壱ノ弐話
空は青く澄み渡り、太陽の穏やかな光を地上を照らしている。吹き抜ける空気はまだ冷たいが、それでも少しずつ暖かみを帯び始めたのが肌で感じられる。天も祝ってくれているようだ、と聞こえた声は誰の者だったか。
「お嬢様、お誕生日、おめでとうございます」
「春呼さま、おめでとうございます」
「綾ヶ咲の方々が来てくだすってから、村は随分豊かになりますただ。これからも、どうかよろしくお願いしますだ」
その日、春呼は目覚めてから何度も繰り返される言葉に穏やかな笑みを返し続けていた。
「ええ、ありがとう」
春呼が完璧な礼を返すと、声をかけた者は「ご立派になられまして」と感極まったように瞳を潤ませる。一族の者も村人も、皆似たような反応を見せていることから、春呼が次期当主としてどれだけ期待されているかが伝わってくるようだ。
「期待に応えられるよう、一層努力を重ねていきますわ」
春呼が十六を迎えるということで、トウシャではちょっとしたお祭りが騒ぎになっていた。名家としては質素だが、それでも魚や野菜、肉がふんだんに使われた料理が立場関係なく振舞われ、屋敷の周囲には明るい笑顔が満ちている
「春呼さま」「春呼様」「次期当主様」「お嬢様」――呼ばれるたびに、春呼は声の元へと近寄り、上品に笑って見せる。
次期当主としての春呼の、最高の笑みを。――弱い火で炙られているような、そんな気持ち悪さを綺麗に隠しながら。
「はあ」
怒涛の挨拶責めが終わり、春呼はほっと肩の力を抜いた。と、夜彦が近くにやってくる。
「大丈夫ですか」
差し出された竹筒に口をつけ、春呼はからからに乾いていた口と喉を潤した。ずっと喋りっぱなしだったのだ。
「大丈夫よ。それよりも夜彦、ずっと私の傍にいなくてもいいのよ?」
「春呼お嬢様を守るのが私の使命ですので」
表情を変えずに答えた夜彦は、言葉の通り周囲への警戒を怠らない。春呼は小さくため息をついた。
――夜彦は、もっと楽しんでくれても構わないのに。
彼が心から自分の身を案じてくれているのはわかっている。けれど、大事に思ってくれているからこそ彼の枷になっているのではないかと、春呼は時々不安になる。
それに、視線が痛いのよ。
春呼がちらりと周りをうかがうと、夜彦の隣に立つ自分を羨ましそうに見つめる女性と目が合った。
夜彦は見目も麗しいし、何よりも強い。剣の腕に秀でており、実力はハルジオンでも五本の指に入るのではと言われているほどだ。だからこそ、春呼の護衛をたった一人で任せられているのであり――とまあ、村の女性にしてみればとてつもなく魅力的な男性なのだ。人前で彼の隣に立つのは、ちょっと居心地が悪い。
「……お嬢様に、お客様が来たようです」
夜彦が何かに気付いたように顔を上げた。つられて、春呼も視線を追う。飛び込んできたのは、遠目からでもわかる上質な布を使った服を纏う初老の男性と、彼を守るように立つ三人の兵。
この場にいる誰とも明らかに違う身分のその人に、春呼は逃げ出したいのを必死にこらえていた。夜彦が静かに背後に回る。
男性はゆったりとした足取りで春呼の前にやって来た。そして己の胸ほどまでしかない、今日の主役を見下ろす。自分の何倍もの時間を見てきた漆黒の瞳に見られ、春呼は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。喉が渇く。
「春呼嬢」
低く響く名前を呼ばれた。一言発しただけなのに、手に汗が滲む。春呼は後退しそうになった足に喝をいれて、なんとかその場に留まることができた。
春呼と男性が対面すると同時に、話し声の一切が消える。視線が集まる。
「おめでとう」
義務的な、気持ちなんてちっとも篭っていない声で祝われた。春呼は「面倒なら最初から来ないでよ」と言いたくなったが、言ったら外交問題にまで発展しそうという以前に、男性が持つ独特な迫力に押され言葉にする以前に口を閉じてしまいそうだった。
しかし、いつまでも黙ったままでいるわけにはいかない。「ありがとうございます」と礼をし、男性を見上げる。
深く息を吸う。大丈夫、今まで、何度も同じ言葉を言ってきた。
「本日はハルジオンからわざわざお越しくださいまして、恐縮でございます。ハルジオンの、ひいては花ヶ雪一族の力になれるよう、尽力してまいる所存です」
男性――花ヶ雪の重鎮にあたるその人は重々しく頷くと、「期待しておるぞ」と残し、早々にその場を去って行った。現当主である母の元へと向かったのだろう。
後姿が見えなくなって、春呼はようやく一息ついた。体から力を抜こうとしたが――迫る気配に、慌てて背筋を伸ばしなおす。
「お嬢様」
話しかけてきたのは、春呼の教育係を務める者たちだ。者「たち」というのは、教育係が数人いるからである。「多くを学びなさい」という母の言葉で、それぞれ違う得意分野を持つ彼らが集められたのだ。
春呼の教育を任された者は皆一様に厳しい表情を浮かべており、春呼はこれから始まることの見当が嫌でもついてしまった。
「礼の仕方がなっておりませんでしたね」
――やっぱり!
「礼の角度は」「声が震えておりましたぞ。なめられないためにも」「身だしなみが」――まだ多くの人がこちらを見ているのにも関わらずはじまった説教に、春呼は今度こそ走り去ってしまいたい衝動に駆られるのだった。
時間が経ち、あたりは明るい緋色に包まれていた。村人を含めた宴は終わり、夜からは一族のみで祝うという。今は二つの宴の丁度間、やっととれた休憩時間である。
「信じられない信じられない信じられないってばー!」
部屋へと戻ってきた春呼は、常備されている座布団の山に顔を押し付けぐりぐりと左右にこすり付けた。
「なんなのよー、こんな日にまであんな話しなくってもいいじゃない!」
春呼がなぜこうも怒っているのか、それは先の席での話に理由はあった。
教育係のお説教が長く、せっかくの料理を味わえなかったのもある。けれどそれ以上に、母の言葉が信じられなかった。
現在当主を務めている母が会いに来てくれたのは素直に嬉しかった。父は別の村で仕事をしていて、母も急がしいためなかなか会えないからだ。
けれど、祝いの言葉は一つももらえなかった。それだけでも信じられないのに、代わりというようにされたのは『春呼の未熟なところ』である。母は娘の欠点を長々と語り、話が終わったらすぐに引き上げてしまったのだ。
母のことは尊敬しているし「あんな大人になりたい」とも思っているが、いくらなんでも今日の態度はないだろう。嫌味の一つも言わなかった自分をほめてやりたい。
ばれない程度に暴れ終えた春呼は力を抜くと、体を起こした。髪は乱れて、頬は赤く、瞳を潤ませたその姿は、完璧なお嬢様と程遠い。
これが、本当の『あたし』なのに。
春呼は眉を八の字に下げ、もう一度座布団に顔を預けた。座布団を握りしめ泣きそうな顔をしている春呼は、どこか赤子のようですらある。
誕生日だ。なのに、親は祝うそぶりも見せなかった。まるで当たり前のことは褒めなくてもいいというような、そんな顔をしていた。私は、当たり前を淡々とこなす道具とは違うのに。
「……出よう」
しんと静まりかえった部屋に、小さいはずのその声はやけに大きく響いた。
波紋のように広がり、ぷつりと消える。
「こんな毎日を送るくらいなら、いっそ……」
あげた瞳の奥には、決意の炎が揺らめいている。
平和を守るための道具になる。それは綾ヶ咲や花ヶ雪の人々には都合のいいことかもしれない。けれど、春呼にとって、それは地獄にかわりなかった。そんな未来でしか生きられないのなら、それは死んでいるのと同じこと。
そうと決まれば、これからやることは一つ。
この家から飛び出すのだ。持って行く物はない。自分の身一つあればいい。とにかく、この牢屋から今すぐに出なくては。
「夜彦は少し心配だけれど」
とはいえ、彼は綾ヶ咲だけでなく、ハルジオンからも認められている凄腕だ。表情は薄く口数も少ないが、生意気だととらわれがちなそれらも含めて多くの人にかわいがられている。今も大人たちの話に付きあわされているのが何よりの証拠だ。代わりに近くに見張りがいるが、抜け出すことができると確信している。
というのも、幼い頃に作った秘密の抜け道があるのだ。その抜け道へ行くには、一瞬の隙があればいい。いつも夜彦と一緒にいた自分であれば、並の見張りの一瞬の隙をつくことはたやすいはずだ。
障子に手をかけ、音を立てないようそうっと開ける。から、から、といういつもなら気にしないような小さな音にもびくびくしてしまう。できた隙間から廊下を覗く。ざっと見た限りだと、見張りは二人。春呼の部屋がある廊下の端に、それぞれ立っている。出たらすぐに見つかる距離だ。
「――あ」
さてどう抜け出そうかと考え、思いつく。
そうだ、今日は出歩いててもそんなに不自然じゃないわ。家の者に改めてお礼を言いに行きたいとか、なんとか理由をつけて動いた方が抜け道を通るより安全じゃない。
春呼は髪を簡単に整え、廊下へ出た。堂々と歩き出す。
「お嬢様、どちらへ」
「母に会ってくるわ」
「お供いたします」
「いえ、いらないわ。この先で夜彦と合流するから」
春呼は優雅な微笑みで言葉を遮り、すぐに歩き出した。外へ出るまでに数度声をかけられたが、適当に理由をつけてかわす。大抵は「夜彦を迎えに行くの」とか、「大事な話をしに行くから」とか言えば身をひいた。この十数年、侵入者がいないという実績と誕生日ならではの浮かれた空気で少し気が緩んでいるのだろう。気にならなくもないが、今はただただありがたい。
外へ出る時はさすがに警戒したけれど、滅多に人の来ないゴミ捨て場まで来ることができればこちらのものだ。春呼は外の様子を壁越しに探り、誰もいないと判断すると、過去の自分が隠した穴をくぐりトウシャの村へ出た。
立ち上がり、汚れを払う。
窓からばかり見ていた茜色は、いつも四角に切り取られていた。それが、今はどうだろう。
不思議な高揚感が体を支配する。子供の頃に戻ったようだ。
春呼はとくとくといつもより早い心音を聞きながら、村の外へと歩き出す。
心の片隅に『何か』があるのは、きっと気のせいだと思いながら。




