裟とは思えぬもので。
ミーメに従う騎馬隊全員が、思わず耳を塞ぎたくなるほどの大音量だ。ミーメの人間離れした身体能力は肺活量の大きさにも影響しているのか。また、頑強な肉体はこれだけの発声にも耐えうるほどであるのか。
本来は、人間一人が発する指示の声が戦場に届くなんてことはありえない。ありえないはずなのだがその声は、右翼左翼の端にまで聞こえてしまうほどの音量で。
そんなものを人間一人が発するということがもう、ミーメという竜の血を引く戦士の、人にあらざる力を示していよう。
「出ろおおおおおおお! ワイアアアアアアアアアアム戦士団っっっっ!」
最初の突撃の衝撃から、シェルヴェン軍は立ち直ろうとしていた。
各隊隊長が己の裁量が許す範囲で部隊をまとめ直し、迫る敵軍へと対処を始める。また将と呼ばれる立場の者も決して無策ではなく、自身の陥った戦況に相応しい対策を次々と打ち出していく。
初老の千人長も配下の不甲斐なさに苛立ちながらも、この無茶な突撃の欠点を見抜き、これへの効果的な反抗作戦を指示し終えている。
力を溜め、そして放つ機を窺う、そんな時であったのだ、ミーメの怒声が戦場中に鳴り響いたのは。
まずは右翼突撃隊の中から、奇声と共に飛び上がった男がいた。
「きひゃーっひゃっひゃっひゃ! 待ちかねたぜ大将! こんだけ血肉が飛び交ってる中お預けたあ本当にひでぇご主人様だぜアンタはよう!」
このとんでもなく身軽な男は、突撃部隊とはまるで逆方向に単騎で突っ込んでいくではないか。
そこは敵兵の群、そのど真ん中に人の身では到底ありえぬ跳躍力で飛び込み、両手に持った短剣で次々これを仕留めていく。
また左翼側でも動きがあった。
兵士と同じ格好をした男が二人、ふらりと隊列から外れていく。
仲間の兵士がこれを咎めるも、その二人はそちらを見てすらいない。その目は突撃で突破しかかっている敵陣、敵兵たちに向けられていた。
「やれやれ、この窮屈な鎧ともようやくおさらばか」
「俺は結構気に入ってたぜ、なんかこれ着てると戦争してるって気になってくるじゃねえか」
「戦争、ねえ。確かに突入まではエライ面倒そうだったが、こうなってしまえばいつもと大して変わらんだろうよ」
「馬鹿言え、数が違わぁ、数が。何処までやれるもんだか。くはっ、くははっ、楽しみだなおい」
二人組の剣豪は、鎧を脱ぎ捨て動きやすい軽装になると、敵兵ど真ん中に向かってたった二人で恐れる気もなく飛び込んでいった。
こういった光景はこの二か所だけではなく、ミーメの怒声に応え、二十か所にてワイアーム戦士団の戦士が動き出す。
いずれも一騎当千の強者ばかり。
ミーメがこれから戦争を学んでいくというのなら、俺たちも戦争を覚えるとしよう、なんて理由で集まってきた連中だ。どいつもこいつも十人二十人の兵ではどうにもならぬ技量の持ち主だ。
それだけの者が集まっていながら、これでもまだワイアーム戦士団の半数ほどしか揃っていないというのだから、ミーメの集めたワイアーム戦士団の層の厚さが伺えよう。
これらの戦士たちが、その図抜けた嗅覚で敵の急所を、これよりの反撃に必要不可欠な要素たちを、理不尽なほどの戦闘力で次々と削り取っていく。
通常、こういった特異な戦力たちを戦場で活用することは難しい。運用の難しさ自体もさることながら、大抵の場合そういった戦士の人格に問題があるせいだ。
だがその問題もミーメが一番上に立つことで解消される。また一番上のミーメが軍事の専門家に対し大いなる敬意を示し、その軍事的忠言のほとんどに従っているため、こうした本来接することもないだろう剣の道の求道者たちを適切な形で戦争利用するなんて真似が可能となっていた。
そう、あくまでこの軍におけるミーメやワイアーム戦士団の活躍は切っ掛けに過ぎない。
その切っ掛けを利用して、続く騎馬隊が軍を裂き、歩兵たちにより陣を食い破り、一方的な矢戦を展開し、抵抗なく包囲移動を進めるのはボロース軍の兵たちであり、これを指揮する幕僚たちであった。
開戦からものの一刻も経ってはいない。だというのに早くも戦場では、その優劣がはっきりと形になってきていた。




