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なんだか今日は、家に帰りたくない。
どうせ家に帰ったって誰もいないんだし、なんだか今はそんなところよりもっと明るい場所に行きたかった。ふかふかの布団よりも、冷えたリビングよりも、もっと喧騒に身を紛らわせていたかった。落ち込んでいるわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、そんな単純じゃない、もっとふわふわした情緒がわたしをそうさせているのだろう。
今までも何度かそんな気分になった時があって、特に今年の6月は酷かった。何もかもに絶望して、全部がどうでもよくて仕方なかった。欠けてしまったパズルは永遠に未完成で、そして一度気づいてしまえばそこにしか目がいかなくなるのだと、気付かされたから。
そんな不安定なわたしを救ってくれた場所が学校から駅までの道を少し外れたところにある。そこがわたしの秘密基地で、唯一の親友だった。
気がつけばもう辺りはすっかり夜に染まっている。わたしの足元を照らしてくれるのは、ぽつりぽつりと置かれた電灯と元気に瞬く空の小さな光の粒だけ。わたしの高校の周辺ははっきりいって都会的ではないけれど、廃れたコンクリートの不細工な色と、どこか他人行儀な紺色の空と、よく澄んだ空気と、丁度この時期から咲き始めた金木犀の匂いが、どうしようもなく胸の奥の方をあたたかくしてくれて、好きだった。
感傷に浸りながら、ふと腕時計を見てぎょっとする。少しゆっくり歩きすぎたかな。まだ間に合うかな。そんなことを考えながら少し駆け足であの秘密基地へ向かう。そう、今日はちょっとわがままなわたしだから、寄り道をするんだ。
気まぐれなオーナーのことだから、閉店が何時になるかなんて全く察しがつかないし……。でも気前が良い時には10時まで開いてくれてるし……あと10分でタイムリミットだ!
夜に染まった誰もいない道を駆け抜けて行く。
受験期に入ってからあの店に行く回数も減っていった(といっても週に一度は必ず行くけれど)ので、今から子供のようにわくわくしていた。
それに、今日はいつもより優しい紺色をしてる気がするんだ。そう思うと、なんだか全てが優しく思えた。
細い道を抜けて裏路地に入る。この退廃的な空気がなんともファンタジックで、このまま違う世界へ連れて言ってくれるんじゃないかなんてちょっと本気で期待してしまう。もしかしたらもうここは夢の中なのかも、なんてそう考えると妙に楽しくなって、そしてわたしはとうとうあの店を見つけた。
一目見ただけじゃお店だなんて想像できないくらい、すっかり住宅に溶け込んだ一軒。店先に立てかけてある申し訳程度の看板と、得意げに帽子を被り杖を構えた奇抜なタキシード姿の猫の置物がこの店の唯一の目印で、孤高の案内人。
からんからん、とドアーベルが控えめな声を出して、わたしを店へ招き入れた。
「おっ、来たか来たか」
穏やかさの中に何処と無く孤独を混ぜた芯のある低音がわたしを包む。こげ茶がかった猫っ毛を揺らしながら(また髪が伸びている)彼はカウンターの奥からおもむろに顔を出して手をひらひらと動かした。今日も相変わらず気だるげで、元気そう。
どこか異国情緒を感じさせる店の中は、電球色の暖かな灯りとウッド調で統一されている。テーブルやカウンターの上には所々小洒落た猫やカエルの置物が置かれていて、それぞれピアノやバイオリンを弾いたりベンチに腰掛けたりと、みんな居心地良さそう。
「もうすぐ閉めようと思ってたんだがなぁ……なんだか随分久しぶりな気がするね。コーヒーでいいか?」
彼はそう言って立ち上がり、新しいカップを手に取とる。
「いや、いいです。眠れなくなったら困るし。お水ください」
「おうおう、わざわざコーヒーの美味しい店に来たってのにお水くださいとは面白いな。はいよ」
わたしの言葉に戸惑ったのか彼は少しだけ笑って手元のカップを見つめ、それに水を注いでカウンターに差し出した。
「コーヒーカップで水飲むなんて初めてですよ」
「ワガママいうなよ。取ってくんの面倒なんだよ、コップは店の奥にあるから。」
わたしはコップの置かれたカウンター席へ腰掛け、やっぱり相変わらずだ、とひとつ苦笑した。
町の外れ、住宅に紛れてぽつりとあるこの店は、名のない喫茶店。それは別にかっこつけているわけではなく、本当に名前がないのだ。オーナー曰く、「そんなものに意味はない。良いもん提供できればそれで満点だろ?」とのことだが、ただ単に名前を考えるのを面倒くさがってるだけなのだと、常連客のわたしは思う。
オーナーの桐生……下の名前は確か洋平だったかな。彼と知り合って半年以上経つけれど、実は彼の名前以上のことをわたしは知らない。彼も、わたしのことを殆ど知らない。名前すら覚えてもらっているかどうか怪しい。とにかく面倒臭がりでマイペースな彼の性格に最初は驚いたけれど、不思議と話していて嫌な気はしなかった。むしろ波長が合いすぎている気がしたのだが、そこでわたしも面倒臭がりでマイペースな奴なのだと気付かされたっけ。