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毎夜のことながら夢の世界へと落ちていく。そう、るうかにとってその感覚は落下に近い。そして現実へと向かう夢での眠りは浮上を思わせる。では頼成や佐羽にとってはどうなのだろうか?
夢の世界で生まれたという彼らはにとってはその世界こそが現実で、るうかの思う現実の世界で眠りに落ちるときの彼らはまるで夢から覚めるような気分を味わっているのだろうか。それはまるで彼らと背中合わせの世界を見ているような不安な想像で、るうかは少しだけ泣きたいような気分を感じた。
それでも目を開ければそこは朝の光に包まれた夢の世界、盗賊街ユレクティムのカヒコの家であり、すぐ傍にあるベッドの上では佐羽がるうかの方に背を向けて丸くなって眠っている。どちらが夢であろうと現実であろうと、るうかが彼らと同じ世界に存在している事実に変わりはない。そして、今この場に頼成がいないことも。
るうかは毛布を肩からかけたまま起き上がり、佐羽のベッドに近付くと彼の耳元で容赦なく叫んだ。
「起きてください、朝ですよ!」
「ふわっちゃっ」
妙な声を出しながらも目を開いた佐羽は焦点の合っていないその鳶色の瞳をるうかに向ける。そしてちょうど10秒の沈黙を置いて、やっと「おはよう」と言った。
「朝か……あんまり寝た気がしないや」
「私もです。でも早くしないと槍昔さんが……」
「分かっているよ、さすがに俺も今日はすぐに目が覚めたから」
佐羽は少しだけ苦笑しながら身体を起こすと、枕の下にあったカードを取り出す。るうかも同じものを毛布の中から取り出した。2人はそれを確かめると身支度を整え、下の階にいたカヒコへと挨拶に向かう。
「おはようございます」
るうかが声を掛けると、朝食の支度をしていたカヒコはおうおはよう、と答えながら手に持ったおたまを軽く持ち上げた。
「今スープができるから、そうしたら飯にしよう。何、遠慮はいらねぇよ」
「あ……」
火にかけられた鍋からは実に食欲をそそるいい香りが漂ってくる。早く頼成を捜しに行きたいと思ったるうかだが、カヒコの厚意を無下にするのも気が引ける。そんなるうかを見て佐羽が「いいんじゃない?」と軽い調子で言う。
「朝ご飯はしっかり食べないと。るうかちゃんはまだまだ成長期だしね」
「さすがにもうそんなに成長しませんよ」
「そう? でも先月初めて会った頃より心なしか……」
「……どこを見ているんですか、とツッコミを入れた方がいいんですか?」
「うん、でも真顔で拳を握り固めながらのツッコミ準備はちょっとやりすぎじゃないかな? ほら、それに俺まだ何も具体的なことを言ったわけじゃないよ。たとえばそう、頼成にもん」
「おら、できたぞー」
ごん。
カヒコができたて熱々のスープを鍋ごと佐羽の後頭部にぶつけた。
声も出せずに床に転がった佐羽を呆れ顔で見ながら、るうかははあと溜め息をつく。佐羽のからかい癖は今に始まったことではないのであまり腹も立たないが、生憎彼が期待するほど色っぽい展開が訪れる様子はしばらくなさそうだ。ひょっとすると佐羽なりにるうかを元気付けようとしてくれている可能性もゼロとは言い切れないのだが、佐羽の場合は普段からこのような調子なので判然としない。
さて、カヒコの手料理をたらふくいただいた後はいよいよこの町を離れることになる。カヒコはわざわざ家の外にまでるうか達を見送りに来てくれた。そして彼は改めてるうかを見て言う。
「ルウカ、ケンジを助けてくれて本当にありがとうな。ライセイにもそう伝えておいてくれ」
「……はい」
るうかの脳裏によぎったのは現実で見たニュースの画面だった。現実の世界で生きた友知健治という人間は亡くなってしまったが、この夢の世界でケンジは生きている。それは歪ではあるが悪いことではないように感じられた。だからるうかはカヒコに笑顔を向けて頷く。
「はい、頼成さんにも必ず伝えます」
「おう」
それからるうかは佐羽と2人、緑からもらったカードを取り出して絵柄を確認し合う。そこにはるうかには読めない文字のような紋様のようなものが描かれており、2枚のそれは同じものであるように見えた。佐羽が小さく「よし」と呟く。
「じゃあ行くよ、るうかちゃん。頼成の転移術のときとは少し感覚が違うと思うけど、大丈夫だから心配しないでね」
彼はそう言ってにこりと微笑むとカードを持った左手をるうかの手に重ねた。そして右手の杖を軽く掲げるようにして、るうかには聞き取ることのできない呪文を唱える。
「 」
音が空気を震わせたと思った瞬間、るうかはそれまでいた町とはまったく異なる景色の中に放り出されていた。そこは真っ黒に塗り潰された世界で、時折辺りに青い色をした光の線が走っては消えていく。重なったままの佐羽の手がるうかのそれを握り込んだ。
「なるほどね、身体を移動する間は意識を一旦別領域に確保しておくわけか……」
「あの、落石さん。これってどういうことなんですか?」
頼成による転移魔法で移動したときには気が付くとすぐに目的の場所に辿り着いていたはずだ。佐羽はるうかの疑問を分かっているというように頷いて、ごく簡単に解説する。
「俺はこの手の魔法は専門外だから、緑さんに頼んでプログラムを組んでもらった。それは普段頼成が使っている転移魔法をよりゆっくり動作させるように組まれたプログラムで……まぁ要は慣れていない俺が使っても問題が起こりにくいってこと。ひとつひとつの手順を確実に実行しているからね」
「なんだかまたパソコンみたいな話になっていますね」
「同じようなものなんだよ。俺も詳しくは分からないけど、人間が使うコンピューターの技術っていうのはきっと神様のテクノロジーの真似事に過ぎないんじゃないかな? それとも、もしかしたら神様自身がこっそりと人間に教えたのかもしれない。こういう技術を使えばもっと簡単に正確な計算ができるよ、って。そんなところから電子計算機なんてものが生まれてきたのかもしれないよ」
「そう考えると面白いですね」
「魔法に慣れた俺達から見たら、コンピューターって本当にそれとよく似ていたから。だからこんな風に考えるのかも」
佐羽は珍しくゆったりと微笑んでそんなことを言った。彼はよく笑う青年だが、その笑顔にはどうにも裏があるように感じられることが多い。頼成をからかうときの邪気に溢れた笑顔。人を騙したり誤魔化したりする際のふわりと柔らかく掴みどころのない笑顔。本心から楽しんでいる笑顔も時折見られるが、そんなときの彼はむしろどこか無理をしているように見える。るうかがそんなことを思いながら佐羽の顔を眺めていると、さすがに視線が気になったのだろう、佐羽が苦笑した。
「なあに、るうかちゃん。俺の綺麗な顔に見とれちゃった? 今からでも遅くないよ、頼成なんてやめて俺と付き合っちゃう?」
「それはないですけど、落石さんって確かに綺麗な顔をしていますね」
普段強面の頼成と並んでいることが多いからなおさらそう見えるのかもしれないが、佐羽の顔立ちはとても柔らかで優しい。そして当の佐羽はるうかの言い草にますます苦笑した。
「拒絶されたのに褒められるって、変な感じ」
「顔の綺麗さで好きになる人ばかりじゃないと思います」
「うん、いいね。君のそういうところが好きだよ」
佐羽は何故か噛み締めるようにしてそんなことを言う。
「君は自分の見ているものを歪めないで受け止められる子だよね。そんな君が頼成の近くにいてくれるのは、俺も嬉しいな」
「落石さんは槍昔さんのことを本当に大切に思っていますよね」
「うん、君にも負けないくらいにね」
「……」
るうかは何かを言い返そうとした。しかしそう思った時に突然目の前の景色がぐらりと歪む。青い光の線が不規則に揺れ、やがて何かの紋様のようなものを描き出した。そして次の瞬間にはるうか達は見知らぬ場所に立っていた。
青臭い匂いをいっぱいに含んだ風が柔らかく吹き抜けていく。見渡す限りの平らかな大地は優しく鮮やかな緑色に染まっていた。空は抜けるように青く、白い雲がところどころにぽかりと浮かんでいる。
それ以外に見えるものは何もない。ただただ広がる草原の真ん中に、2人はぽつんと立っていた。
執筆日2013/12/04