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久し振りに懐かしい夢を見た。青緑色の液体に満たされたアクリルケースの中で微睡むるうかの耳に届く、どこか切ない声。
『せっかく同じ夜にいるのに、会えないのは少し寂しいな』
本当にそうだとるうかも思う。確かに同じ夜に存在しているはずなのに、どこにいるのかも分からないなんて耐えがたい。
『でも会えないならそれに越したことはないか。まぁもし会えたら、その時は』
るうかはケースの中で叫んだ。冗談じゃない。会えないなんて、そんなことはあってはならない。不意にアクリルケースが割れる。いや、るうかがその身の力で叩き割る。そしてその透明な破片と青緑色の血液が降り注ぐ研究室の中で驚いた顔をしている頼成に向かってこう言うのだ。
「必ず、見付けます。だからどうか無事でいてください」
夢の中の頼成は少しだけ困ったような顔をして笑った。
翌朝7時前。始発の地下鉄に乗って佐羽宅、つまり柚木阿也乃が管理しているビルへとやってきたるうかはさすがに躊躇していた。いくら何でも早く来すぎたということに今更気が付いたのである。とりあえず佐羽にメールでもして今行っても大丈夫か聞いてみようと携帯電話を取り出そうとしたその時、突然目の前にあったアルミフレームのガタついた扉が内側から開かれた。
驚いたるうかの前に見えたのは黄色いエプロン。そしてその上には鮮やかな緑色の髪をした長身でにこやかな青年の顔があった。
「いらっしゃい、るうかちゃん。さっき佐羽くんからメールがあってね。君が来るって聞いたから待っていたんだよ」
「あ……おはようございます。こんな早い時間に来ちゃってすみません、西浜さん」
「全然気にしなくっていいよ! あ、佐羽くんはまた寝ているけどね。もうすぐ朝ご飯もできるから、良かったら食べていかない?」
緑色の髪をした彼、西浜緑は頼成達が通う大学で大学院に在籍しながらこうやってこの家の家事を担っている。しかしその彼も夢の世界においては比類なき力を誇る“緑色の魔術師”として名を知られた存在なのだった。生憎、現実世界での彼を見ている限りではとてもそうは感じられないのだが。
しかしおそらく佐羽が昨夜言っていた「そういうのがすごく得意な人」というのは彼のことだろう。現実世界で彼が何をできるのかは分からないが、とにかく中に入ることにする。するとすでに奥のテーブルには焼き立てのパンと彩りも鮮やかなサラダが並んでいて、さらには奥の扉から眠そうな顔をした佐羽がシャツのボタンを留めながら出てきたところだった。
「あ、おはようございます。お邪魔しています」
気付いたるうかが挨拶をすると、佐羽は一瞬怪訝そうな顔で彼女を見てそれからすぐに目が覚めた様子で慌てて残りのボタンを留めた。それから改めてにっこり笑って「おはよう」と言う。それはいいが、まだ髪の毛に寝癖が残っている辺りでちっとも誤魔化せていない。彼の寝起きの悪さは今に始まったことでもないのでるうかとしては特に気にならないのだが、佐羽は再びそそくさと奥に消えていった。きっと身支度を整えに行ったのだろう。
そうしているうちに緑がふわふわのオムレツを3人分運んできてテーブルに置く。彼によると家主である阿也乃は昨夜から出掛けていて留守らしい。るうかは少しだけホッとした気分で勧められたソファに腰を下ろした。鈍色の大魔王とも呼ばれる阿也乃はどうにも得体の知れない女性であり、るうかとしてはあまり積極的に顔を合わせたいとは思えないのだった。
「それで、頼成くんがいなくなったのはこっちの世界では昨日の昼。あっちの世界では多分朝方っていうことでいいんだね?」
朝食を囲みながら、緑は早速本題に切り込んでくる。るうかは彼の作った素晴らしいオムレツに感動しながらも真剣な顔で頷いた。そう、と答えて緑は少しだけ暗い顔をする。
「じゃあまずはあっちの世界での頼成くんの安全を確保しないとね。転移の出発点はユレクティムでいいんだね?」
緑が佐羽に尋ね、佐羽は少しだけ彼から目を逸らすようにしながら無言で頷いた。それから改めて彼は緑の顔を見る。
「出発地点の座標は特定できているから、そこからあなたの魔法で辿ってみることはできない? それを期待して、るうかちゃんにも来てもらったんだけど」
「やってみなくちゃ分からないところではあるけれど、まだそう時間も経っていないから大丈夫だと思うよ。これを食べたら早速試してみよう」
綺麗な銀色のフォークを持ったまま、緑はそう言って楽しそうに微笑んだ。頼成が危険に晒されているというのに妙にわくわくした顔をしていることがるうかにとっては不可解だが、佐羽はそんな彼を胡乱な目つきで見やるばかりである。
「……まったく。“緑色の魔術師”なんて格好つけた二つ名を持っているくせに、現実ではただのパソコンオタクの工学院生なんだからなぁ。嫌になっちゃう」
「うーん、メインで研究しているのは情報エレクトロニクス……今のパソコンや携帯じゃない次の世代の情報処理システムを考えて、新しい概念デバイスを創出していこうっていうところなんだけど……」
「緑さん、院生と魔術師、どっちが本業?」
「あはは。世界や文化を構築する概念をプログラムだとすれば、コーダーも魔術師も似たようなものだよ。だからどっちも本業。……さて」
朗らかに喋りながらもさっさと自分の食事を済ませた緑は空いた食器を手早く重ねると奥に運び、すぐに戻ってくる。
「片付けは後にして、早速頼成くんの足取りを追ってみようか。僕は地下のサーバ室にいるから、佐羽くん、るうかちゃんを案内してあげてね。ゆっくり食べてからでいいから」
「あ、うん」
何ともマイペースな緑であるが、やることはきっちりやろうということらしい。るうかはそれを聞いて安心していいものやら逆に不安を感じるべきものなのやら迷ったものの、とりあえず食事を済ませることにした。やがてるうかと佐羽はほとんど同時に食事を終え、連れだって食器をキッチンに片付けに行く。リビングの奥の扉を入るとすぐ横に広々として機能性の良さそうなキッチンがあり、今はシンクに緑の使った食器がそのまま置かれていた。2人はその隣に自分達の食器も並べ、それからさらに奥の廊下へと進む。
それにしても妙な感じだ。外から見る限りではこのビルにこれほどの奥行きがあったようには思えない。キッチンを過ぎて3メートル程歩くうちにトイレとバスルームへと繋がる扉の横を通り抜けた。その先には右手に地下へと降りる階段と、さらにその向かいに下へ降りるボタンだけがついたエレベーターがある。
「……上の階は使っていないんですか?」
確か外観から見てとった限りではこのビルは5階建てだったはずだ。疑問を口にしたるうかに対して、佐羽はエレベーターのボタンを押してから何でもないことのように答える。
「ああ、上の階はもう本当にボロボロで使い物にならないんだって。床や天井が抜けていたり、内壁が剥がれていたり。改装すれば使えないこともないけど、それにお金を使うよりは地下を拡張した方がいいからそうした……ってゆきさんが前に言ってた」
「はぁ……」
るうかはエレベーターの上に灯るランプを見ながらぼんやりと頷く。それは1階を最上階としてB1、B2と続き、最下階はB12を示していた。つまりこのビルは地上5階建ての地下12階建てということになるのか。まるで詐欺のような話だ。そもそもそんな建て方をして、上下水道や近隣の地下鉄などに問題はなかったのだろうか。それともそれらができるよりずっと以前からこのビルはそんな有様だったのか。るうかが頭の中で次々と疑問を増やしているうちにエレベーターが上がってくる。2人は扉の開いたそれに乗り込み、佐羽がB5のボタンを押した。
奇妙な浮遊感と共にかごはるうか達を地下深くへと運んでいく。チン、と音を立ててかごが止まった。無機質な扉が開くとその向こうにはいかにも研究所めいた雰囲気の部屋が広がっている。8畳程の広さの部屋にはエレベーターの他に階段室への扉と、さらに2つの扉があった。そのうちのひとつには“サーバ室”と書かれたプレートが掲げられている。佐羽は迷わずるうかをそこに導いた。
執筆日2013/11/29