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「本当にここに、その……結界があるのかい?」
母親を乗せた荷車を押す男は不思議そうに首を傾げて佐羽を見る。本当ですよ、と彼は実にこともなげに言った。
「俺は実は魔王なんです。だから魔法にはある程度詳しいですし、この手の結界なら前にも見たことがあります」
「どうやって中に入ったらいいんだろうか」
「ただそのまま真っ直ぐ進めばいいと思いますよ、あなた方であれば」
含みを持たせて言い、佐羽はるうかに背負った荷物を男に返すよう言った。男はるうかに礼を言って荷物を受け取ると、それを背負う。
「じゃあ……行ってみるよ、ありがとう」
「いえいえ。お先にどうぞ」
佐羽はふんわりと微笑んで男を見送った。男が荷車を押しながら前に進むとふと空間が歪むように波打つ。そして次の瞬間にはもう男の姿はるうか達の目に見えなくなっていた。るうかは驚きをもってその光景を眺め、佐羽は「さて」と言いながら腕組みをして首を傾げる。
「あの人の言っていたことが本当なら、ここがその楽園で間違いないんだろうね。問題は、俺やるうかちゃんがこの結界を通れるかどうかってところなんだけど」
「……通れないかもしれないんですか? 私達はあの人達みたいに導かれたわけじゃないから?」
「うーん、それもあるけど、それだけじゃなくってね。もしもここが本当に治癒術による延命を拒んで安らぎを求める人達の集まる場所であるなら……多分大魔王や大神官に関わる人間を中に入れたくはないんだろうなぁと思って」
佐羽の説明したところによれば、つまり“天敵”を生み出してしまうこの世界の治癒術への対抗措置として作られた呪い・祝福の両システムはそれぞれを作成した鈍色の大魔王、そして鼠色の大神官にとって重要な権力基盤となっているのだという。勿論彼らもこの世界にいる全ての人間にそのシステムの利用を強制しているわけではないが、魔王や神官であるというだけでシステムの代行者と見られかねない。それは治癒術による延命を拒む人々にとっては忌避する対象ともなりうるのではないか……ということだった。
「わざわざ結界を張っているところから見ても、あんまり人目に晒されたくはないって感じだしね」
「でも、もしここに湖澄さんがいるかもしれないなら入って確かめてみないとなりませんよ」
「そうだね。まぁ……ちょっと試してみようか」
そう言って佐羽はついと左腕を伸ばした。その指先がある一点に触れた瞬間、それまで何の変哲もなかった辺りの空気が一変する。るうか達の目の前には青紫色をした電流を走らせる透明な壁が出現し、佐羽は弾かれたように後ろに尻もちをついた。
「っくう!」
「落石さん!?」
佐羽の指先には少しではあるが火傷ができている。彼はニヤリと笑いながら電撃の結界を睨むと、堪らない様子で声を立てた。
「ははははっ、随分意固地な奴が張った結界のようだね! 触っただけでこれ? 過剰反応にも程があるよね。いいよ……そっちがそのつもりなら俺だって容赦しないんだから!」
「落ち着いてくださいよ、落石さん」
るうかはとりあえずそう言ってはみたものの、彼が今更るうかの言葉に耳を貸す余裕など持っていないことは明らかだった。るうかはそっと後ろに下がって佐羽からいくらかの距離を取る。そうしている間にも佐羽は杖を振り上げ、得意の破壊魔法を結界に向けてぶち込んだ。バリバリと激しい音を立てて透明な壁が抵抗の電撃を発するが、それもやがてガラスが割れるように粉々になって崩れ去る。そして開いた結界の向こうには槍を手にした兵士風の男が10人程立って、唖然とした顔で佐羽を見ていた。佐羽は彼らに向かってとっておきの笑顔で言う。
「やあ、こんにちは。ふうん、あれだけ手加減なしでぶっぱなしてあげたっていうのに、中にいた君達には傷ひとつついていないなんて。やっぱり相当厳重な結界だったみたいだね。一体誰が何のためにこんなものを用意してくれちゃったのかなぁ? ね?」
顔いっぱいに笑みを張り付けて、はしゃぐ子どものような声音で、それでいて見ているだけでゾッと背筋が凍える程の明確な殺意を孕んで黄の魔王は兵士達を舐め回すように見る。兵士達は明らかに気圧されていたが、それでも勇敢な1人が佐羽に向かって槍を向け、わずかに震える声で誰何した。
「お前達は何者だ。何のためにここへやってきた」
「へえ、俺を知らないの? さすが、こんなところに引きこもっている連中は違うね」
「質問に答えてもらおう。お前達は何者で、何のためにここへ来て、そしてどうして里を守る結界を壊すような無法な振る舞いをしたのか」
「ああ、俺って目の前にある壁はとりあえずぶち壊すタイプだから。何故ってそりゃあ……俺は魔王だからね? 破壊と呪いにこの身を捧げ、畏怖を食らって嗤う黄の魔王様だから」
ふふふ、と笑う佐羽に兵士達がざわめく。彼らの持つ槍ががちゃがちゃと鳴り、明らかに警戒を抱いてるうか達を見ているこの状況で佐羽はなおさら楽しげに笑うばかりだ。そして彼は再びその杖を掲げる。
「さあ、じゃあ俺の名前も知らないようなお馬鹿さん達にも分かるように説明してあげようか……俺が何者なのか、がっ!?」
「その辺にしておいてください」
るうかは後ろから佐羽を羽交い絞めにして、溜め息混じりに言う。それを好機と見た兵士達がわらわらとやってきて2人を取り囲んだ。
「ちょっと、るうかちゃん!? なんで止めるの!」
「止めますよ。止めるに決まってるでしょう。ここでこの人達と戦うことに何の意味があるんですか」
「だって何だかムカついたんだもん」
「だもんって、落石さん今年でいくつですか」
「……19、です」
「じゃあもう子どもじゃないんですから、常識くらい弁えてください」
「はい……」
るうかに諭されるうちに冷静さを取り戻したのだろうか。佐羽はしおらしく頷きながらも少しだけ笑っている。兵士達に槍を突きつけられながら笑っていられる辺り、やはり只者ではないのだろう。しかし彼がこの状況を狙ってわざとこういった無謀な行動に出たことも否定はできない。
「なんだか……槍昔さんの苦労が分かる気がします」
兵士達に連行されながらるうかがそう呟くと、佐羽はふんわりと微笑んで「ごめんね?」と一応の謝罪らしき言葉を口にした。つまりはそういうことだった。
るうか達が連れてこられたのは入口からそう遠くないところにある簡素な建物だった。壁は土を固めた煉瓦で作ってあるらしく、強度はあまりなさそうだ。屋根はなく、草で編んだむしろのようなものがかけられているだけである。それでも室内の気温や湿度は快適で、同じく草で編まれた円座に座ったるうかは建物の中を興味深く見回した。この辺りはよほど気候が安定しているのだろうか。
一方佐羽は杖を取り上げられた上に両手を背中で拘束されており、あまり機嫌が良いとはいえない表情でじっとしている。自業自得という言葉がるうかの頭をよぎったものの、そもそも彼の目的はひと暴れすることによって首尾よく結界内に入ることだったのだろうからそれを果たしてもらった分くらいは労っておくべきなのかもしれない。
「落石さん……」
るうかが彼に声を掛けたちょうどその時、開いたままだった建物の入り口から長身の男性が入ってくるのが見えた。彼はるうか達を見ると面白そうに目を細めて笑う。そのまま1人でるうか達の前までやってきてそこにあったもうひとつの円座に腰を下ろした彼は被っていたフードを取って2人に軽く頭を下げた。
「こんにちは、ボクはこのネグノスの里で長をしています、セイマといいます」
るうか達は驚きをもって彼を見る。彼は30代程度に見えたが、その髪は全く色を持っていなかった。フワフワとして柔らかそうな髪の下でオレンジがかった瞳がにこやかにほほ笑んでいる。それを縁取る睫毛もまた真っ白であり、さらには肌の色も雪のように真っ白なのだった。生まれつき色素を持たない人がいるということはるうかも知っていた。しかし実際に見るのは初めてで、しばしその驚きに我を忘れる。そんなるうかに向かってセイマは「勇者さん」と呼び掛ける。
「お口が開いていますよ」
「えっ、あ。すみません。ええと、こんにちは、初めまして。私はるうかといいます」
「はい、初めまして。よろしくお願いします」
「はい……」
「それで、そちらのお強い魔王さんは?」
セイマはそう言って楽しそうに佐羽を見た。佐羽は少しだけ皮肉っぽく口元を歪めながらも答える。
「初めまして。黄の魔王、佐羽です。……どうせご存知なんでしょう?」
「はい、初めまして。ええ、あなた方のお噂はちゃんとこのネグノスにも届いていますよ。それにしてもいきなり障壁に大穴を穿ってくださるとは……はは、まったく豪気な方です、サワネくん」
「電撃結界なんて物騒なものを用意していた人に言われたくはありません」
「あ、あれはボクじゃありませんよ? この里にはとても強い力を持つ聖者がいますので、彼に頼んで張ってもらったんです。何しろここネグノスは常に静かで安らぎのある場所でなくてはなりません。無用な争い事や不必要な人間にはできるだけ踏み入ってもらいたくないのです」
セイマのオレンジ色の瞳がわずかに剣呑な光を宿す。その表情は笑みの形を保っているものの、伝わってくる感情は決して好意的なものではない。当たり前である。るうか達はこの里にとっては招かれざる客なのだから。
ところがしばらくそうして睨み合った後、セイマは堪えきれなくなったようにプッと吹き出すと「あはは」と声を立てて朗らかに笑った。
「いやいや、申し訳ありません。ちょっとからかってみただけなのです。ご安心ください、あなた方はネグノスの正式な招待を受けてここまで来られたのです。“彼”は今少し手が離せないので、よろしければ里の中を見て回るなどしてみてはいかがですか? 宿もそのうちに手配しておきましょう」
「えっ……? それは一体どういう意味……」
思わず疑問の声を上げた佐羽に、セイマはその真っ白な人差し指を薄紅色の唇に当てて悪戯っぽく笑う。
「お楽しみは後に取っておく主義なものでして。ああ、それと」
セイマは今度はふと真面目な目をして2人を見る。
「里の者に何か言われるかもしれませんが、あまりお気になさらないでください。皆、様々な事情を抱えてこの里に辿り着いた人ばかりなのです。たとえあなた方の目から見て奇異であったり受け容れられないことがあったとしても、どうか彼らを悪く思わないでくださいね」
そう言ってセイマは建物から出ていった。るうかは少しの間佐羽と顔を見合わせ、それから縛られていた彼の腕の縄を解いた。
執筆日2013/12/09