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「こうちゃーん」
自転車を押しながら山道を登ってきた奈緒は、路肩に立っている若者の姿を見つけて手を振った。こんな山奥の村には不似合いなラメ入りの黒シャツを着て、眼下を見下ろしている若者は、ちらりと奈緒のほうを見た。奈緒は若者のそばに自転車を止めた。
「何見てんの?」
晃司が見ていたのは、二人が生まれ育った村だった。山を切り開いて作られた田圃の中に二十軒ほどの民家が点在している。いつもならこの時期、あたりを埋める小金色の稲穂の実りはなく、代わりに大型のブルドーザーが数台、轟音とともに動きまわっていた。
「本当に全部沈んじまうのかな?」
晃司がぽつりと呟いた。
村にダムができるという話が持ち上がったのは五年前のことだ。最初は村人たち全員が反対した。先祖伝来の土地で、何百年にもわたって、米や野菜を育て、土地の神々を祀り、皆で助け合い、肩を寄せ合って生きてきた。それらを捨てることなど村人たちは考えたこともなかった。しかし、山の下流の、大きな自動車工場のある町が、何度も大洪水で被害を受けたことで市や県が動き、やがて国がダムの建設を決めた。役所の人間が何度も村を訪れて、村人たちを説得して回った。
二人が立っている後ろを、新しい赤いハイブリット車が走り抜けた。
「あれ、しんちゃんちの車だよ」
奈緒がつぶやいた。
「洒落た車に乗ってやがる」
晃一が吐き捨てるように言った。
「うん」
奈緒は晃一の言葉に小さくうなずいた。
「なんか村の奴ら、昔と雰囲気違ってねぇ?」
「まあ、こうちゃんに言われたくはないけどさ」
奈緒はからかうように言って笑った。
ダムの建設が決まって一年後に、村の人たちにはかなりの額の補償金が支払われた。その金を元手に、二十所帯あった村人の内七軒はふもとの町に移住して村を出ていった。残った家も山の高台に移転して、工事が始まった山あいの村にはもう誰も住んではいない。そして三年後には全てがダム湖の底に沈む。
「ねえ、こうちゃん。東京ってどんなとこ?」
晃司は奈緒の顔を見た。
「どんなって。やたら人間がいるさ。どこもかしこも人間だらけだ」
「へえぇー」
「そんでもってみんな、すげぇ早足で歩くんだ。たらたら歩いてたら、すぐに十人くらい追い抜かれちまう」
「そうなんだ」
「ああ。回りの全部が早送りで動いてて、自分が置いてきぼりくらってるみてぇで、最初はすげぇ変な感じだった」
晃司の言葉に奈緒が笑い出した。
「何だよ?」
「こうちゃんさ、ほんとは都会の生活なんて合わなかったんだよ、きっと。痩せ我慢しないで早く帰ってくればよかったのに」
「痩せ我慢なんてしてねえよ。こんな山ん中で一生暮らすなんて、今だって嫌で嫌でたまんねえよ。俺だって金さえありゃあこんなとこ…」
いきなり晃司の頬がバチンと音を立てた。
「何すんだよ」
「バカ。晃司の大バカ。あんたのためにおじさんがどんな思いしたと思ってんのよ」
奈緒の顔が怒りで赤く染まっている。奈緒は晃司が何か言いかけたのにも耳をかさず、自転車に乗ると県道を一直線に走り下りていった。