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転移魔法を使われたのだと分かったのは、目の前に見たことのない建物がそびえていたからだった。ネグノスの里の開放的で簡素な造りの家々とは全く異なる、無機質な黒い立方体が草原の只中に鎮座している。夕刻の赤い光を反射する黒い壁は不気味ですらあった。
「湖澄の奴、転移先の名前すら言わなかったね。どう見てもいわくつきの場所なんだろうけど」
佐羽がそう言って苦々しい表情で目前の建物を睨む。このファンタジー溢れる夢の世界には相応しくない、限りなく奇妙な建物だ。黒い壁面には一切の凹凸がなく、つまり窓もない。入口がどこにあるのかすら分かりはしない。さて、どこから入ればいいだろうか?
るうかにはすでに何となくその答えが分かっていた。
「じゃあ行きますか。湖澄さんの予想が確かなら、ここに槍昔さんがいるんですよね」
「行きますか、って。どこから入る気?」
「どこからでも」
「うん、さすがるうかちゃん」
佐羽はいくらか機嫌をよくした様子で笑う。るうかも彼を真似て少しだけ邪悪な感じで笑ってみた。
「目の前の壁は……壊しちゃいましょう」
「頼成のためとなると君も結構大胆になるよね」
「そうかもしれませんね」
2人は会話をしながら黒光りする壁に近付き、そしてまず佐羽が得意の破壊魔法を炸裂させる。一体どのような素材で造られているのか、壁にはほんのわずかな凹みができただけだった。しかしるうかにとってはそれで充分である。
るうかは軽く助走をつけ、片足を軸に身体を反転させながら渾身の蹴りを壁の凹みに向かって叩き込んだ。どんなに頑強な材質であっても歪みの生じた箇所は他と比べて脆くなる。そこに勇者の一撃を食らってはさすがの黒壁も破壊を免れることはできず、表面にぴしりとひびが走る。そこへるうかは間髪入れずに右拳の突きをぶち込んだ。
魔王と勇者による力技のコンビネーションは美しい黒の壁にぽっかりと大穴を穿つ。壁に映える夕焼けの色がぐにゃりと歪んでいた。
「お見事」
佐羽がにこりと笑ってるうかを労う。るうかはふんと鼻を鳴らして「ざっとこんなものです」と告げる。佐羽は我慢できなくなったように笑い出した。
「ふふっ、君やっぱり最高! 今俺、とってもいい気分だよ」
「それはいいですけど、早く槍昔さんを捜しましょう」
「そうだったね。大丈夫、俺と君って意外といいコンビだと思うよ?」
それはどうだか分からないが、破壊力に関してなら確かに卓越した組み合わせと言えるだろう。2人は早速中に入り、廊下を歩き始める。黒い建物の中はやはり天井から壁、床にいたるまで真っ黒でどこにも切れ目が見当たらない。廊下の幅は2メートル程で、高さも大体そのくらいだろうか。壁と床、天井の境目は緩やかに曲線を描いており、そこにも継ぎ目らしきものはない。まるで巨大な黒い岩をくりぬいて造られた洞窟のような建物である。
「おかしな建物ですね」
思わずるうかがそう口に出すと、佐羽もうんと頷いた。
「この世界の技術レベルで造れるものじゃあなさそうだよね」
「向こうの世界でもこんなもの見たことありませんよ」
「だったらオーバーテクノロジーだ。るうかちゃん、気を付けて。もしかしたら警備ロボットの類がいるかもしれない」
そう言われてるうかが思い出したのは、自分が培養されていた研究所のことだった。そこにはSF映画で見るような機械がたくさんあり、蜘蛛のような形をした“掃除屋”と呼ばれる警備機械が侵入者を排除しようとしていた。
「この世界には、私がいた研究所みたいな施設が他にもあるんですか」
るうかが尋ねると、佐羽は「そうだね」と少しだけ複雑な表情で頷く。
「“勇者”を作り出すための施設はいくつか存在する。言い方は悪いけれどね。勇者はあくまで人工的に作り出さないとでき上がらないものだから……培養施設は大魔王領にも大神官領にもどちらにもあるんだよ」
「“天敵”退治の切り札っていうことですか」
「そうなるね。でも勇者を生み出すために必要な“天敵”を捕獲することも大変だし、培養液も貴重なものだし……そうそうたくさんは生み出せない」
「培養液……」
るうかは呟いて一旦沈黙する。彼女を培養していたのは青緑色をした粘性のある液体だった。それは“天敵”の細胞を浄化し、なおかつ彼女の身体に残っていた人間としての体細胞から彼女のクローン体を作り出し、それを急速に成長させる作用まで持っていたのだ。そしてその液体の正体はおそらく頼成や湖澄のような石化から解かれた賢者……“聖者”の血液なのだろう。
ざわり、とるうかの肌が粟立つ。るうかを培養していたのは一体誰の血だったのか。考えはそこで止まる。答えは見えている気がした。石化を解くに当たって必要なのは勇者の血であり、それは当然のことながら希少なものだ。ならば当然それによって生み出される聖者の血はさらに希少であるということになる。であれば、その時るうかを勇者とするために用意された培養液はおそらく……。
「るうかちゃん」
佐羽に名を呼ばれ、るうかはハッと我に返った。彼は立ち止まって前方を指差している。そこには歪みのない黒い壁面があった。行き止まりだ。
「やりますか」
るうかはわずかに暗い声で言い、それに対して佐羽は苦笑しながら首を横に振る。
「あんまり派手にやりすぎてもね。ここが人間の利用できる施設なら、先に進む方法だってあるはずだよ。隠してあるだけなんだろう。少し探してみて、無理そうなら破壊する方向でどう?」
「分かりました」
それから2人は黒一色の壁や床をじっくりと見て回る。るうかは今になって気付いたのだが、照明らしきものがどこにもないにも関わらず廊下は普通に佐羽の顔が見える程度には明るい。どうやらこの黒い壁は自ら仄かに光を放っているらしい。ますます奇妙な建物である。るうかはそのおかしな壁をこんこんと軽く拳で叩いていく。以前テレビで見たトンネルの点検か何かの映像で、そのようにして壁の脆いところを探していたことを思い出したのだ。するとある1箇所だけ他とわずかに音が異なる場所があった。
とんとん。少しだけこもったような音がする。るうかは佐羽を呼んだ。やってきた佐羽はるうかと同じように壁を叩いてほんのわずかに目を細める。それから何を思ったのか突然彼はその壁に向けて自身の拳を突き出した。
彼は勇者ではないし、とてもではないが腕力に自信のあるタイプにも見えない。魔法を使うのならば話は分かるが、まさか素手で壁を破壊できるとでも思ったのだろうか。そう考えて焦ったるうかだったが、次の瞬間に彼の腕が肘まで黒い壁に呑み込まれた様子を見てあんぐりと口を開ける。対して佐羽は「なるほどね、こういう仕掛けか」と納得した顔で頷いていた。るうかは動揺しながら彼に問い掛ける。
「何ですか、これ……」
「ここだけ壁の材質が違うんだよ。中に入れるみたいだ」
「それは分かるんですけど、叩いても曲がったりしなかったのにどうして手が入るんですか……?」
「うーん、それはそういう素材だからとしか言いようがないんだけど」
佐羽はどのように説明していいものか迷っているようだ。るうかはそんな彼を横目に自分も壁に拳を突き入れてみる。叩いた時とはまったく異なるぐにゃりとした感覚が拳を包み込み、内側に引き込まれるような感じがした。
「説明は後でいいです。行きましょう」
「そうしようか。あと、さっきも言ったけどどんな警備システムがあるか分からないから気を付けて。基本的には俺が前を歩くよ。君も何か気付いたことがあったらすぐに言ってね」
「はい」
ぐにゃり、ぐにょり。身体を埋めていく度に奇妙な粘り気に包まれていく。気味の悪さに耐えながらぎゅっと目を瞑って通り抜けた壁の向こうにはまたもるうかの想像を超えた光景が広がっていた。
「これは……」
そこは大きな空洞になっており、まるで立体的なパズルゲームのようにいくつもの黒い立方体が地下から不規則に積み上げられている。るうか達はその一番上に乗せられた立方体の上に立っていた。艶のある黒い立方体の表面はつるつるとしており、いつ足を滑らせて下に落ちてしまうかと恐怖を覚える。さすがの佐羽もこの光景には驚いたようで、小さく開いた口から呆れたような溜め息を零した。
「ただの研究所でもないみたいだね。こんな所、初めて見たよ」
「一体誰が何のためにこんな……なんだか、人間の作ったものじゃないみたいです」
「そうだね……そうかもしれない」
「え?」
「行こう、人間が作ったものじゃなくても人間が歩けないってわけじゃあなさそうだ」
そう言うと佐羽は今立っている立方体の上からひとつ下のそれへと飛び降りた。
執筆日2013/12/14