弐ノ伍話
九重が綾ヶ咲に来てから九日目。
春呼は今日も今日とて秋鼓の元へと向かっていた。その間に妖を見張るのは、夜彦の大事な仕事の一つだ。
すべてはお嬢様のために。
命を救われたあの日から、ずっとそれだけを考えてきた。
「妖」
雲ひとつない青空の下で、夜彦は刀を振る手をとめた。風が強い。空に雲がないのは、風で流されていったのも影響してるんだろう。
「その呼び方は嫌だと、何度言ったらわかるのでするか」
「オレの視界から少しずつずれていくのはやめろ。鬱陶しい」
ばれてましたか、と九重は眉間に皺を寄せた。当たり前だと夜彦が鼻を鳴らすと、不満げなつぶやきが返ってくる。
「というか、夜彦も九重と二人の時は『私』ではなく『オレ』を使うのでするね」
「お前に敬意を払う必要はない」
「……厳しすぎでございまする」
「お嬢様に危害を加えないと断言できないだろう」
「本当に、夜彦は春呼殿第一でございまするな」
それこそ今さらだ、と夜彦は心の中で『あの日』のことを思い出す。
春呼と初めて出会った日から、自分の心も体も、すべて彼女に捧げると決めたのだから。
「……おい」
「よ、夜彦は訓練をしているですし、いいじゃないですか」
再び距離を開けようとする妖に、夜彦はちっと舌打ちをした。
お嬢様はこの妖を気に入っている。
はっきり口にしたことはないが、話す時の嬉しそうな顔だとか、見せることの増えた本当の笑顔だとかですぐにわかる。
一緒にいる時間は自分の方が長いのに。夜彦はそんな考えを振り払うように素振りを再開させた。もちろん、九重の監視も続行する。春呼に任されたのだ、いくら気に入らない相手とはいえ、投げ出すわけにはいかない。
「……夜彦」
「黙れ」
「夜彦は、春呼殿のことをどうお考えなのです?」
「努力を怠らない、すばらしいお人だ」
急に何を問うのかと思えば。九重は夜彦の返答を聞いて押し黙った。
「夜彦」
かと思うと、もう一度名を呼ばれた。何度もうるさいなと夜彦は顔をしかめる。今日はいつもより集中できていない。九重が原因なのは言うまでもなかった。
「いい加減に」
夜彦が苛立ち混じりに口を開いた、その時だった。
「九重は飽きたので、ちょっと遊びに行ってきまする」
「は?」
急にとんだ話に、夜彦が振り返る。そこに九重の姿はなく――
「そろそろ春呼殿のお時間も空くはずですし」
少し離れたところで跳ねるような鈴の音と、してやったりというような九重の声が聞こえてきた。
――ふざけるな!
「春呼殿!」
すぱんと音がした方向に顔を向けると、真っ青な空と太陽の光を背に仁王立ちする九重の姿があった。
机の上のものを片付けていた春呼は目をぱちくりとさせる。
「どうしたの? 夜彦は?」
「出かけましょう!」
「へ?」
言うが早いか九重は春呼に近付き――「ひょおおっ!?」突然の浮遊感に、春呼は悲鳴をあげた。
「えっ、な、な、なに!?」
「以前甘味処へ行きたいと話しましたでしょう?」
「ですので、これから行こうかと」と九重が行為の説明をするものの、春呼は今の状況に対応しきれず置物のように固まるだけだ。
見上げれば拳一つ分ほどしか離れていない場所に見慣れた九重の笑顔がある。それだけでなく膝裏には手がまわり、背中にも――。
「なっ、だっ、抱き上げなくても!」
「春呼殿、危ないのであまり暴れないでください」
九重はこんなにたくましかっただろうか。
急に恥ずかしくなり、春呼は腕から逃れようと暴れ始めた。九重は注意しながらも、その体制のまま部屋の外へと向かっていく。腕の力が強まり――落とさないようにするためだろう――より近付くはめになってしまった。
ひょろいと思っていた体はがっしりとしている。頬にあたる胸板は厚く、伝わる温度も暖かい。
な、なん、なんだってこんな密着しなきゃいけないの!?
「夜彦に見つかったらお小言が待っているでしょうし、バレないように」
「おい妖! お嬢様に……!? おいっ!」
「……は、無理だったようでございまする。こうなったら強行突破です」
夜彦の声が聞こえた気がする。どうにかしてよ、と助けを求めようとするが
「春呼殿とお茶をしてまいりまする!」
九重がふわりと飛び上がる。突然襲った浮遊感に、春呼は咄嗟に九重にしがみついた。風が頬をたたく。
「もうっ、なんなのよー!」
「春呼殿」
「……ハッ」
春呼が呼びかけに反応できたのは、九重が十二回目の名前を呼んだ時のことだった。
「なに、どうなったの?」
春呼は移動中、耳のすぐ近くを通り過ぎる風音や今まで体験したことのない、足場のない不安感から逃げるように固まっていた。音が収おさまった、と九重の呼びかけに反応したが、
「早く下ろしてよ!」
自分がまだ九重の腕の仲にいることに気付き、声を荒げた。
「あ、すみませぬ」
地に足をつけて、春呼は改めて周囲を見回した。
「ここは、トウシャのはずれ?」
「はい。一応、村の真ん中にいては目立ってしまうのではと思ったので」
「なんでこんなところに?」
「一緒に行こうと言いましたでしょう?」
……抱き上げられる前に、そんなことを言われたような。
「どこに?」
「甘味処でございまする!」
九重の回答に、春呼はそんな会話したなとも思い出す。なんだ、そんなに行きたかったのか。
「夜彦は?」
「外に行くのは危ない、と外出も許してもらえなさそうでしたので」
やっぱり。春呼はため息をつきそうになった。
九重は夜彦のお説教が待っていることも気にせず、にこにこと上機嫌だ。その笑顔に、春呼の心配が小さくなっていくた。ふっ、息を吐き出し、ここまで来たなら楽しんだ方が得じゃないかと開き直る。
「では春呼殿、甘味処へ行きましょう」
「ええ」
話が出た時は賛同できなかったけれど、本当は行きたかったのだ。自然と笑顔がこぼれる。
仕事もなんにも関係なくお茶をしに行く。それも、一人ではなく二人で。ずっと憧れていた『普通』に、春呼は九重に心の中でお礼を言った。
「でも、村を歩くんだったら――」
尾と耳が出っ放しなのは問題だ。短時間でも完璧な人間に化けてもらわないと。そう忠告しようと思い口を開く。
「よ、妖怪……っ!」「人に化けとるぞ」「は、はやく綾ヶ咲に知らせるだ!」「傍にいるのは春呼様じゃないか?」「なんだと!」
が、村人に発見される方が早かった。
あっという間に周囲が騒がしくなる。その上トウシャは狭い村だ、どこかが騒がしくなればすぐに人が増え、話は大きくなるばかり。
このままじゃ、すぐ夜彦に見つかっちゃうわ。
それだけはなんとか避けたいと春呼は声を張り上げる。
「待って、待ってください彼は――」
――まったく、楽しむには壁も多いらしい。




