第二話 醜悪⑨
上木原さんは、頼光の要望により、この部屋を退室した。
この町を牛耳るヤクザの親分が近くにいると、プレッシャーのあまりこれからする話を聞き逃す可能性があるから、彼がいなくなってくれて俺は嬉しかった。
これからする話は大事な話だ。これで俺の存在の有無がはっきりする。
頼光は、俺をソファに座らせ、電気ポットで湯飲みに緑茶を入れる。
それを御盆に載せて、その一つを俺の目の前に置いて、彼は向かいのソファに座る。
高級そうな木製の机の上に載せられた湯飲みと睨めっこする。
そして、それを取ろうと、震わせた右手を伸ばす。
一回触れそうになったが、脅えてまた湯飲みから手が離れる。
勇気を振り絞り、息を呑んで、湯飲みを掴む。
すると、やや硬く、温かい感触が手のひらに返ってきた。
俺は、安心してその緑茶を飲んだ。
井伊先生が体を透り越した経験がトラウマとなっており、俺が誰にも何にも触れることができない、幽霊のような存在になってしまったのではないかと考えていたのだ。
だが、こうして物が掴めるということは、つまり……。
「今、湯飲みが掴めたから、自分は幽霊じゃないって思ってない?」
「え!? な、なんで分かったの?」
「顔に出てるからだよ」
俺は顔に出ないタイプだと思ってたのに……。それに感情が読み取れるほど俺の顔は濃くない。
「君はほとんど幽霊だよ。幽霊は物体を透り抜けるものもいれば、そうじゃないものもいる。
君は場合によって透り抜けたり、そうじゃなかったりするようだね」
僕の目を見て、彼は話した。
先ほどまで抱いていた彼の恐ろしいイメージから一転し、優しい雰囲気を醸し出していた。
その雰囲気が彼の発言で受けた精神的なショックを和らげた。
まるで心理カウンセラーと話しているようだった。
緊張が和らいだ俺は湯飲みを飲み干して、本題に入った。
「なんで俺はこんな状態になったんだ?」
彼は座り直して、前がかりだった姿勢から、背筋を伸ばした姿勢に変える。
目線も、一旦俺の目から離してから、また合わせた。
「それは君が望んだからだよ」
「俺が……? この状況を?」
「知らないとは言わせないよ。心当たりは山ほどあるだろう?」
「たしかに俺は、誰からも見られたくないから、透明人間になれる服を買った……。
でも、存在を完全に消そうなんて……」
俺は手のひらで額を押さえる。
向かいから、「いいかい?」と声が聞こえた。
「君の勘違いを一つ正そう。
透明人間になれる服はそもそも存在しないんだよ」
彼の言ったことはあまりにも当たり前なことだ。
でも、俺はその言葉を信じることはできなかった。
「え? だって、実際に俺は……」
「君は透明人間になったきっかけは、たしかに、あの服だった。
でも、あの服はきっかけにすぎず、人を透明にする能力なんて持っていない。
根本的な原因は君が自分の存在を透明になることを望んだことだ。
その君の望みを叶えてしまったんだ」
「……誰が?」
「『この町が』だよ」
……何を言っているんだ?
俺は現実主義者だ。こんな話を信じようとするのは俺らしくない。
しかし、実際に俺の存在はなくなりかけている。
目に見たことは、体験しまったことは、信じるしかない。
だから、そんな突拍子のないことを言われても、俺は信じるしかない。
「それはどういうこと?」
「こういった怪異現象を起こすには、二つの要因が必要なんだ。
一つは環境。もう一つは人間の負の感情。
この町は怪異現象が起きやすい環境なんだ。
そこに君の負の感情が混ざり合って、この現象が起きてしまった」
「じゃあ、この町から出れば、俺は治るのか?」
「いや、君の症状は治らない。これは一種の病だ。
外国でインフルエンザにかかったら、日本に帰国しても治らないだろ?」
どうにも腑に落ちない。
もっと納得のいく説明が欲しいと思った。
でも、冷静に考えると、俺は怪異現象についてより詳しく知りたいとは思ってない。
だから、これ以上の深追いは無意味だと悟った。
「待ってくれ。もうこの現象に関してのことはいい。
俺が知りたいのはこれを治す方法だ」
「それは知らない」
「え?」
衝撃で胸が痛くなり、息苦しくなった。
まるで詐欺にあった気分だ。
「だって、だって、お前は専門家なんだろ!? 怪異現象の!」
「勘違いしないで欲しい。僕は上木原さんの頼みでこういう活動をしてるだけだ。
エセ専門家だよ。
それに本物の専門家でも治せないと思う。
医者がすべての病気を治すことができないのと一緒。
それは不治の病だ。
君と同じ症状の人を治そうとしたが、結局治らなかった」
「その治らなかった人って」
「入って」
頼光がそういうと「はーい!」と陽気な声が聞こえ、襖が開いた。
襖の方を見ると、やはりそこに上木原さんの姿があった。
そして、その隣に一人の女がいた。
俺が忌み嫌い、見下し、傷つけた女がいた。
そう、俺がノッペラボウと罵った彼女は、傷一つない姿で俺たちの前に現れたのだ。