001.不知火
楠木涼太、高校一年生。現在、異世界なんてものに来てしまってから初めて、文明との接触を図ろうと試みているところで。
隣にいる同じ不幸に見舞われた仲間、不知火凪に問うた。
「上手くいくかね?」
「無理」
夢も希望もない即答を返してくれた。
同じ学校で同学年だったが、彼女は涼太のことを覚えていなかった。クラスも違うし涼太はそれほど目立つ人間ではない。
だが涼太は彼女のことを知っていた。
彼女の横顔は至高の白磁であるかのように真っ白で、頭の左右からは二つに結んだツインテールと呼ばれる金の尻尾が伸びている。
この珍しい金の髪が歩くに合わせてふわりと揺れるのだ。
今でも慣れない。あまりに美人すぎて、油断すると目がずっと彼女を追ってしまいそうになる。
ハーフらしいが、澄んだ青い瞳といい輝く金の髪といい、この顔の何処に日本人要素が残っているというのか。
彼女の美人っぷりに意識がいっていると気付かれないようにしながら、涼太は深呼吸を一つした。
言葉は魔術で使えるようになっている、と聞いているが、本当に通じるかどうか見知らぬ現地人に試すのはこれが初めてだ。
緊張しながら、涼太は林の中から姿を現し、彼らへと声を掛けた。
「こ、こんにちは」
相手は三人組の男だ。
怪訝そうな顔で涼太を見ている。
言葉が通じていないのでは、と思い確認のために次なる言葉を続ける。
「あー、聞きたいことがあるんだけど、少し話、いいかな?」
彼等はじろじろと無遠慮に涼太を見た後で、にたりと笑った。
「おい、コイツけったいな服着てやがるけど、育ちは良さそうだぜ」
「おうおう、おめーは相変わらず学がねえな。コイツはな、貴族様が着るどれすっつーもんだよ。黒くて、綺麗な生地で、硬そうに見える。ほれ見てみい、正にその通りじゃねえか」
「おおう貴族様と来たか、そいつは最高だ。なあ、アンタよう、金、持ってんだろ? その服もきっと高く売れる。いいねえいいねえ、今日は美味い酒が飲めそうだ」
言葉は通じたが会話にはなりそうにない。接触したのは文明なんて言葉とは縁遠い存在であったようだ。
涼太のすぐ後ろから、深いため息が聞こえた。
「ね、無理だって言ったでしょ。顔見てわかりなさいよ、そのぐらい」
「異国人どころか異世界人だってんだから、顔見て即判断下すよーな不注意な真似ができるかっ」
「不注意っていうのは、こういう状況を招くような判断のことを言うものよ」
返す言葉もなく口ごもる涼太。だが、相手の三人の男はそれどころではない。
突如現れた凪の美貌に、大口を開けた間抜け顔のままである。
もちろんそれも僅かな時間で、凪の美しさに、スタイルの良さに、傍目で見てはっきりとわかるほどに目を血走らせる。
三人は何やら興奮した様子で喚きだしたが、それらを全部無視して不安そうに涼太は凪に問う。
「本当に、やるのか?」
「今更引っ込みつかないでしょうに。……私は、私であるためにも、ここで生きていくんならこうしなきゃならないのよ」
三人の言葉が卑猥極まりないものになり、よだれを垂らさんばかりの勢いでにじりよってきた彼らに対し、不知火凪は一歩も引くことなく、腰に差した剣をすらりと抜き放った。
凪が剣を抜いたというのに、三人組はまるで警戒していないようで。
或いはこれまでの人生で一度も見たこともないような美人を前に、理性が欠損してしまったのかもしれない。
女の子であろうと高校生ぐらいの年の娘が剣を持てば十分殺傷能力を発揮できるだろうに。
一応、一人だけは応じるように剣を抜いたが、その顔を見れば残る二人同様凪をなめくさっているのがわかる。
凪は丁寧に、剣を抜いた男を最初に斬った。
両手持ちに握った剣を、男の首元に振り下ろすとその首前がすっぱりと断たれ、一瞬のみ勢いよく血が噴き出た後、流れる血は下方に向かってぼたぼたと落ちていく。
男は、とても驚いた顔でその場に膝から崩れ落ちた。
ぎょっとした顔で、残る二人も剣を抜く。
「遅い」
二人目は真横から首を薙ぐ。今度は一撃で首が断たれ、真横に向かって頭部が吹っ飛んでいった。
最後の一人は威嚇するように剣を前に突き出していたが、剣を握った手を一瞬で斬り落とされ、完全に無防備になった胸に凪は剣を突き立てた。
三人を斬った。だが、凪の動きからは一切の躊躇が感じられなかった。
三人共が倒れると凪は振り向く。
涼太は、いきなりの殺人行為に怯えるよりも何よりも驚き戸惑ってしまう。
そんな涼太に対する凪の顔は、絶対の禁忌に触れてしまったというのに、何処か誇らしげに見えるものだった。
「私は、顔も見たことのないような下衆に貞操奪われるぐらいなら、たとえ人殺しになろうとそのクズ共皆殺しにしてやるって、ずっと前から決めてたのよ」
楠木涼太がこの森の中に放り出されてから一日半、三十六時間になろうとしていた。
高校一年生である涼太は、朝早くに学校に登校し、そして、校門を潜ったところで森に立っていたのだ。
「は?」
動こうとして、爪先が木の根に引っかかって転びそうになる。
慌てて手を伸ばすとすぐ傍に立っていた木に手が付く。苔むしてしめった木の皮が気持ち悪く、体勢を立て直すなり木から手を離す。
強い匂いもする。あまり嗅いだ経験のない匂いだったが、きっとこれが森の匂いなんだと思えた。
足元を確認すると、背の低い草と入り組んだ木の根が地表を這いずっており、靴ごしの足裏からはぬかるんでいるような、気味の悪い湿気が感じられた。
そこから涼太は、どうやら森の中にいるらしい、という状況を把握するのに三十分かかった。
これには校門を潜ったら森の中にいて、校門どころか学校の影も形も見えなくなったという現実を受け入れるのに要した時間も含まれる。
そのままあてどもなく歩き出し、そして、一日半が経ってしまったというわけだ。
この約三十六時間の間に文明の気配らしきものは一切見つけ出すことができず、涼太の脳裏にとても嫌な想像が思い浮かぶ。
「ヤクザに拉致られて富士の樹海にでも捨てられたか?」
そんな真似をされるような心当たりは無論ない。
そもそも、拉致も何も、涼太は何処かで意識を手放した記憶もない。何度も思い返したが、家を出て学校に向かい、校門を潜ってそして森の中でコケかけた。ここまで全て連続した出来事である。少なくとも涼太の意識の中では。
もっとも涼太の乏しい知識では、ここに生えている木々が富士のものかどうかも定かではなく。
「ほんと、もう、なんだってんだよ。こういうのはテレビの中だけにしてくれ。それが無理ならせめてコンクリートジャングルのほうで。生ジャングルとかこっちは中年アイドルじゃないんだからサバイバルライフとか絶対無理だっての。つーかテレビならせめても金もらえんだろーけど俺そーいうの無いじゃん。タダ働きですよ労基に訴えっぞ畜生」
山歩きの知識もない涼太であったが、三十六時間も彷徨い歩いていればそれなりに頭も使う。
より低い場所には川がある。そう考え低いほう低いほうへと進んでいたのだ。そうしてようやく、水の音が聞こえてきた。
視界が大きく開けた。
それは、涼太がイメージしている田舎の河原そのもので、透明度の高い水がさらさらと流れ、川の周りは大小様々な石が転がっている。
それまでどれだけ歩いても木は続いていたというのに、川の周辺は木々が一切生えておらず、ずっと遠くまで視界が通ってくれていた。
これにより木々に遮られ続けていた陽光もはっきりと涼太にまで届くようになり、視界の良さにはこの光の強さも影響していよう。
いい加減樹木にも葉っぱにも苔にも根っこにもうんざりしていた涼太は、嬉々として川沿いに向かって進む。
その足が止まったのは、長閑な田舎河原の景色に異物が混ざって見えたからだ。
川を下った場所は、涼太のいる所よりも広くなっていて、そこに女の子が一人立っていた。
制服だ。
金の髪が日差しを浴びてきらきらと輝いて見える。
日本人離れした容貌から、学校に入学するなり一番の有名人になった女生徒。
そのとても女性らしい体形もまた彼女を表す特徴の一つだが、何よりも、だ。その金髪云々より以上に目立つのが彼女の顔立ちである。
涼太は女性を形容する言葉を多数知っているわけではないので、適切な言葉を選べる自信はなかったが、クラスメイトの一人が彼女を評してこう言ったのを覚えている。
『美人が見たいんなら、テレビつけるより学校来たほうがいい』
涼太も一切の贔屓目抜きにそう思えた。
美人すぎるが故か、あまり良くない話も聞いた。
性格がキツイだの、人間味がないだの、口が悪いだのといったもので、彼女の良い噂といえば運動神経が良いらしい、といったことぐらいか。高慢で冷酷な人間である、と涼太は聞いていた。
不知火凪。しらぬい、なぎ。それが彼女の名前だ。
そして金髪美少女であるところの凪は、河原にて、大きな大きな猪と対峙していた。
『って猪デカっ! デカすぎだろなんだありゃ!』
見た目は四本足の猪だ。だが、四本足で猪の見た目であるにもかかわらず、背中のてっぺんが対峙する凪の頭頂より上にある。
四つん這いの獣であるにもかかわらず、頭の高さが凪のそれとちょうど同じぐらいなのである。そこから類推される猪の巨躯たるや。
中身の詰まった軽トラック、そんな言葉にすると大して怖くもなさそうな感じである。
どうやらその軽トラック紛いは凪を標的に定めているようで、身体をそちらに向け、そして涼太が何を言うよりも先に走り出した。
『ヤベェ!』
あの肉の中に絶対エンジン積んでるだろ、といった勢いで加速する巨体。
せめても避けろ、と祈る涼太を他所に、凪はといえばその場に突っ立ったまま。
ゆっくりと、両手に握った木の棒を頭上に振り上げる。
その様が、妙にしっくりと堂に入って見えた。
そして衝突。それは衝突であったが猪と凪との衝突ではない。
凪が振り下ろした木の棒が、突進してくる猪の頭部を捉えるや否や、猪の頭部はその場から真下に向かって潰れ埋まってしまったのだ。
『……え?』
もちろんその瞬間には凄まじい衝撃音が響いたし、石ころだらけの河原に猪が頭から突っ込んだのだから、そこらに石やら土砂やらが撒きあがってもいる。
だがその中心で、軽トラックのような猪の突進を木の棒の一振りで止めてみせた凪は、当たり前の顔で木の棒を構え直していた。
土砂が落ち着ききる前に、構えを解いた凪は手にした棒を側に投げ捨てる。猪の頭をぶっ叩いたせいか木の棒は半ばから先が粉々に砕けていた。
凪はじっと猪の死体を見下ろし満足気に頷くと、拳を握って小さくガッツポーズ。
「うん、うんっ、凄いぞ私っ」
そしてくるりと横に一回転。
「かっこ、いーっ!」
スカートがひらりとたなびき、これが落ち着かぬ間に片腕を頭上に突きあげる。
その仕草動きは、三年前に放映していた大人向け変身ヒーローの決めポーズであったような、と涼太は回らない頭のままで思った。
『……つーかお前誰だよ、高慢と冷酷何処行った』
これが楠木涼太と、不知火凪の出会いであった。
「……見られた。見られた……」
この世の終わりのような顔をして落ち込む凪。
気持ちはわかるが、それをいつまでも引っ張っていられても困る涼太は言った。
「とりあえず、お互いの状況を確認し合いたいんだが……一年三組の楠木涼太だ」
苦い顔で頭を上げる凪。そんな表情でも可愛らしいのだから涼太も目のやり場に困るというものである。
「一年一組、不知火凪よ。えーっと、楠木? 同じ、学校よね?」
「ああ。それでだな……」
涼太がここに来た過程を説明すると、凪もまた同じような状況であったらしい。
森に来た時間もほぼ一緒。凪は涼太よりほんの数分前に校門を潜り、正門から校舎に続く道を歩いていたところだったと。
そこまで話したところで凪は思い出したように手を叩く。
「あー、っとごめん。その前に肉の処理しなきゃ。ねえ楠木、貴方にも手伝ってもらっていい?」
「肉?」
「ほら、そこに転がってる肉。ここ来てから丸一日以上経ってるけど、救助が来るでもなし、かといって人家も見つからない。なら、食べ物のこと考えないと」
「お、おう」
「で、楠木はナイフとか持ってる?」
当たり前の顔でそんなことを聞かれても、当然涼太はそんな物騒なものを持ち歩いてなどいない。
「ない。学校行く途中だったんだっての」
「ああ……うん、それもそうね。皮はぐの、やったことないでしょ? 私が指示するから……」
そう言って凪は、刃渡りが三十センチはあろうかという長いナイフを取り出し、頭部が潰れた巨大猪の解体を始めた。
芸能人をすら凌ぐと言われた美貌の主、金髪美少女不知火凪は驚くほどに手慣れた様子で涼太に作業指示を出していき、自身もてきぱきと解体作業を進めていく。
あまりに意味がわからなすぎて涼太は思考を停止し、ただ言われるがままになっていた。無理もなかろう。
作業途中、何度かあまりの匂いにえずいてしまった涼太に、凪は少し申し訳なさそうにしていた。
「ごめんね。さすがに加減するの怖くて。でも、これで三回目だったから頭だけ綺麗に潰したのよ、頑張ったほうでしょ?」
「……いや、つーか、そこつっこむのもうちょっと後にしていいか? 俺の常識じゃふつーはこんなでけー猪、高校生がどうこうできたりしねーんだよな」
「あっ……えっと、うん、わかった。そうしよ。あーっと、そっちはもうちょっと強く引っ張って」
言われる通りに皮を強く引っ張ると、めりめりと音を立てて猪の皮がはがれていく。
『猪の解体の仕方知ってる高校生ってのも意味わかんねーけどな! お前ほんともう! 不知火の皮被った別の何かだろ!』
何せ図体がデカイせいで解体にも時間がかかる。この作業の途中で日が暮れだしたので、日が沈みきる前に、凪はガラスだか鏡だかを使って火を起こしていた。
それまでの解体作業のあまりの手際の良さを見てしまっていたため、この程度不知火なら当然できるだろう、なんて思えてしまう涼太である。
一番のピークは内臓を取り出すところで。涼太は吐き気を堪えるのに必死。
凪は涼太の様子を見て初めて、内臓処理は素人さんにはキツイということを思い出したようで、慌てて別の作業を頼んでいた。
取り出した内臓に関しては、処理だのなんだのをする準備がないので、これは邪魔ー、と凪は森の中に埋めてしまっていた。食べるなんて言い出さなくて本当に良かった、と涼太は安堵したものである。
凪曰く、そもそも量が多すぎる、だそうで。保存処理する道具も何も無しでは、絶対に食べきれないだろうと。
そうやってどうにかこうにか処理を終えた肉を、日が暮れてから二人で頂いた。
薄広い石を熱し、この上で肉を焼く。
「……なあ、不知火」
「贅沢は無しよ。で、何?」
「すまん、俺が悪かった……食えなくもない、しな」
「そうそう、栄養が取れればなんでもいいじゃない。これで明日は元気に動き回れるわよ」
独特の臭みというかえぐみとでもいうか、そういったものがあるうえに調味料等味付けが一切ないのだが、食べている内に慣れたのか、それとも丸一日以上食べていなかったせいか、涼太は腹いっぱいになるまで猪肉を食べた。
食事を終えると、凪は簡単に自分の来歴を説明してくれた。
彼女の父が猟師の資格を持っていて、二人で山中に狩りに行くことがあったらしい。
そして巨大猪を仕留めた一撃であるが、あれは小さい頃から剣術道場でずっと習っていたおかげだそうだ。
「いや、それであの一撃は説明しきれてねーだろ」
「そうなのよねぇ。その辺、実は私にもよくわかってないのよ」
凪曰く、ここにきて、最初のうちはそうでもなかったらしいのだが、一日を過ぎる頃から急に腕力が強くなったらしい。
涼太が手にもってその硬さを確認した石を、凪は素手で握り砕いてみせた。
これを見た涼太は、額に手を当て呟く。
「ここ、マジで何処なんだよ……」
「……ほんとにね」