第一話 怪物⑤
今朝と同じ道のりを歩く。今朝のように小鳥はさえずっていないし、登校途中の明朗な小学生の「ただいま」もない。
いるのは電灯の周りを飛び回る蛾で、聞こえるのは一家の大黒柱の「ただいま」だ。
明るい窓の向こうは、学校や職場のことを忘れて、家族団欒で食事でもしているのだろう。
昔は、その談笑が家から漏れて、暗いこの道を温かな空気に包んでいたが、ご近所迷惑なる人の悪しき慣習のせいで、どの家も窓に防音用のシートを貼るようになってしまった。
少数派のために、大多数が犠牲になってしまう民主主義は馬鹿げているとしか思えない。
なのに、現時点でそれが最善策だと言うのだから、笑える。自然科学の大幅な発達にたいして、社会科学の発達と言ったら……。滑稽なものだ。
人間の愚かさなんて考えても無駄だと思ったので、すぐにこのことについての考察を止めた。
目的地に向かって、山道を登って行く。気がついたら、周りが住宅ではなく、森林に変わっていた。
この街はずれの小山の頂上にそれがある。周りは木々が生い茂り、人工的なものは、電柱と学校への坂道しかない。どうやらこの小山だけ、麓の発展に置いてけぼりにされてしまったようだ。
鳥や虫の鳴き声だけが聞こえてくる。既に、人の声や車のエンジン音は遥か彼方だ。
目が、暗闇の中、遠く遠くからの光の反射を何とか捕まえようと必死になる。
そんな霞んだ視界の中に目的地が映ってきた。つい数時間前に、無駄な時間を過ごしていた私の高校である。
それは西洋風の建物で、水色の尖がった円錐の屋根、コンクリートでできた壁が特徴だ。
暗闇の中だと、吸血鬼が出てきそうなほど不気味さを醸し出していた。
雑草が壁の半分を侵食し、その汚さはまるで廃校になっているようだ。
まあ、廃校になっているのだけど……。
その薄暗くて不気味な学校の門の前に、一人の老人が立っていた。
研究者という身分がすぐばれるような白衣を身にまとい、ご丁寧に白い手袋を両手にはめていた。
「待っていましたよ。めありさん」
私を見ると、老人はニコリと微笑んだ。本当にこの人の笑顔は気持ち悪い……。
「それはそれはご苦労様。時間が短縮して助かるわ。今日も早めにお願い」
私たちは、挨拶もそこそこに、無言で学校の中に入って行った。
サッカー部や野球部が使っているグランドを通り、昇降口に着くと、その扉の鍵を外す。
そのまま校舎へ入り、すぐ左手に給食室があり、その中に給食を運ぶエレベータがあった。
老人が白い手袋でボタンを押すと扉が開き、彼の無駄なレディーファーストに従い、私が先に中に入る。
老人が内側の「B1」と書かれたボタンを押すと、エレベータは地下に潜っていった。
地下一階のはずなのに、エレベータが止まるまでに時間が一分かかった。
その間、気圧に耳をやられたのか、老人が勢いよく唾を飲んだ。
エレベータが止まり、扉が開くと、その先には、大型デパートと同じくらいの大きさの空間があった。
壁は真っ白で、中には大勢の人がいた。
しかし、デパートと明らかに違う点が一つあった。
そこに陳列されているのは、モノではなく、生身の人が入っているカプセルであったのだ。
▷▷▷▷
「絵、上手なんだね」
委員長が部屋の中に入って最初にまず目に入ったのがその絵だった。
人の形をしていながら、山吹色の体毛、長い手、狂気に満ちた顔をもった生物。
彼女の中には、不気味さというよりむしろ「この生物は何なんだろう?」という知的好奇心が存在した。
「これは、何、書いてたの?」
抑えきれずに質問すると。
「狒狒だよ。知らない?」
ちーちゃんは、まるで万人が知っているような言い方で、答えを返した。
「狒狒……?」
目を点にして言葉を繰り返すが、どの知識の引き出しの中を探しても、見つからなかった。
「狒狒って……何かな?」
ためらいながら、言葉を詰まらせながら、答えを尋ねた。
ちーちゃんは、めありにしたのと同じように、狒狒が人を食べる怪物だと説明した。さらに、ちーちゃんは、補足説明を加えた。
「一番有名なのが『岩見重太郎に狒狒退治』だね。狒狒はとある神社の神様だと偽って、毎年娘を一人、生贄として、捧げさせその娘を食べたちゃうんだ。その事実に気づいた重太郎が、その狒狒を退治するんだ」
「へぇ……そうなんだ。よく……知ってるね……」
委員長は、小学生に知識で負けたことを悔しがった。しかし、それを表に出すのは、あまりにも大人気ないので「それは悪い妖怪だね」と無難な返しをした。
その返しにちーちゃんは顔をしかめた。
「ただの悪い妖怪じゃない気がする」
「どうしてそう思うの?」
「たぶん、狒狒はただ娘を食べたいだけじゃないと思うんだ。神様だと偽ったのは、人間に自分を認めて欲しかったんじゃないかなと思うんだよ」
その気持ちは、委員長には、なんとなく分かった。自分の客観視だけでは、自分の評価は不安定で、朧気で、どことなく儚い。
他人の評価という絶対的な価値観が、自分の自信の大きな支えとなるのだ。
「人間のことをよく分ってるんだね」
小学生ながら、考えさせられたことに感心し、委員長が素直に褒め称えた。
しかし、また彼の機嫌を損ねてしまって、ちーちゃんはしかめっ面を見せた。
「僕、人間が嫌いなんだよ。人間と関わるのが嫌い。人間と話すのが嫌い。人間を見るのも嫌い。人間である自分が…………嫌い」
彼の欠けている部分を垣間見て、委員長はつい頬を緩める。
「誰だって、一人や二人嫌いな人間だっているよ。だから、人間全員が嫌いなことないと思うんだ。現に、こうして私と話すことができているじゃない?」
そう諭したがちーちゃんは「だって……」と続けた。
「委員長さん、人間じゃないじゃん」
子どもっぽい口調で、ちーちゃんは言った。
すると、一瞬にして、その場の空気が凍りつき、やがてそれはひび割れ、崩れていった。




