弐ノ参話
「あー、やっちゃた」
春呼は部屋に向かいながら、先程のことを思い出していた。
「何がでございまするか?」
「態度よ。母様にあんな……どなるとかにらむとか、次期当主にふさわしくないことしちゃったし」
この話は絶対教育係に伝わるだろう。
「次期当主たるあなた様がなんてことを!」なんて説教からはじまって、人と接する時はああだこうだと続く――そんな未来が簡単に想像できる。
春呼は顔を曇らせた。
せっかく、ここ数年はいい子を演じて、自由にできる時間が少しずつ増えてきたのに。……なんて、家出から戻ってきた時点でいろいろ言われることは決定していたわけだけど。でもそれは周りがまじめすぎるからで――と家への不満が溢れそうになったところで、春呼は気持ちを切り替え、隣の九尾に目を向けた。
「あなたは何にも文句を言わないのね」
「文句を言うべき箇所があったでしょうか?」
なぜそんなことを聞くのかわからない、と九重は首をかしげる。
「九重は、春呼殿が九重を気にかけてくれるだけでも嬉しく思っておりまする」
やわらかく微笑む九重は、心の底からそう思っているに違いない。春呼は文句ばかり考えていた自分が恥ずかしくなって、ふいと顔をそむける。
「ともかく、勝手なことはしないようにね」
「はい」
秋鼓からの話はこうだった。
術士を呼ぶのは決定事項だが、術士が来るまでの間、春呼が九重の面倒を見ることは許された。しかし、春呼一人では心もとないので、夜彦を傍に置けというのだ。
言ってることはわかるけれどと春呼は吐息して、一歩後ろを歩く従者――夜彦に声をかける。
「ねぇ、もう少しおさえられない?」
「…………善処します」
「お願いね」
というのも、夜彦が絶えず殺気を飛ばしているせいで、肌が弱い火にあてられ続けているような嫌な感覚が消えないのだ。
九重を警戒するのは護衛として当然なのだろうけれど、それでも戦いを生業とするわけではない春呼からすれば控えてほしいことに違いない。
「それにしても、夜彦殿の腕は相当なものとお見受けいたしまする」
だというのにこの妖は、夜彦の神経を逆なでするようなことを平気で口にしてしまう。
「そ、そりゃそうよ。ハルジオンでも認められるくらいなんだから」
「ハルジオン?」
「……この村よりもっと広くて、人がたくさんいるところ」
納得したように首を上下させる九重は、夜彦から興味をそらしたようだ。――そらされた方はまだ機嫌を治してはいないが。
「術士もそこから来ると言っていましたね」
「ええ。……あの、平気なの?」
後ろから「お嬢様、そのようなことを聞いては」と咎める声が飛んできたが、もう口にしてしまった。
「術士が来るってことは、また」
「春呼殿」
けれど、九重の声音は穏やかだ。
「その時はその時です。とりあえずはこの時間を楽しめればと思います」
朗らかに続ける九重に毒気を抜かれ、春呼はそれ以上何も言えなかった。
九重といると、どうにも調子が崩れるわ。
「ですから、九重にいろいろなことを教えてくださいませね」
「……ふ、ふん。へまやられて恥かくのはいやだからね、しょうがないから面倒見てあげるわ」
直後、冷汗が吹き出るくらい強烈な殺気が放たれたが、春呼に後ろを向く勇気はなかった。
――空気に溶けるくらい小さな声で呼ばれた名にも、彼は反応してくれる。
部屋の障子を開けると、夕陽の色をうけて橙色に染まる、九本の尾がゆらめいていた。
冷たい風が肌を刺すように襲いかかった。冷気を吸い込んだことで、鼻につんとした痛みが走る。
「今日の勉強は終わったのですか?」
九重が振り向いた。春呼は「ええ」と頷き、九重の横に腰を下ろす。
出会いから早五日。最初の二、三日は家中が監視しているようで気が休まらなかったが、九重がおとなしくしているとわかると――もちろん監視の目はまだあるが――以前と変わらず、黙々と仕事をこなすようになっていた。
「これから書庫に行こうと思うんだけど、九重も来る?」
「お供させていただきまする」
にこにこと上機嫌に笑う九重に、春呼はこりかたまっていた肩からほっと力を抜いた。
だけれど自分の心の内を素直にさらすのは恥ずかしくて、春呼は「じゃ、行きましょう」と早々に廊下へと出る。
ちりんちりんと軽やかな鈴の音が追いかけてくるのを確認して、春呼は庭先で剣をふっている夜彦へと呼びかけた。
「夜彦」
「お供します」
間髪いれずに返事をした夜彦は近くの岩にかけていた布で汗を拭うと、足早に近付いてくる。
「今日はどのようなご用件で行かれるのですか」
いつものように薄い表情で尋ねてくる夜彦に、春呼は苦笑する。
「花ヶ雪家と綾ヶ咲家のつながりについて調べようと思って」
「自分の家でありまするのに、春呼殿はその……花ヶ雪? とどういったつながりがあるのか、知ってはいないのでするか?」
「貴様、お嬢様をバカにしているのか」
「そのようなことはないのですが」
「夜彦、すぐにけんか腰になるのは控えてちょうだい。……そうね、ある程度は知ってるわ。でも、まだ覚えきれてないことが多くて」
だから復習しておかないと、と春呼が続けると、九重は感心したように深い息をはいた。
「春呼殿は勉強熱心でございまするね」
「……あたしなんてまだまだよ」
本当に勉強熱心なら、逃げ出したりはしなかったはず。
あの日のことを思い出すと、なんてことをしたんだろうと今更ながらに信じられない気持ちになる。
「そんなことありませぬ。春呼殿はとても立派です」
春呼が家出した日のことを思い出していると、九重はまじめな顔で「春呼殿はがんばりすぎなくらいだと思いまする」と続けた。
初めてと言っていい反応に、春呼はどう返せばいいのかわからず夜彦に助けを求めた。求められた本人は何故見られたのかわからないらしく、ぽかんと見つめ返すだけだったが。
春呼は曖昧に微笑んで誤魔化すと、目の前を見据える。
後悔はしているけれど、彼と出会えたことを考えれば完全に悪いわけではなかったわ。
寒さが厳しくなるこの時期は、陽が落ちるのが早い。ついさっきまでは橙に染まっていた空が、ゆるやかに深い藍色へと変わっていく。遠慮のない風は容赦なく体温を奪っていくけれど、体の内はじんわりと温まっているなんて初めての経験で、春呼は小さく身をよじった。
「こんなに小さいのに、九重よりもたくさんのことを知っていて本当にすごいと思いまする」
「貴様なんぞと比べるな。お嬢様がすごいのは周知の事実だ」
夜彦が食いかかる。険を隠さず発せられた言葉に、春呼は顔をしかめずにはいられなかった。
「夜彦、忠告、もう忘れたの?」
「…………申し訳ありません」
「九重は気にしておりませんよ?」
「今話しているのはお嬢様と私だ。貴様は関係ない」
「そ、それは申し訳ありませぬ」
「だからね、夜彦……」
注意したにもかかわらず九重に――一方的に――かみついていく夜彦に、春呼は隠すことなくため息をついた。もう少し警戒をといてほしいと、この五日間で両の手の指じゃ足りないくらいには言ったはずなのだけど。
監視役として側にいてくれるのはいいのだが、仲が悪すぎる。常に二人に挟まれている春呼は、どうにかできないものかと頭を悩ませていた。
「そういえば春呼殿、トウシャには団子や大福といった甘味が売っている場所があると聞いたのですが」
「ええ、あるわよ。それがどうかした?」
「明日にでも、一緒に行けませぬでしょうか」
そう聞く九重はどこか落ち着きがなく、そわそわしている。
「甘いもの好きなの?」
「な、なんでばれたので!?」
「なるほど」
春呼も甘いものは大好きだ。お菓子を食べると幸せな気分になれる。
それに、友人と一緒に甘味処へ行くなんて楽しそうだ。
「貴様を村に出せるものか。バカも休み休み言え」
「…………まあ、そうよね」
ふんと鼻を鳴らす夜彦の言い分はもっともだ。春呼は軽く目を伏せながら「今度、何か持ってきてもらいましょ」と提案する。家の中でだったら文句は少ないだろう。
「見張られるというのも難しいものでございまするな」
九重はひどく残念そうだ。春呼も同じ気持ちだが、妙ととられる行動をして危険と判断されたら困る。封印を早めるような真似はできる限り避けたい。
九重を見ると耳がぺたりと倒れ、尾も力なく床に垂れている。
「その状態で歩いたら、尻尾に埃ついちゃうわよ? ほら、ちゃきちゃき歩く!」
ぱん、と九重の背を叩く。九重が何か言い足そうな顔をしたが、次の瞬間、驚いたように目を丸くした。
「失礼いたしまする」
「えっ……」
九重のしなやかな指が顎にかかり、くい、と持ち上げられた。夜彦の殺気に襲われるけれど、あまりにも近くに――九重の顔があって、動けない。
「なに?」
「んー……でございまする」
やっとの思いで絞り出した問いに、けれど九重は答えない。
どうやら、自分の瞳を見ているらしい。
だが、そんなに見つめられるような何かがあっただろうか。
「おい」
春呼が不思議に思うと同時に夜彦の声が上がり、その直後、どす、と鈍い音が聞こえてきた。
「妖風情が近付きすぎた」
「いたた、夜彦殿は乱暴すぎまする」
九重は春呼から離れると、殴られたのであろう背中をさする。
「……夜彦め」
「っふふ!」
ぼそり、と零された呟きに、春呼は思わず吹き出してしまった。すねた子供のようみたいな声音だったからだ。
「む、夜彦、しっぽを、しっぽを引っ張らないでください!」
無言で九重の髪を引っ張り春呼との距離を置かせる夜彦は無言だ。機嫌が悪いのはすぐにわかる。
けれど、春呼は微笑ましいものを見た気分になる。厳しい兄と手のかかる弟の喧嘩を目撃したような感じだ。
もしかしたら、なんだかんだで相性は悪くないのかもしれない。
「……て、もうこんなに暗くなっちゃったのね。二人とも、急ぐわよ」
闇が深まりつつあるのに気付いた春呼は、言い合う二人に声をかけた。
悩みが尽きることはないけれど、全てが悪いわけじゃない。
今後について考えることは多くあるけれど、春呼は今をもっと楽しめたらいいと、そう思うのだ。




