第2話:現実を乗り越える勇気
これは現実なんかじゃない。きっと見間違いだ。そうだ、ただの見間違い……
「嘘……ですよね、先輩? きっと同じ名前で同じ容姿で同じ高校の女子、ですよね?」
「…………あれは香澄ちゃんだった。俺は嘘をつきたくはない。もう一度言うぞ、あれはお前の彼女だった」
容赦のない先輩の言葉。でも神崎先輩らしい気もする。
僕に間違った道に進んで欲しくない、現実から逃げて欲しくないと思う、優しい心の持ち主。
でも、僕は激しい嘔吐感に苛まされた。
僕の彼女、いや、裏切り者が知らないイケメンとホテルに入っていった事実。
二人がこの数分後にどのような行為をするのかを考えただけで、もう……
「––––––––––ぅぇ」
耐えきれなかった。目の前に広がる自分の吐瀉物。僕の、裏切り者に対する想いが全て体から出ていってしまったような感覚。
でも、香澄の事はまだ大好きだ。だからこんなに苦しい。
約束を破ったのは僕ではないのに、針を千本飲まされたように痛む心。
一瞬でも死にたいと思ってしまうほどに、生力を失った僕の心。
香澄は、僕の人生において、それほど重要な人物だった。
「……涼太。俺の家に行くぞ」
先輩は、大きく内容物をぶちまけた僕に優しい声をかけてくれた。
だが、手にも、足に力が入らない。
這いつくばったまま、段々と、目から光が失われていくのが分かる。
––––せん、ぱい……
暗闇の中で待っていてくれたのは、僕の愛する人だった。
「香澄、さっきの男は誰?」
「何のこと? 涼太ったら、相変わらず起きた後はいつも寝ぼけてるね?」
気がつくと、僕の視界は最愛の人の笑顔で埋め尽くされていた。
頭の下には柔らかな太ももの感触がし、バスローブでかろうじて隠されている色白の肌。
僕は、一体何をしていたんだっけ……
「寝坊助な涼太は、私たちが昨日の夜にした事、忘れちゃったの? 初めてだったのに覚えてないなんて、だから涼太じゃダメなんだよ」
「え? なに? 僕たちは何をしたの? 何がダメなの?」
「自分でそんな事も分からないの? と言うか、涼太って気弱で頼りないからやっぱり無理。––––––くんを選んで正解だったわ」
「か、香澄?」
頭の下から柔らかな感触が消えた。
同時に、僕はなぜかコンクリートの道に這いつくばっている。目の前にいるのは、狂気の笑顔を浮かべた僕の幼馴染と浮気相手の男。
僕に見せつけるようにキスをし、ピンク色のホテルへ入っていく。
「香澄ちゃん、あの冴えない男は知り合いかなんか?」
「あんなカスみたいな男、知るわけないでしょ? そんなことより、早く行きましょうよ、––––くん!」
「なーんだ。ただのストーカーか。キモいから死んでくれないか? それと、俺たちの前に二度と姿を現わすな。わかったらさっさと消えろ」
違う、あんな顔をするのは僕の知っている香澄じゃない。
香澄は優しくて、嘘もつけないような純粋な子だったはずだ。
そうだ、違う。これは現実なんかじゃない。だって、香澄は僕の彼女……
「––––涼太」
誰か他の男の声がする。荒々しいけど優しい声。
「––––涼太、しっかりしろ」
力の抜けた死体のような僕の体を誰かが揺すっている。
「…………はっ」
どうやら気を失っていたようだ。
視界に入ってきたのは、金髪の神崎先輩の顔と、短い黒髪の綺麗な女性の顔。
それに、僕はなぜか知らない部屋にいる。
ふかふかのソファに寝かせられ、綺麗な女の人は僕の頭をそっと撫でている。
「め、女神様……」
そう思える程に、美人の女性は安らぎを与えてくれる存在だった。
朦朧とする意識の中、神崎先輩が呆れたような顔をし、女神様が頬を紅潮させているのが見える。
「女神様だなんて、あんたの後輩は中々口がうまいじゃないか〜。彼女に浮気されちゃったんなら、私がもらってあげてもいいけど?」
「姉貴、冗談は程々にしてくれ。涼太の将来を思うと悪影響でしかない」
「は? あんた、そんな舐めた口聞くなんて、何様のつもり?」
「ご、ごめんなさい」
先輩が怯えた子犬のような表情で女神様に謝った。
いや、女神様じゃなくて、先輩のお姉さんか。
てことは、ここは先輩のお家で、僕はあのホテル街で……
「…………ぅ」
吐きはしなかったが、嫌な事を思い出してしまった。
あれは紛れもない現実。
まだ胸が張り裂けそうな想いに支配されている。
全身を襲う怖気。愛する人の裏切りに対する怒り。でも、心の底から嫌いになれない。
今はまだ、香澄の事が好きだから。
体を起こして、とにかく先輩にお礼を言わないと。
「あ、あの、先輩が僕を?」
「おう。お前、あんな道端で気を失うなんて、情けないぞ……」
バシンっと先輩の後頭部から打撃音が聞こえた。
いや、ただお姉さんが平手打ちしただけなんだけど、まるで鈍器で殴ったかのような威力。
先輩がお姉さんを畏怖する理由がなんとなく分かったかもしれない。
「篤、あんた後輩が悲しい想いしてんのに、なに無神経な事言ってんのよ。全く、こんなに可愛い少年をいじめるなんて。ひどいわよねぇ、涼太くん?」
「は、はぁ。え、えーと、先輩のお姉さん、ですよね?」
「お姉さんだなんて、やっぱりいい子じゃない。そうだよ〜、私が篤の美人なお姉さん。絢香っていうの、よろしくね」
「よ、よろしくお願いします、絢香さん」
「ドキュンっ」
と言いながら、絢香さんが背中から地面に倒れた。
明るい人みたいだ。僕の曇った心が少しだけ晴れたような気がするよ。
絢香さんは、起き上がると、豊満な胸を僕の顔に押し付けた。
体はどうしても反応してしまう。こんな状況だっていうのに、男の本能だけは正常運行みたいだ。
「絢香さん、だなんて。涼太くんはやっぱり可愛いね〜。本当に私が食べちゃおっかな〜」
「姉貴、本当に勘弁してくれ。涼太の初めてはちゃんと好きな人と……」
「なら涼太くんが私のこと好きになればいいのよね? 涼太くん、私のこと、好き?」
唐突な展開すぎて全くついていけない。
絢香さんの口調はどう考えても冗談だし、何処と無く先輩が僕をからかう時に似てる。
やっぱり、姉弟なんだな。
「ぼ、僕は、その……」
すると、先輩が僕の首根っこを掴んで、絢香さんから引き離した。
なんか母ライオンに守られている子ライオンみたいだ。
でも、そんな事をすると絢香さんが先輩を……
「涼太も、はっきりと言ってやれ。こんな 淫乱女には興味ねーってな」
バキバキバキ、と不快な音が部屋中に鳴り響いた。
絢香さんが指を鳴らしながら、鬼の形相になっている。
あぁ、なんだか二人だけなのに随分と賑やかな家庭だな……
「待て、姉貴、顔はやめr……グハッ」
先輩は僕を離して地に倒れた。相当な威力の一撃だったんだろう、可哀想に。
「あ、絢香さん。落ち着いてください」
「ごめんね〜涼太くん。でも、元気になったみたいで良かったわ。さっきまで死にそうな顔して魘されてたのよ?」
……本当だ。
先輩と絢香さんのおかげで無理やりなら笑顔を作る余裕までできている。
現実と夢の中で見た悪夢は、未だに僕の心を蝕み続けている。
だけど、この柔らかい雰囲気の中で、僕は少なからず救われているのかもしれない。
それに気がついて緊張の糸が切れた途端に、両目から涙が溢れてきた。
さっきまでは哀しみに暮れる余力もなかったんだろう。
静かに涙を流す僕を、絢香さんはそっと抱きしめてくれた。
先輩も、僕の頭をポンポンと叩いて励ましてくれている。
「涼太くん、辛かったわよね。私は男の子じゃないから分からない部分もあるけど、その悲しみは私も、それに篤だって知ってるから。だから、好きなだけ泣いていいのよ」
「女は怖い。俺も高一の時にそれを知った。辛いときは泣けばいい。泣いて泣いて、そして気が済んらだら前を向け。そうやって、男は成長していくもんだ」
「絢香さん、先輩……」
今は泣いてもいい。
全ての悲しみを身体中から流し出すために。
言葉では言い表せない、絶望に満ちた僕の想念を自由にしてやるために。
「僕は、僕は……これから、どうすればいいんですか?」
そして次に襲って来るのは近い将来への不安。
明日、学校に行けば、教室で再び裏切り者の顔を見てしまう。
僕は一体どんな心構えでアイツと接すればいいのか。
向こうが、しらを切ったら僕はどうするべきなのか。
それに、僕は何を伝えるべきなのか、何を決断するべきなのか……
「明日、その子を何処かに呼び出しなさい。絶対に来るはずよ、女子ならそうするわ。そして、彼女の本心を聞いてから、よく考えて決断するの」
「これはお前の決めることだが、どの選択をしてもお前は後悔する。これは俺の経験から言えることだ。だから、自分の好きなようにしろ。結果はどっちでも変わらない」
先輩も絢香さんも、違うけど似たようなことを言ってくれた。
全ては僕次第。別れを決断するのも、浮気を知りながらも香澄を好きで居続けるのも。
僕の人生の全ては香澄だった。だから香澄を失ったらどうなるのかが分からない。
残酷な現実を知った上で離したくない。浮気を許容して付き合えるのなら、それでもいい。
でも、そう思っているのは、今の自分だけかもしれない。
先輩の言う通り、僕は別れても、関係を続けても後悔をするだろう。
喪失感に直面するか、偽りの現実を見続けるか。どう足掻いてもそのどちらかでしかない。
考えれば簡単な事。僕は未来の可能性を理解している。全部分かってはいるんだ。
だけど、絶望に明け暮れ、混迷した心境の今の僕には、どの選択肢が正しいのか分からない。
裏切りは許せない。けれども香澄の事は忘れきれない。
ヘタレな僕には、無慈悲な現実を乗り越える勇気なんてないのかもしれない。