第9話:現実であり真実
「おい、長瀬。お前一体どういうつもりでこんなことを……」
「…………」
「健斗、僕の事はいいからその辺にしてくれ」
突如健斗と長瀬の間に割って入った僕に、四人は同様の驚愕した視線を向けた。
まるで長瀬を守ってるみたい……違う、そんな事はない。
僕はただ、三人を巻き込まないようにしているだけだ。
「涼太、お前さっき言ってた事は嘘だったのか?」
「違うんだ健斗。僕は長瀬を嫌ってくれって言いたかった訳じゃない。気持ちはありがたいけど、僕はこんなことは望んでないんだ」
「…………お前がそういうならいいけどよ。俺らはやっぱ気がおさまらねぇんだよ。大切な親友を無下に扱うような女は大っ嫌いだ」
多分、僕も嫌いだ。だけど、嫌うのは僕だけでいい。
「ありがとう。でも……」
僕の声は、今朝と同じバイクの爆音によってかき消された。
急ブレーキ音と共に勢いよく停まった大きな二人乗りバイクから、漆黒のヘルメットを被ったままの男が降りてきた。
男が向かってくる先はもちろん僕。
ヘルメットのウィンドシールドを開き、激憤した綺麗な顔立ちを露わにした。
和人とか言うその茶髪の男は僕の後ろで小さくなっている長瀬の前に仁王立ちし、僕たちに向けて一喝した。
「君たち、僕の香澄ちゃんに手出そうとしてるのか? ってよく見たら、一昨日のストーカーじゃないか。全く、君も懲りないね」
男の言葉に僕の心が悲鳴をあげている。
目の前で展開されている現実。
僕が今まで逃げ続けてきたモノに追いつかれてしまった。
口をひらけば僕の蓋は外れてしまう。
現実への不満。そして戻ってこない過去への悲痛の叫び。
望まない真実が、もうすぐそこまで迫っている。
「テメー、一体何様だ? 俺らは長瀬に一言文句を言ってやろうとしただけで、こんなクソアマに手出すわけねーだろ」
「クソアマ? 君の目は節穴なのか? こんなに美しく、才に溢れた理想的な女性をそんな風に捉えているなんて。流石はストーカーの友人、と言ったところか」
なんで健斗達まで罵られる?
なんでこんな奴が僕の彼女を奪った?
なんで長瀬はこんな奴を好きになった?
重石が砕けた音が心の中で響き渡り、同時に穴だらけの蓋は完全に機能を失った。
憎しみ、悲哀、憤怒、愛情。
全てが混在した、混沌とした感情が僕の理性を喰らい尽くしている。
死にたい、殺したい、奪いたい、愛したい。
涙は出なかった。代わりに湧き出てきたのは目の前の茶髪に対する憎悪の念。
「お前、和人とか言ったな? 香澄を返せよ。今お前の後ろで竦み上がってる女を返せよ」
「君、頭大丈夫かい? 妄想も大概にした方がいいと思うよ? 香澄ちゃんの美麗さに目を奪われるのは分かるけど、そこまで行くと流石の僕でも引くよ。香澄ちゃんに悪影響だから、僕たちはそろそろお暇させてもらうよ」
頭がおかしい。それは正しい。僕の頭はおかしい。
自分から、そして相手から別れを告げられた筈なのに、僕はどうしても諦めきれないでいる。
ほんと、僕は何がしたいんだろうか。
なんで和人に向けて足を進めているんだろうか。
なんで勝手に口が開いてしまうのだろうか。
「おい、待てよ」
「ん? まだ何か用かい、ストーカー君?」
何の用がある。何も用はない筈だろ?
何も言いたい事は、何もできる事はない筈だろ?
「…………」
「ストーカー君、本当に頭大丈夫かい? 人を呼び止めておいて、何も言わないなんてどうかしてるよ」
「どうかしてんのはテメーだろ」
僕の声じゃなかった。
その声の主は段々と歩を進めてくる。
僕の横を通り過ぎた救世主は、後ろに三人の先輩たちを引き連れてやって来た。
「なんだい君達は? 君の顔、どこかで見たことが……あぁ、あの日ストーカーを抑えてくれた良い人じゃないか。あの時は助かったよ。でも、僕がどうかしているとは聞き捨てならないn……グハァッ」
憎き男のヘルメットが、深く歪に凹み、地に倒れた。
強烈な拳での一撃。ヘルメットをも歪ませる、僕にとっての正義の鉄槌。
その持ち主は、僕の元へ来てくれたかけがえのない存在。
「か、神崎先輩……」
神崎先輩は、和人を殴った手を強く握りしめて、視線をそのままに僕の肩にもう片方の手を置いた。
「遅くなって悪かったな。辛いだろうが今は我慢しろ。こういうのは俺の仕事だ」
理性が戻ったのと同時に、僕は自分の爪で出血する程に力強く拳を握っていた事に気づいた。
先輩が来なかったら、和人を殴ってくれなかったら、僕は和人に暴力を振るっていたんだろう。
復讐は何も生まない。それは分かっていた筈なのに。
でも、僕の代わりに先輩が罪を……
「ええぞー、篤! もっとやれー!」
思考を遮ったのは、神崎先輩の後ろにいた茶髪ミディアムの女子の先輩の一人。
誰だろう。見た事ない人だ。
「……野蛮だ」
和人が起き上がりながらそう呟いた。
起き上がって欲しくなかった。でも、それは現実には起こらない。
僕の望むものは、何も現実にはならないのだから。
「なんて野蛮な行為をする輩なんだろうか。君の顔はよく覚えておこう。だがもう見ることはない。周囲を見ろ。ここは君の高校の目の前。暴力沙汰を起こした事はすぐに責任者にも伝達されるだろう。そして君は社会的に終了だ。野蛮人には相応しい結末だね」
「俺がそんな分かりきった事を見落とすと思うのか? 自慢じゃねぇが俺は同じような事を何度もしてる。それなのに退学にならねぇ理由、分かるだろう?」
「……なるほどな。まぁいい。君の事はあらゆる手段を行使して潰してやろう。なんたって僕は……」
「和人くん。もう行こうよ?」
その一言は全てを遮った。
続く会話をより強調するために。僕をどん底まで突き落すために。
「ごめんね香澄ちゃん。そうだね、僕が悪かったよ。じゃあ行こうか?」
「うん。今日は水族館に連れて行ってくれるんでしょ?」
「そうだよ。エイに触れるんだってさ。行った事あるかい?」
「……ううん。初めてだから楽しみだよ、和人くん」
和人は香澄にヘルメットを手渡し、僕から更に遠ざかろうとした。
現実には決して手は届かない。分かっていたのに信じたくなかった。
「長瀬香澄。お前、本当にそれが正しい選択なのか?」
「…………」
神崎先輩が伸ばした綱も、香澄は無言で断ち切った。
代わりに返事をしたのは漆黒の馬の鳴き声。
大きな音を立て、僕から理想を攫っていった。
場に訪れたのは沈黙。いや、僕が全ての情報を遮断しているのかもしれない。
なのに、その筈なのに、頭の中では水飛沫の音が響き渡っている。
四匹のイルカが、宙に吊るされた輪をめがけてジャンプしている光景が見える。
僕の隣で歓声を上げている少女が見える。
「凄いねー! 私も将来お金持ちになれたらイルカを飼いたいな〜」
可愛い彼女の、少し抜けた発言。
「きゃっ。このエイ私に威嚇してるー!」
ぴちゃっと可愛らしく水しぶきを上げる、小さなエイと華奢な白い手。
「また来ようね、涼太!」
繋がれた僕達の手。一ヶ月前に交わした約束。
もう叶うことのない、守られる事のない約束。
でも、千本の槍を食らったのは僕の心だけ。
無防備になった想いは、痛みと共に過去を想起させる。
楽しかった。忘れる事なんてできない、十四年間の思い出。
恋人になった瞬間に交わした言葉。
「か、香澄! 僕と、付き合って下さい」
「やっと言ってくれた。ずーっと待ってたんだよ? 私からもお願いします、涼太」
嘘だとは思えない。思いたくもない。一年前からじゃなく、もっと前から僕らは両想いだった。
でも、それは現実じゃない。
きっと、数十分後には和人に同じようないたずらな笑顔を浮かべるんだろう。
エイを触って、初めての体験かのように振る舞うんだろう。
そして、二人はまた愛を育むんだろう……
……もう、耐えられない。
箱の中のフィギュアのように無感情ではいられなかった。
神崎先輩のように強くはなれなかった。
なろうとしても、そう振舞っても、僕にはもう限界。
蓋のない容器から漏れ出た分だけ、僕の瞳が透明な血を流している。
心という、不可視な臓器の傷跡から。
透明な血は僕の喉からも這い出てくる。
言葉という、形のないモノを模して。
「何が、ダメだったのかな…… どうして、僕は捨てられたのかな…… なんで、香澄はアイツを選んだのかな…… 僕は、どうしてまだ香澄の事が好きなのかな……」
古傷は僕の全てを曝け出した。
この数日間、僕の心を支配していた答えのない疑問。
こんな質問を口にしても意味がない。
僕にでさえ分からない事柄を他の誰かが知っている訳が無い。
それでも、神崎先輩は僕の質問に答えてくれた。
「涼太、そんなヘタレみたく泣くんじゃねえ。大丈夫。俺も、姉貴も、健斗たちだってついてるからよ」
望んだ答えじゃない回答。
神崎先輩でも現実の正解は知らない。
真実という名の、誰も知らない事実のことは。
「先輩、僕は、僕は……もうこんな思いはしたくないです。でもまだ香澄の事は大好きです。僕には彼女を忘れることなんてできない」
それでも僕は口にしてしまう。
言ってはいけない。抱いていてはいけない全ての感情の元凶を。
「前にも言ったろ? 忘れなくていい。俺も、お前が好きだった香澄ちゃんは好きだった。俺の後輩の面倒を見てくれる、優しい彼女をな。俺も正直今だに信じられてない部分はある。だけど、それはただの思い出だ。大切にし過ぎると身を滅ぼすただの毒。だからお前は俺の後をついてくればいい。俺が、人生の先輩として必ずお前を救ってやる」
毒、まさにその通りだ。
僕の精神を死の淵まで追いやった、ただの猛毒。
少し前までは甘くて、今は苦い。
恋という名の劇薬は気弱な僕を見事に虜にしていたようだ。
そして今、真実を知った。
僕は失恋したんだ。
和人とかいう男に負けた。
あんな性格の悪い男に僕は敗北した。
それでもそれは現実であり真実。
どれだけ悲しくても、どれだけ悔しくても、どれだけ憎くても、この現実は覆す事ができない。
誰もあんな男を好く香澄の心情は理解できない。
それでもこの現実は真実。
そして、香澄の事を嫌いになれない、忘れる事ができないのも僕の現実であり真実。
僕が知っている、過去の香澄の顔も現実であり真実。
今負った心の傷も。今知った失恋の辛さも全てが現実であり真実。
僕は現実に向き合ったつもりでいた。
でも、真実から顔を背けていた。
神崎先輩は、真実と向き合ってもいいと言ってくれた。
幸せな過去を忘れなくてもいいと言ってくれた。
なら僕は、その想いと共に次へ進みたい。
上書きなんて必要ない。ただ、真実と向き合いながら未来を探す。
濃霧に包まれた未来への道も、芭蕉扇を持っている先輩なら晴れた道にしてくれる。
そしてきっと見つけ出すんだ。
僕の心に沁みついた猛毒を浄化してくれる、太陽のような存在を。
だから、僕は優しく差し伸べられた大きな右手を受け入れる。
僕の虚弱な右手を、しっかりと支えてくれる先輩の手に重ねて頼んでみよう。
「先輩、お願いしてもいいですか?」
「当たり前だ。男に二言はねぇよ」
僕を引き上げてくれた手は、地獄にもたらされた一本の蜘蛛の糸。
依存し過ぎてはダメ。頼りすぎると切れてしまう。
ただ、キッカケを与えてくれるだけのモノ。
ヘタレな僕に先輩がもたらしてくれたチャンス。
「よっしゃ。じゃあ予定通り遊びに行くか。お前らも、涼太が頑張ってんだから怒るのもその辺にしとけ。特に愛と夢花。冷静な一真を見習え。アホと幼女にはそんなことも理解できねーのか?」
「アホちゃうわ!」
「ひどいよー! 神崎くんはいつも私をいじめるんだから。ねー、一真?」
「ん、そうかもな」
新しい道で待っているのは新たな出会い。
千野先輩と飯島先輩、それに山内先輩のさりげない会話が僕を笑顔にする。
悲しい筈なのに、以前よりも悲しくない。
色々あったけど、実際は別れの日から何も変わっていない。
僕はただ、真実を見つめ始めただけ。
「今度は嘘じゃない笑顔だな。姉貴も喜ぶと思うぞ?」
「先輩は本当にいじわるだ。でも、いつもありがとうございます」
「俺はお前に俺みたくなって欲しくないだけだ。だから気にすんな。これは自己満足なんだよ」
そう言って、先輩は僕の肩に腕を置いて歩き始めた。
そんな顔で言われても嘘だとバレバレなのに。
でも本当に、ありがとうございます。




