弐ノ壱話
春呼たちがトウシャに戻ったのは、日が変わろうかという時間だった。
森は九重の協力があり、拍子抜けするほど簡単に抜けられた。私の苦労や恐怖はなんだったんだ、と文句を言いたくなるほどに。
「お嬢様!」
これからのことを考え憂鬱な気分になりつつ、自分に遠慮のない九重との会話を楽しむという器用な真似をしながら村に足を踏み入れた途端に駆けつけて来たのは、息を切らせた夜彦だった。村人も探しに出てくれていたようで、「春呼様だ!」「良かった……」と安堵の声も聞こえてくる。それらにきゅっと心臓を掴まれたような息苦しさを覚えたが、今は夜彦の相手が先だ。
「え、えっと、ただいま?」
「そんなに汚れて……お怪我はありませんか?」
青を通り越して真っ白な顔の夜彦は、春呼の服の乱れに気付くと「すぐに医者へ!」と叫び、抱き上げようと距離を詰める。
「ちょっと、大丈夫だから!」
「ですが」
「それよりも、連絡を頼まれてくれないかしら。帰って来たという報告と、体を綺麗にしたいから、その準備を」
夜彦は普段、あまり感情を表に出さない。けれど、急に消えた春呼のことがよほど心配だったのだろう、焦りをあらわにしている。珍しく思うと同時に申し訳なくも思いながら、春呼は冷静になってくれという願いもこめて指示を出す。
そこでやっと、夜彦に――ほんの少しではあるが――余裕ができたらしい。
春呼の隣に立つ不審者の存在に気付いたのか、訝しげに眉をひそめた。
「お嬢様、この者は」
一目で人外だとわかる九重を、夜彦は殺気を隠さず睨みつける。腰の刀に手を伸ばしたのを見て、春呼は慌てて声をかけた。
「それは家に帰ってから、きちんと説明するわ」
「しかし、お嬢様に危険があっては」
「大丈夫よ。それとも、夜彦は私の言うことが信じられないの?」
「それはありえません!」
「なら、お願い。彼は、まあ……危険じゃない、から。ここまで護衛してもらったし。そんな顔しないでも、ちゃんと説明するわよ」
春呼の言葉に、夜彦はしぶしぶながらも「御意」と頷いた。
「あー、夜彦? なんで手を握るのかしら?」
「……またいなくなられたら困りますので」
「さすがに、これだけ見られてる中逃げ出しはしないわよ」
春呼が苦笑いを浮かべると、九重がことりと小首をかしげた。
「ふむ? 春呼殿は逃げてきたのでございますか?」
「貴様に話すことではない」
「ちょっと、夜彦!」
「はは、見ず知らずの妖に人の子が警戒するのは至極当然。気にしておりませんよ」
村人の注目を浴びながら、三人は綾ヶ咲邸へと向かう。
夜彦の手に力がこめられたのを感じ、春呼は小さくため息をついた。そして、「春呼殿は随分慕われておるのですねぇ」とのんびり笑う九重をねめつける。
「……あんたはなんでそんなにのんきなのよ」
「? これでもいろいろと驚いておりますよ?」
このあたりに村ができているのもついさっき知りましたゆえ。
穏やかに続ける九重に、春呼は生きている時間の差を思い知らされた気がした。
トウシャができたのは五十年ほど前だ。春呼が生まれる何十年も前から存在しており今となっては当たり前な地名だが、彼にとっては違う。
「九重は人間じゃない」という事実を改めて突きつけられたような気がして、春呼は胸のがざわめくような、妙な違和感を覚えた。だが今はそんなことを気にしている場合ではない。
「どう説明したもんかしら」
「ありのままを話していただくほかないかと。……そこの妖についても、すべて」
「それはそうだけど……」
額に手をあて、春呼は帰ってからのことを考える。
家の人は、九重の存在を受け入れてくれるだろうか。
――答えは否、だ。
「ねえ、その耳どうにかならないの?」
「どうにか、とは?」
「えっと、隠すとか、ひっこめるとか?」
「できることにはできますが」
九重は「見ててください」と耳を指さすと、ぎゅっと目をつむった。続いて、ぽん! と軽い音とともに耳が消える。
「おお!」
春呼が歓声を上げた。が、すぐに「あっ」……と、落胆した声に変わる。
「……人と近い方が警戒されずにすむと思い、今のような姿までは努力したのですが、その、完璧な人の姿にまでは。れ、練習はしたのですが……。……変化は苦手なのでございまする」
眉尻を下げ情けない顔をする九重に、春呼はがくりと肩を落とした。九重の瞳が揺れる。
「申し訳ございませぬ」
「いや、これとあんたは関係ないから、謝らないで大丈夫」
と言いながらも、額を抑える手はそのままだ。
やっぱり言葉で説得するしか方法はないのか。
「思案しているところに水を差すようで申し訳ないですが、私や村人が見ているので誤魔化すことはできないかと」
「そういえばそうだったわね」
夜彦だけだったら、まだなんとかなったかもしれないが――村人にも黙っているよう、強要なんてできない。
綾ヶ咲家は誠実で真面目な者が多いことが特徴で、政治の中心に立ったことも少なくない。だが、悪く言えば頭の固い人が多い集団ともいえる。様々な意見を取り入れ、より良い体制や道具、法を作ることには尽力するが、『悪い』と言われる大前提を崩すことはあり得ないだろう。
春呼にも心当たりはあった。教育係に自分の意見を認めさせようと躍起になったり、ちょっとした言い合いにも本気を出してしまったり。ふとした瞬間と行動に、綾ヶ咲の血が流れているなぁと思い知らされる時があったのだ。
けれど、母たちのようにひどくはないと自負している。だから(混乱はしたけれど)九重の存在を受け入れることができた。
しかし、家に『悪いもの』の代表格である森の長を差し出せばどうなるか。
「想像するまでもないわね」
うう、と春呼の顔が曇る。
「……大丈夫でございまするか?」
見るからに元気をなくした春呼を心配した九重が、へちょん、と耳を倒しながら尋ねてきた。親を心配する子供のような幼い表情だ。
「悩みの原因が何を言っている」
「そうではありまするが……心配するくらいは許していただきたく」
夜彦のとげとげしい反論にも、九重は動じなかった。そして、春呼はハッとする。
面倒を見るって決めたのはあたしだわ。
決めたからにはやり遂げなくちゃ、と気合を入れなおし、大丈夫と笑って見せる。
そうよ、これでもあたしは次期当主なんだから、簡単に言い負かされたりなんかする方が恥じゃない。
よし、春呼は顔を上げ、九重に向かって声を投げる。
「行くわよ!」




