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里長の許可を得たるうか達は勧められた通りに里の中を散策することにした。ネグノスと呼ばれているらしいこの里は建物の数こそ多くないものの、どの家も広々とした敷地に豊かな緑を飾った美しい庭を持っており、全体の広さは小さな町に匹敵する程だ。建物はどれも簡素な造りで、屋根も草で葺いてあるあるか、せいぜいが木の板を軽く乗せただけであるように見える。わずかに青臭い優しい風が頬を撫で、柔らかく降り注ぐ陽光に若葉が鮮やかな色を返す。そして里の中にはあの白銀の花が至るところに咲いているのだった。
「綺麗なところですね」
るうかが里を見回して素直に言うと、佐羽もうんと頷いた。
「本当に綺麗だね。まるで夢の世界の楽園だ」
と、そう言って佐羽も自分で妙なことを言っていると気付いたらしい。苦笑しながら改めて口を開く。
「夢なんだけどね。まるで人が夢想する理想郷のような、そんな空気を感じるよ」
「すごく開放的なのに、とても守られた場所のように見えます」
「ああ、そうだね。……るうかちゃんには見えないかもしれないけど、この里の家ひとつの敷地にはそれぞれ結界が張ってあるみたいだよ」
「えっ」
驚いて佐羽を見たるうかに、彼は少しだけ眉根を寄せて複雑な笑顔を見せる。
「内を守る結界なのか、外を守る結界なのか……それは分からないけれどね。あの親子の話が本当なら、ここは普通の治癒術じゃ癒せない病気を抱えた人達が辿り着く安息の地なんでしょう? 伝染病の人だっているかもしれない。身体の抵抗力が落ちていて、ほんのちょっとの風邪でも命取りになってしまう人がいるかもしれない。そんな人達を……そして里全体を守るために、それぞれの結界があるんじゃないかな」
「……」
るうかは改めて里全体を見渡す。そういえば表を歩いている人影が見えない。どの家もひっそりとしているようで、その雰囲気はまるで現実世界の病院にも似ていた。歩いてみようか、と佐羽が言う。
「興味があるよ。楽園の話が本当なのか……あのセイマっていう長も俺達にここを見てほしがっていたようだし」
「そうですね。行きましょう」
そうして2人はひとまず近くにある家から回ってみることにした。外から見るとひっそりとしていたが、玄関先までくると中から微かではあるが笑い声が聞こえる。佐羽は一度小さく頷いてから、家の中に向かって声を掛けた。
「ごめんください」
はあい、と中から若い女性の声がする。それからパタパタと軽い足音を立てて、髪にバンダナを巻いた活発そうな女性が玄関に出てきた。彼女は見慣れないるうか達を見て少し困ったように笑う。
「あらあら、どちら様? うちのお義父さんに用事かしら?」
「旅の途中で立ち寄った者です。少し、お話を聞かせていただいてもよろしいですか?」
すると女性は少し考えた後で頷いた。
「そうね、いいと思うわ。お義父さんも話好きな人だから」
そう言って彼女はるうか達を家の中に招いた。佐羽の話では家々には結界が張られているとのことだったが、こちらは里を守る結界のように入る者を拒んだりはしないらしい。ただ少しだけ空気の膜を通り抜けたような心地がして、るうかは家の中に踏み込んだ。
途端に何とも言えない臭いが鼻をつく。腐敗臭に近いがそれとも少し異なる、どこか乾いたような悪臭だ。女性は慣れているのか顔色ひとつ変えずにるうか達をさらに家の奥へと招いた。
風通しの良い日向の部屋に淡い黄色をしたベッドがひとつ置かれている。風のせいか少し臭いも薄い。そしてベッドの上にはひどく痩せ衰えた男性が穏やかな顔で横になり、窓から見える庭を眺めていた。「お義父さん」と女性が彼に声を掛ける。
「旅の若い人が見えたの。お義父さんの話を聞かせてほしいって。調子は大丈夫かしら?」
するとベッドの上から「おお」と小さいながらもしっかりとした声が返ってくる。それを聞いた女性はるうか達にベッドの向こうに回るようにと促した。
ベッドの上にはまだ老齢というには早い男性が、しかし老人のように痩せて骨と皮ばかりになった姿で横になっていた。首の辺りに大きな布が貼られており、そこに濁った黄色をした液体が滲んでいる。悪臭はそこから発生しているようだった。男性はそれでもるうか達を見ると嬉しそうに目を細めて口を開く。
「いやあ、本当に、若い人だ。珍しい」
一言一言を区切るように男性が声を発する度にその口からも腐敗臭が漏れてくる。彼自身はそのことに気付いていないようで、ただにこにこと嬉しそうにるうか達を見るばかりだ。その身体のどこに彼を微笑ませるだけの力が残っているのだろうか。そう不思議に思う程、彼は穏やかに笑っていた。
「お加減はいかがですか」
佐羽が優しい声で問い掛ける。悪くないよ、と男性は答える。
「ここに、来て、痛みが、なくなった、から。本当に、助かった」
「そうなんですね。今、身体にお辛いところはありませんか?」
「疲れる、と、やっぱり、苦しくは、なるよ。でも、まぁ、大したこと、は、ないさ」
微笑みながら語る男性の口の端から汚れた色の混じった唾液が零れる。るうか達をここまで案内してくれた女性がそれに気付き、傍に用意してあった綺麗な布で丁寧に男性の口元を拭った。ありがとう、と男性が言う。どういたしまして、と女性も微笑む。ほっ、と男性が軽く咳のようなものをした。今度は黒と赤の血が混じった唾液が零れた。女性はやはり丁寧に男性の口元を拭った。
女性がそっとるうか達に目配せする。気付いた佐羽が「お話ありがとうございました。そろそろ失礼します」と言い、るうかを伴って家の外に出た。
家を守る結界から1歩外に出ると途端に良い香りの風が吹く。長くないんだろうね、と佐羽が小さく小さく呟いた。
「ええ、そうなのよ」
困ったような、そして当たり前のことを言うかのような調子で声が返り、佐羽は失敗を悟った顔で振り返る。そこには先程の女性が微笑みながら立っていた。申し訳なさそうな顔をする佐羽に、彼女は朗らかに笑って言う。
「いいのよ、本当のことだもの。お義父さんはきっともうすぐ亡くなるでしょう。ちょっとおしゃべりしただけで身体の奥から血が出てきてしまうの。お部屋、臭かったでしょう? 首の下にどうしても治らない困った傷があるの。そこからずうっと臭いお水が出てくるの。でもね、そこが今は病まないからすごく具合がいいって言うのよ」
聖者様のおかげね、と彼女は言った。以前は痛がっていたんですか、と佐羽が尋ねると女性は「そりゃあもう」と少し大仰に頷く。
「ここに来る前はひどかったわ。痛い痛いって夜も眠れないものだから私まで寝不足になって、すっかり疲れてしまって、お義父さんに辛く当たったりもしたもの。それにね、嫌な夢を見ていたのよ」
「夢、ですか」
「そう。お義父さんがどこか得体の知れない研究所みたいなところでたくさんの管に繋がれて苦しい苦しいって呻いている夢。喉と胸に悪い病気があるからそれをやっつけましょう、って白い服を着た人が言うの。でもそれにはとても強いお薬を使って、少し病気を小さくしてから身体を切って病気の部分を取り出さなくてはならないって言うのよ。怖いでしょう?」
女性は本当に恐ろしい様子で眉を寄せて身を震わせる。彼女の語る夢の話がるうかにとっての現実世界の話であることはるうかにも想像がついていた。おそらく、彼女の義父は現実世界で病院に入院していたのだろう。そして治療や手術を受けることになっていたのだろう。女性は少しだけ疲れた顔で言う。
「寝ても覚めてもお義父さんが痛い苦しいって。私、なんだかもう辛いやら悲しいやらでおかしくなってしまって。そんなに苦しいならもう死んじゃう? って夢の中でお義父さんに言ってしまったの。お義父さんは私の顔を見てとっても悲しい顔をして、それで頷いたのよ」
頷いたの。女性はそこだけをもう一度繰り返した。そして両手をそっと持ち上げる。
「もう夢なのか現実なのかも分からなかったわ。私、お義父さんの首をこうやって両手で絞めたのよ。細い首だったわ。男の人だと思えないくらいに。お義父さんは元々身体のお強い方ではないと聞いてはいたけれど、こんなに呆気ないとは思わなかったわ。お義父さんは気を失って、たくさんの白い服を着た人達が駆け付けてきて、私はぼうっとそこに立っていた。白い服を着た人がお義父さんの上に馬乗りになって、その胸をこう、がんっ、がんって押すのよ。私、やめてって叫んだわ。だってそんなことをしたらお義父さん、どんなに痛いか知れないでしょう? お義父さんはもう痛いのが辛くて辛くて、そればっかりだったのにどうしてもっと痛いことをされなくちゃならないの。私、白い服の人に掴みかかった。跳ね飛ばされたわ。それからのことはよく覚えていなくて、気が付いたら朝だった。そうしたら窓の外に銀色の花が咲いていてね」
女性は一度息を吐き、吸う。
「私、お義父さんのベッドに頭を載せて眠ってしまっていたの。そんな私にお義父さんが言ったのよ。夢を見たんだって。夢の中での私があんまり辛そうな顔をしていて悲しかったって。だから2人で、あの花の向こうにある楽園に行こうって。それで私達はここまでやってきたの」
悲しい夢はもう見なくなったわ。そう言って女性はとても優しく微笑んだ。
執筆日2013/12/09