第一話 怪物⑧
委員長の膝は笑っていた。今にもバランスを崩して、転倒しかねないほどに。
恐怖から逃れようと上半身は仰け反っているが、彼女の足は震えていうことを聞かなかった。
でも、彼女の足がようやく動き始める。
それは、後退ではなく前進であった。
表情が睨まれた蛙から、睨む蛇に変貌した。
彼女の体の震えが、恐怖か怒りに変わっていったのだ。
「めありさん……。あなたのせいでッ! あなたのせいでッ!!」
その言葉を何度も連呼した。私の頭に刻むためか、自分の怨恨を確認するためか、はたまた今までの溜まっていた妬みが溢れだしたのか。
一度漏れ出したそれは、理性というダムの壁を決壊させ、本音が勢いよく流れ始めた。
「あなたがいなかったら、私が成績一位だった! あなたがいなければ私は完璧な人間だと思っていられた! あなたが転校してきてからすべてが変わった! お母さんに喜んでもらえたあの日々を返して! 嫉妬の毎日はもう十分なの! もう消えて、私の目の前から、この世界から……!」
彼女は、ブレザーの内側から、果物ナイフを取り出した。
怒り狂った彼女は、すでにまともな思考などしていなく、私目掛けて、突進してきた。
「死ねぇぇぇぇぇぇl!!!!!」
私は彼女が接近するのをただ見ているだけだった。
彼女の全体重が私にかかる。私のお腹には鋭いものが刺さった感触があった。
耳元で、委員長の荒い息が聞こえる。
それは、空気を吸うのを忘れて、吐く一方であった。
その呼吸がいきなり止まった。
彼女は、一歩後ずさりして、私のお腹を凝視する。
赤く染まっている。服は切り裂かれている。確実に彼女はナイフを私のお腹に刺した。
しかし、私のお腹の中から血は溢れていなかった。
そして、彼女は気づく。
握りしめているナイフの刃がつぶれていることに。
「あ……あ……」
彼女は驚きで声すら出せなくなった。手元からするりとナイフが落ちた。
「化け物……。化け物……ッ」
「あなたにだけは言われたくないわ。人間もどきが」
「私は人間よ!」
本当に往生際が悪い。
「人間もどきよ。このモルモットが。あなたはバカだけどそれくらい分かっているでしょ?」
「分からない……ッ。分からないわよッ!」
彼女は頭を抱えて、涙する。歯ぎしりの音がギリギリと聞こえた。
「あなたさっき『あの子ならきっと、今頃、国軍の特殊部隊に襲われて、蜂の巣よ』って言ってたじゃない。明らかに自分の立場を知っている発言じゃない」
自分の失言に対しても、「言ってない」と目を背く。
「私の記憶力と耳の良さを侮らないでもらえる? 私は人間離れした性能を持っているのだから。ちーちゃんが教えてくれたでしょ?」
ブチッ。彼女の中で何かが切れた。
「なんで私に劣等感なんて植え付けたのよ? この偽りの記憶のせいで、私はどれだけ苦しんだと思っているのよ?」
もう現実から逃れることを諦める。
「知らないわよ。私に責任なんてないもの。それにあなたはそのために生まれたのだから仕方ないじゃない」
「違う! 私の生まれた意味は、そうじゃない!」
「いや、それがあなたの生まれた意味よ。そこが、人間と人間もどきの違い。
人間もどきのあなたは意味があって生まれた。
人間は意味なく生まれるのだから」
「私は……人間よ」
「人間じゃないよ。もう人間じゃない」
ちーちゃんが口を開いた。
委員長がちーちゃんのほうに振り向く。
「『もう』って、どういう意味?」
「委員長さん。見てごらん、自分の手を」
彼女は視線を掌に移した。人間であるはずの自分の手を。
しかし、もはや、彼女の手は人間のそれではなかった。
異様なほど毛むくじゃらで、強堅で、奇怪で……。
それは、獣の手であった。
「いやッ! いやァァァァァァッッッ!!!」
彼女の体が少しずつ膨れ上がっていった。服が裂け、ボタンがふっ飛ぶ。下着の向こうは、毛で覆われ、筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)きゃあな肉体がさらけ出された。
華奢な少女は、大猿へと変化していった。
訂正、大猿ではない。あれは……。
「狒狒だね、やっぱり」
そういうと、ちーちゃんは屋根から飛び降り、委員長のもとへ近付く。
砂利を踏みしめながら、一歩ずつ歩く。
「助けて……」
牙の生えた口で助けを求める。委員長は、ちーちゃんへ、手を伸ばす。
プライドを放り捨てて、生きようともがく。
「僕は助けることはできないよ」
ちーちゃんは、あと一歩のところで、立ち止まる。
「お願い助けて……」
ちーちゃんはしゃがんで、足元に落ちたナイフを拾う。
「生かすことはできないよ」
でも。
「楽にしてあげるよ。一思いに」
ちーちゃんは、委員長の肩を掴んだ。
確実に仕留めようと、ナイフを彼女の喉目掛けて、突き刺そうとする。
その瞬間、私は委員長にまたがった。
ちーちゃんのナイフがピタリと止まる。
そして……。
「ぐぁ……ッ」
私の手刀が、彼女の胸を貫いた。雪崩のように、内臓と血液が流れていく。
体毛が抜け、筋肉が縮小した、スレンダーな体が血の溜池に溺れていった。
瞳孔の開いた瞳は、涙で濡れていた。
ちーちゃんは、彼女を見下ろして、言った。
潰れたナイフを握りしめて。
「言ったでしょ……。神になりすました狒狒は、結局、退治されたって……。
高望みしたから、身を滅ぼしたんだよ……」




