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短い黒髪とその下にある灰色のいやに鋭い瞳。目つきの悪さだけで女子どもをうっかり怯えさせてしまいそうで、その実お人好しな性格。着ているものは廉価で着回しの利く無難さを売りにしている量販店のものだが、着こなしは決して安っぽくは見えない。彼が独り暮らしの割に随分とまめに部屋を綺麗にしていることをるうかは知っている。そんな真面目さにも好感を持っている。ただもう少し押しが強くてもいいのではないかと思わないでもないだけで。
そんな彼こと槍昔頼成がどういった偶然なのか、るうか達の隣のボックス席から身を乗り出して、理紗にその灰色の目を向けていた。一瞬ひるんだ理紗だったが、すぐに気を取り直して彼に向かい人差し指を突きつける。
「間違いない! こいつだ!」
「犯人みたいな扱いしないでもらえるか?」
「このストーカー! いつの間にるーかの後をつけていたんだ!」
「俺の方が先に店に入ってたんだっての」
「るーかちゃん、悪いことは言わない! こいつは駄目だ、駄目な臭いがぷんぷんするぞ!」
「おい人の顔を見ただけで駄目とか連呼すんな。ちょっと傷付くでしょうが」
椅子から身を乗り出して反論する頼成の様子はいささか滑稽だったので、るうかは彼を自分の隣に招く。こうなった以上はきっちりと紹介した方が早い。
「理紗ちゃん、静稀ちゃん、この人は槍昔頼成さんっていって、ちょっとした縁で知り合った春大の学生さん。この前はテスト勉強を見てもらった後でちょっと買い物に出ただけで、腕は組んでない」
るうかが静稀の名を呼んだ時、頼成が一瞬彼女を見た。静稀は気付いていない様子でるうかの方を見て尋ねる。
「彼氏なの?」
「静稀ちゃんまでそういうこと聞く……」
「理紗程じゃないけど気になるでしょ、そりゃあ」
ニッと笑う彼女に対してるうかは少しだけ困ってしまう。頼成と彼氏彼女の関係になった覚えはない。しかし思い起こせば1ヶ月前の事件の折に互いに「好きだ」と言葉を交わし、ごく軽いものではあるがキスまでした記憶がある。記憶があるどころかるうかにとっては今でも思い出す度に顔がほんのりと熱くなるような思い出である。あれから頼成は特に何も言ってこないし何もしてこないので、結局のところ自分達の関係が何であるのかは曖昧なままだ。友人と言っても間違いではないのだろうが、そう言いきってしまいたくない思いがるうかの中にある。
困ったるうかは隣の頼成を見た。頼成は少しだけ赤い頬で、彼女の友人達を見ている。そして何やら意を決したらしい彼が口を開きかけたその時。
「わあ、信じられない! 頼成がこんなところで女子高生を侍らせてハーレム作ってるなんて!」
「……あ、落石さん」
店の入り口から入ってきたにこやかな青年がそれはそれは楽しそうに、その大きな鳶色の目をキラキラと輝かせて大袈裟な台詞を口にする。さらさらと揺れる長い亜麻色の髪はクリップとピンで綺麗に留められ、その可愛らしい顔を惜しげもなく晒していた。そんな彼、落石佐羽は友人である頼成をからかうことに関しては実に余念がないのだ。
「やるじゃない頼成、こんなに可愛い子を3人も……いつの間にそんなにやり手になったの?」
「黙れ佐羽。よく見ろって、るうかだよ」
「うん分かってるよ? るうかちゃん、今日でテスト終わりだったんでしょ。どうだった?」
佐羽はそう言いながら実に自然な動作で頼成の隣に腰を下ろした。いくらソファタイプのボックス席とはいえ本来2人掛けのそこにるうか、頼成、佐羽と3人が座ることになると当然狭い。そして佐羽は頼成にもっと詰めろと要求する。
「ほら、そっち寄って。俺落ちるんだけど」
「ここに座るな! 後ろ行け、後ろ」
「えー、だってるうかちゃんがいるのにー」
「だってじゃねぇよ。お前今日何しにここ来たか分かってんだろ、あっち行け」
「彼まだ来てないし、ちょっとくらいいいじゃない」
どうやら2人はここで別の誰かと待ち合わせをしているらしい。確かに、そうでもなければ何も外で会わなくとも彼らの通う大学のどこかか頼成の家辺りで会えばいいだろう。彼らの待ち合わせ相手が誰なのか、るうかとしては気にならないわけでもなかったが今はひとまずこの状況をどうにかしてもらいたい。
つまり佐羽が無理矢理身体をねじ込んだせいで頼成と密着せざるを得なくなったこの状況を。辛うじてるうかの鞄が2人の間にあることはあるのだが、それでも大柄な頼成の肩がるうかの肩の上に半分載るような形でくっついている。そして問題はそんな様子を向かい側から理紗が恐ろしい形相で睨んでいることだった。生憎友人からそのような目で見られるほどやましいことをしている覚えは全くないのだが。
「やりむかし、らいせい……って言ったな。お前はこの理紗様を敵に回したぞ……覚えていろよ……」
何やらドス黒いオーラでも立ち上らせそうな雰囲気で言った理紗にさすがの頼成も少し引き気味に反論する。
「いや、なんで会ったばかりの子にそこまで敵視されなきゃなんないの。大体……あんたるうかの彼氏じゃないだろ」
そりゃそうでしょ馬鹿、と隣の佐羽が頼成を肘でどついた。しかしるうかにしてみれば彼さえ来なければ頼成の口から決定的な一言がもらえたかもしれないのに、と少々彼を恨めしく思うところである。そして理紗は頼成の口答え如きにはびくともしない。
「さっきからるうかるうかって……気安く名前で呼んでるんじゃない! るーかはあたしのなの!」
「……そうなのか?」
「違いますよ」
頼成がるうかに確認するように尋ねてきたので、るうかはしっかりと否定した。理紗は大事な友人だが所有された覚えはない。だよな、と頼成は当たり前そうに頷いて、それから理紗に向き直った。
「名前で呼んで悪いか?」
「わ、悪い!」
「なんで?」
「馴れ馴れしいっ! そして汚らわしい!」
「そりゃ随分な言い草だな……。言っとくが、手は出してないぞ」
「出していたら殺すところだ……」
「理紗ちゃん、なんか本気に見えるから怖い」
思わず言ったるうかに対して理紗は「勿論本気に決まってるよ!」と身を乗り出して叫ぶ。一応店の中なのでもう少しテンションを抑えてもらいたいところだ。そう思ったら今度は静稀から冷静な声音で質問が飛ぶ。
「それで、結局あなたはるうかの彼氏なんですか?」
「そのつもりだけど」
頼成はするりと答えた。頬は赤いが臆した様子はない。るうかは少し、いやかなり驚いて隣にある横顔をまじまじと見つめた。その向こう側では佐羽がやはり少しばかり驚いた顔で友人を見ている。
「頼成、そのつもりだったの?」
「え?」
「そのつもりだったんですか、槍昔さん」
「えっ?」
左右から同じ質問をされた頼成は首を左右に振って、それからるうかの方で視線を落ち着けてうんと頷く。
「ずっと、そのつもりだったんですが」
「……」
なんてことだ。るうかは頭を抱えたいような、まずは顔を覆いたいような、その前に頼成に一発かましたいような複雑な気持ちで俯いた。この1ヶ月何ひとつ進展してこなかった2人の関係のどこを取れば恋人同士と言えるのだろう? 好きと言われたのもあの1回だけ、好きと言ったのも1回だけ。キスだってあれ以来一度もしていないし、そもそも付き合う付き合わないの話をした覚えすらない。それでよく彼氏のつもりでいられたものだ。
「頼成ー……」
佐羽が呆れ返った、いやいっそ軽蔑したような眼差しで友人を睨む。
「君ね、そのつもりがあるんならちゃんと彼女に伝えなきゃ。何困らせてるの。黙っていて気持ちが通じるとか、そんな甘い妄想で満足していたの? 馬鹿? 馬鹿だよね。分かってる?」
「いや、その……あれ?」
頼成は本当に分かっていないようだった。るうかは半ば諦めたような気分で前を向き、友人2人に視線を送る。さすがの理紗もどこか憐れみを持ってるうかを見ていた。静稀に至っては頼成に氷点下の眼差しを向けていた。
「るーか、悪いことは言わない。考え直した方がいい」
「私もそう思う。この人は女心を分かってない。るかりん、苦労するよ」
2人の言うことは至極もっともだとるうかも思う。しかし、それでもこの頬の熱さをどうにもできないのだ。頼成の態度に少しはがっかりしたが、それでも想いの芯は揺るがない。我ながら重症だったということに今更ながら気付かされた思いである。
「まぁ……私がそういう人を好きになっちゃったんだから仕方ないかな、って」
るうかは友人に向かって苦笑を向けながらそう言った。その言葉を隣で聞いていた頼成がカッと顔を赤くして、さらにその隣の佐羽が肩をすくめる。
「るうかちゃんの方がよっぽど肝が据わってるよね。ホント、頼成ってば駄目な男」
「……っ。とりあえずお前にだけは言われたくないぞ。てめぇは女の敵だろうが」
「今は俺の話なんてしてないでしょ。頼成が愚図のヘタレだってことが大事。しゃんとしろよ、馬鹿」
「くっ……」
すっかり立場のなくなった頼成である。さすがに可哀想に思えてきたので、るうかはよいしょと手を伸ばして彼の頭をよしよしと撫でてやった。そう言えば以前から頼成は同じようにるうかの頭を撫でることがよくあった。この1ヶ月の間もそうで、教科書の問題が分からないと困り顔をすれば撫でられ、彼の根気強い指導の元に何とか自力で解けるところまで辿り着いたときにもまた撫でられた。そんな時、彼はとても嬉しそうで、幸せそうに見えたものだ。
それが不器用な彼の愛情表現だと、気付いていなかったのはるうかの方だったのかもしれない。
「ごめんなさい、槍昔さん。私、今まであんまり実感していませんでした」
「撫でながら言わないでもらえますか」
「だってなんか可哀想で」
「正直に言うな……!」
「大丈夫です。これからはちゃんと言うようにしますから、槍昔さんは私の彼氏だって」
頼成の目がこれ以上ないほどに見開かれた。静稀が「おお」と拍手をし、理紗が「るーかちゃんがそう言うなら……あたしには2人を引き裂くことはできない……っ」と実に悔しそうに窓の外を見る。佐羽は相変わらずの呆れ顔ながらも少しばかり苦笑を交えて呟くように言う。
「本当、これだけお膳立てされないと形にもならないなんて。面倒なカップルだなぁ」
「まったくだな」
声は明後日の方向から届く。聞き覚えのある声に顔を上げたるうかは思わずあっと声を上げた。
執筆日2013/11/16