弐ノ玖話
「こんなところに呼び出すなんて、一体何の用でござまするか?」
火車と春呼が会話を繰り広げている間、九重は裏庭の一角で夜彦と対峙していた。
「言わなければわからないのか」
夜彦は夜にとけるように、けれどたしかな存在感をもってその場に立っていた。
怒気を帯びる夜彦を前にしても、九重はいつもの表情を崩さない。だが――まとう空気は、いつものそれとはまったく違った。
この場に何の力もない人がいたら気を失ってしまうであろうと容易に予想できるほどに冷たい……恐ろしい殺意が満ちていた。
九重は耳をわずかに動かし周囲を探る。
この場にいるのは、夜彦一人で間違いないようだ。
「春呼殿のことでございますね」
確認だ。夜彦は無言で頷き、話を切り出した。
「先代は消滅したのか」
突拍子もない話題に思える。しかし九重は、夜彦の考えが手に取るようにわかった。わからざるを得なかった。
――それは、自分も気にしていることだったから。
「わかりませぬ」
はっきりとした、けれど曖昧な九重の返事に夜彦の眉がかすかに動く。
「けれど、先代の生への執着はすさまじい。九重は先代が倒れてすぐ封印されてしまいましたゆえ、彼が命を落としたのか、それとも再び長に返り咲くべく力を蓄えているのか、はっきりとは知りませぬ。けれど、後者の可能性の方が格段に高く感じられます」
悔しいことに。
続けようとした言葉を、九重は飲み込んだ。
夜彦は、帰宅した春呼から先代と九重の話を聞いていた。自分が無実であると主張してくれるのは嬉しいけれど、同時にそこまで頑張らなくてもいいと思ってしまう。
たとえ無実が証明されても、傍にいることは叶わない。そう思っているから。
「理由は」
「……妖のカン、とでも言っておきましょうか」
本当は、それだけではないのだけれど……余計な情報を漏らすのも危険だと判断し、それ以上は口を噤む。
実をいうと、九重は目覚めてからずっと先代の痕跡を探していた。
相手が倒れたのは覚えている。けれど、とどめを刺したと断言できなかったからだ。
森で九重が春呼に言った「やりたいこと」は――先代の生死の確認であった。
春呼と団子を食べに村へ出た時、森へ行った時も探ってみたが、何一つわからなかった。百年も前のことだから見つからないのは当然と人間は思うだろうけれど、妖が持つ妖気は目に見えずとも留まるもの。ゆっくり消えてゆくものに違いはないが、強力な妖であればたった百年で「きれいさっぱりなくなっている」方が不自然なのだ。正直に言えばもっと調べたかったのだが、立場もあるので仕方がない。
「九重の不始末は、九重自身で解決いたしまする。春呼殿に被害は絶対出しませぬ」
その言葉には覚悟が秘められていた。
絶対に探しだしてみせるという彼の心がこもった言葉は夜闇の中に響き、時間をかけて霧散していく。
「信じられんな」
沈黙の後、夜彦が発したのは否定の言葉だった。予想通りだ。九重はばれないよう小さく息をついたが、次の瞬間、表情が一変する。
真正面から見据え――九重は目を見開いた。夜彦が発する激しい怒気に……冷たささえ感じさせる、驚くべき熱さに圧されたのだ。
「所詮貴様は妖だ。全てをばか正直に話すとは最初から思っていない」
じゃり、と砂が音を立てる。夜彦が一歩、距離を詰めた。
「森の長には、こんな話も残っている」
九重が夜彦の雰囲気に飲まれている間にも、夜彦は話を続ける。
「『九尾の狐は執念深く、己を傷つけたもののみならず、周囲の人間まで手をかけたという』――」
夜彦によって復唱された内容に、九重は顔を歪めた。
耳は天を向き、九本の尾は一斉に逆立つ。色の違う瞳は見開かれ、瞳孔も開き――憎しみをあらわにした、獣のような表情になる。
全身を刺すような殺気にも、夜彦は動じない。むしろ余裕を滲ませた笑みを貼り付けてみせた。
この人間は、本当に『人間』なのだろうか。そんなバカげた考えが、九重の脳裏によぎる。
「綾ヶ咲のご先祖は、かつて九尾退治に力を貸していたという」
春呼からも聞いた話だ。
「だとすると、先代がお嬢様を狙う可能性が出てくる。それだけでなく」
そこで区切り、夜彦は腕を動かした。
――早い!
「お前を狙って現れ、春呼様が巻き込まれるかもしれない」
九重の首に刀をおしつけ、ぎらりと輝く瞳で射抜いていた。
「オレはな、それだけは絶対に許せない」
激情を秘めた、艶やかとも言える表情で。
「春呼様はオレの光だ。幸せになっていただかなくてはいけない」
月明かりを浴びながら、一言一言噛み締めるように。
「……春呼様がずっと、対等に話せる存在を欲しているのは知っていた。だから、今はまだ殺さない」
身動きもできないまま、九重は無意識のうちに喉を上下させていた。
つう、とこめかみに一筋の汗がつたう。
体内を這いずりまわるこの嫌なものは――恐怖、だ。妖を総べる自分が、人間に、恐怖している。この場から離れたい。そう思っても、足は地面に張り付いたようにぴくりとも動かない。
「ただ、春呼様に危害は及ばせないというのなら、これだけは覚えておけ」
ぶつ、と肌が切れる、嫌な音が体を這う。
「お前のせいで春呼様が不幸になる可能性は決して低くない」
そこまで言うと夜彦は刀を鞘におさめ、「護衛に戻る」とその場を離れた。
別れはずいぶんあっさりしたものだ。
だが、九重の心臓は嫌な音を立てている。斬りかかってこなかったのも、普通に背を向けて歩き出したのも、全て自分に絶対の自信がなければできないことだ。
「まったく、人間も妖も変わらないではありませぬか」
九重は苦い顔でそう呟くと、「火車」と従者の名を呼んだ。
「なんのご用?」
まばたきをする間もなく現れた火車に、九重は変わらないと苦笑をもらす。
「ちょっと頼みたいことがありまする」
「九重さまの『ちょっと』は信用できないわ」
「そう言わずに」
「そんなこと言って、百年も森の長代理をやらせたのは誰よ」
火車の厳しい言葉に九重が乾いた笑いをもらすと、火車は呆れたように「で?」と問うた。
「火車のそういうところが好きでございまするよ」
「はいはい。でもわたくしの想いには答えてくださらないと。ほんっと、ひどいお方よね」
「ふふ。――春呼殿にもしものことがあった時、火車に守ってもらいたい」
いつもの口調を消した主を火車は一瞥した。
「ほんっと、ふざけたお方よねぇ」
やれやれと首を振り、火車は器用にも肩をすくめて見せた。
「今まで目を背けてきたけれど、九重は……九尾は危険な存在ということに変わりはないのだ。……いつまでも優しさに甘えているわけにはゆかぬ」
楽しすぎた。だから、本来保つべきであった距離を縮めて、少女の隣に居座り続けてしまった。
これはきっと、いや絶対に良くないことだ。
九重は目を閉じ、外に出てからのことを思い出す。
どれもこれも暖かくて、大切なものばかり。
これだけ穏やかに過ごせたのは、一体何百年ぶりだろうか。
「――守りたいのだ」
火車が九重の異変を察知できなかったのは、仕方のないことだった。
九重は尾をゆらりと揺らすと、その先に青白い炎を点らせる。明かりが九つ、夜闇に浮かんだ。かと思うと
「九重さま……っ!?」
火車の叫びが終わらないうちに――九重の姿は、あとかたもなく消えていた。
――九重が消えた日を境に、トウシャに不幸が襲いかかった。
「家内が病になってしまいましただ」「娘の顔にイボが……治す方法はありませぬか!?」「作物が全滅ですだ。このままじゃあ……」
「……一体、どういうことなの?」
秋鼓の部屋へと向かっている間も、扉の外から村人の悲痛な声が聞こえてくる。春呼は顔を歪め、足を早めた。
村の異変は「九重さまが消えてしまったわ」と火車が報告した日を境に起こり始めた。九重が屋敷から消えたという話はあっという間に広まり「九重が原因ではないか」と家中が噂しているのだ。呪いをかけていったのではないか、と。
春呼は根拠もなしにそんなことを口にするなと言っているのだが、三日が経っても何一つ手がかりは見つからず、疑惑は根拠のないまま真実へと変わりつつあった。
「母様!」
門番を無視して扉を開ける。中には秋鼓と、夜彦の姿があった。
「災いの原因は九重じゃないわ。これ以上騒ぎが大きくなる前に、母様が」
「……春呼、そんな乱暴に」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!? 夜彦も何か言ってやってよ!」
夜彦なら自分の味方をしてくれるだろう。そんな思いで叫んだが、夜彦は目を伏せるだけだった。
「夜彦?」
そこで、春呼は夜彦の違和感に気がついた。そもそも、何故彼がこの部屋にいるのだろう。
九重の件で呼ばれたのだろうか。それとも、別の――。
背筋を嫌な『何か』が駆け上がる。熱くないのに、汗が出る。これは、春呼の嫌うものの一つだ。
「お嬢様」
夜彦が近付いてくる。いつもならなんとも思わないのに、今日の夜彦は春呼の知らない誰かに見えた。
「何を考えてるの?」
一歩近付かれれば、一歩引く。けれど、夜彦が一気に踏み込めば、春呼は逃げることなどできるわけもなかった。
首筋に重い衝撃が走る。
「……申し訳ありません」
オレはあなたを守りたいんです。
そんな声が聞こえた気がしたけれど、意味を問うことは叶わない。
春呼の視界は、黒に覆い尽くされた。




