弐ノ捌話
空はすっかり藍色に染まり、月があたりを照らしていた。
春呼は月明かりとろうそくが照らす部屋の中で、座布団の山に顔をうずめている。頬や耳が赤いのは、刺すような痛みを持つ風を浴びてきてからではない。
「本当のことを言ったところで、偉い人っていうのは自分に利がない限り信じないわよ?」
原因は火車の言う『偉い人』の言い分が、とてもじゃないが納得できるものではなかったからだ。
火車は人から姿を隠す術を使っているらしく(まったく便利なものである)、堂々と家に上がりこんでいても何も言われない。
「だからって、そのままにしていいはずはないわ」
がばりと顔を上げた春呼は、かみつくように火車に言う。対して火車の返答は「わたくしに言われても知ったこっちゃないわよ」と冷静だ。
温度差を目の当たりにした春呼は「うう」とうなりうつむいた。
時間もほどほどに家へと戻った春呼は、帰ってくるなり秋鼓の元へと走った。教えてもらった知識も含め説明し「九重は無実だ」と主張したものの、信憑性がないととりあってもらえなかった。それどころか「これ以上情がわくと何をされるかわからないので、封印を急いでもらいましょう」と術士に使いを出してしまったのだ。
「絶対どうにかしてみせるんだから!」
真実を知った以上、知らないふりを続けるのは信条に反する。春呼は瞳に覚悟を滲ませながら、今後どうすべきか考えはじめた。
頭の固い大人たちに信じてもらうには、まずは九重が先代とは別の個体であると明確に示さないといけない。「九重を助けてほしい」という村人からの声もあるといい。それと、自分と同じ考えを持つ人……味方になってくれるような人を探そう。
九重と夜彦は何か話があるらしく席を外しているから、戻ってきたら作戦会議だ。それからそれから。
「髪、乱れるわよ」
「調べる方法にも気を使わなくちゃいけないわよね。自分、いや夜彦になら協力してもらってもいいかもしれないわ。外での情報収集は夜彦にお願いして、あたしは書庫から何か参考になりそうなものを……」
「…………不思議な子ね」
火車がこぼした呟きで、春呼はやっと顔をあげた。
「何か言った?」
「もっとおとなしい子かと思ったらそうでもないのね、って言ったのよ」
「ありがとう」
「ほめたわけじゃないんだけど」
火車とは森で初めて会ったが、細かいことを気にしないサバサバとした性格のおかげかすぐに打ち解けることができた。
口調や声、態度が頼れるお姉さんといった風で、九重とはまた違った存在ができたことが少しくすぐったい。
猫だけあって気まぐれな面は見えるが、言葉を飾らないがゆえに発言には説得力がある。春呼の目にはとても好ましく映っていた。
「火車、森の長について詳しい人間とか知ってたりしない?」
「しないわね」
「詳しくはなくても、妖について詳しい人とか」
「妖に人間の事情を聞くのはお門違いというものではなくて?」
たしかに。
やることは決まっているのに、知りたいことを集める方法がわからない。これじゃあ、と歯をかみしめたところで、「ねえ」と甘い声がかかった。
「なんで九重さまにそこまでするの?」
金色の瞳がきらりと輝く。
「あなたは人間じゃない。いくら九重さまが妖らしくないからといって、ここまでする理由なんてないはずよ」
月のような金色の奥に、興味などとは違う光がゆらめいていた。
――怪しまれている。
彼女は九重に対し遠慮のない物言いをするけれど、いつ戻ってくるかわからない彼のために森の長代理を続けていたのだ。聞けば森に春呼が入った時も気付いていて、妖に襲わないよう命じていたらしい。不気味な気配を感じていたけれど、夜大樹での一件以外怪我を負わずに済んだのは彼女のおかげだったのだ。
だけど、だ。
人間に手は出さなくても、手をとりあってきたことはない。人間である春呼が長である九重にここまで手を貸すなんて、信じられないのだろう。
「私の――いえ、あたしの友達だからよ」
建前ではなく、本心で答える必要があると思った。
「友達?」
「ええ」
きょとり、と火車が首を傾げた。
「妖が友達?」
火車の不審げな声に春呼は頷く。
「『私』ではなく『あたし』と、対等に話してくれた人のは九重がはじめてなの」
彼は自分の心を救ってくれた。だからあたしも、彼の助けになりたい。
とつとつと語られる春呼の思いは決して大きくなかったけれど、水面に広がる波紋のようにゆっくり、静かに広がった。
「……ふうん」
火車の返事は納得したのかしていないのかわからない。
「理由が薄すぎる気はするけど」
「それは……九重って、なんだか放っておけないじゃない?」
「否定はできないわね。抜けてるところも多いし」
けれど瞳が元の穏やかなものに戻ったのがわかり、春呼はほっと力を抜いた。手に汗が滲んでいることに驚いた。
「……わたくし、春呼のような人間は嫌いじゃないわ」
「急にどうしたの?」
「九重さまが大事にしてる理由、少しわかったかもしれない」
「大事に……」
火車が自分と会話のやりとりをする気がないのはすぐにわかったが、内容に思わず反応してしまう。
大事にと言っても、九重は誰にでも笑顔で優しく接するのではないだろうか?
その場面を想像して、春呼はむっと顔をしかめた。なんとなくおもしろくない。自分にだけ懐いている犬が、見ず知らずの人にとられたような気分になる。春呼の心境を知ってか知らずか、火車は「そうよ」と話を続ける。
「誰にでも同じ態度をとりそうなものだけれど、実際はそうでもないわ。人間側が怖がってしまうのが一番の理由だけど、九重さま自身、人をよく見るからね。この人になら普通に接して大丈夫、っていう線引きをきちんとしているわ。人間相手にあそこまで本心をさらけ出してるのはわたくしも初めて見たし……よっぽど信頼されてるのね」
「……へー」
「森で見てたけど、あそこまで子供っぽく振舞うのなんてありえなかったし。それにあの笑顔も、同族にだって滅多に見せないわよ。九重さまにとって特別な存在だっていうのはすぐに……って、どうしたの? 顔が赤いけれど」
「…………なんでもないわ」




