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やがて上の2軒の家が概ね片付いた頃、か細い声がるうかの耳に届いた。おおい、おおい、と呼ぶ声はかすれていて力ない。しかし気付いたるうかは声のする方に向かって叫んだ。
「誰かいるんですか!?」
「ケンジ!?」
傷の男がるうかの近くまで這い上がってくる。声は2人のすぐ下の辺りから聞こえた。
「カヒコか……頼む、助けてくれ……挟まって、抜けないんだ……」
「ケンジ! 待ってろ、今助けてやるからな!」
傷の男はそう叫ぶと足元の瓦礫を丁寧に除け始めた。るうかも勿論それに加わり、やがて下にぽかりと空いた空洞が見えてくる。その底の方に中年の男の顔があった。
「ケンジ!」
「カヒコ、助けてくれ……」
「ああ、助けてやる! だからもう少し頑張れよ!」
傷の男が下にいる男に声をかけている間にるうかはなんとか下の空洞へ降りられるように足元の空間を広げた。そして傷の男と2人で下に降り、ケンジと呼ばれる男の状態を見る。
彼は仰向けに倒れており、その身体は腰の辺りから下が全て元は壁だったと思われる瓦礫に覆われていた。手の届くところにあった壁や天井を掻きむしったのか、手の指の皮や爪がめくれて真っ赤な色を呈している。そして彼の左目には窓ガラスか何かの破片と思われる透明で鋭利な欠片がざっくりと突き刺さっていた。ケンジは右目から涙を、左目から血を流しながら傷の男に向かって懇願する。
「頼む、カヒコお……痛ぇんだ……助けてくれ……」
「あ、ああ!」
傷の男、カヒコは明らかになったケンジの姿を見てわずかにたじろいでいた。それはそうだろう。この分では押し潰されている下半身の状態がどうなっているやら分かったものではない。たとえ助かっても元々足の悪い男である。その上左目まで失っては、この町で暮らしていくことができるのか、どうか。
カヒコの手が止まる。るうかは彼に向かって言った。
「手伝ってください。私が向こうの壁を持ち上げるので、何とかケンジさんを外に出してください」
「嬢ちゃん」
「早く!」
るうかには迷いはなかった。るうかはこの町の者ではない。この町で暮らしていくことの大変さも分からない。ケンジという男がどういう人間なのかも知らない。彼がこの先をどうやって生きていったらいいのか、そこまでの面倒を見る考えもない。ただ目の前で助けを求めて苦しんでいる命を救うことに対して疑問を挟む余地などどこにも見当たらないというだけで。
「よ、いしょっ!」
るうかがケンジの下半身を押し潰している壁を持ち上げた。空間は充分にある。赤い色が見える。カヒコがケンジの身体を引き抜こうとするが、何かが引っ掛かっているのかうまく抜けてこない。そこへ頼成が上からするりと降りてきた。
「手を貸す。るうか、そこは俺が押さえているから奥の引っ掛かっているところを何とかしてくれるか? 俺じゃ身体がでかすぎて入れない」
「分かりました」
るうかはすぐに頼成に壁を任せ、それとケンジの身体との隙間に潜り込んだ。そして目にする。ケンジの痩せた右足、その太腿にざっくりと刺さった木材の破片を。その傷口から止めどなく溢れる真っ赤な血を。これを抜けばさらに多くの血が流れるだろう。るうかはそう考え、なるべくケンジの脚に衝撃を与えないようにその根元を抑えながら木材を半ばから叩き折った。それでもやはり痛みが走ったのだろう。ケンジが絶叫する。るうかはカヒコにケンジを引っ張り出すよう頼んだ。
今度はずるり、とケンジの身体が動く。るうかは彼の腰の辺りを持ち上げるようにしながら一緒になって外へと這い出した。床にはべっとりと血の跡がついている。開いた天井から差し込む日の光がケンジの全身を照らした。
木材が刺さった右腿の他にもいくつもの傷があった。左の脇腹辺りの服が破れ、皮膚と肉とが抉れて肋骨の一部が露出していた。腰の辺りも潰れて変形している。左脚の膝の下が関節でもないところで曲がっていた。そこからも骨が飛び出し、血が滴っている。はあはあと荒かったケンジの息が少しずつ弱くなってきていた。頼成がわずかに顔をしかめながら彼の脇に屈み込む。その肩をカヒコが掴んだ。
「無理だ、こいつはもう助からねぇ」
「助けてくれ、と本人は言ったぞ」
「だからってあんたが犠牲になってまで助けることはねぇ。あんたの噂は聞いている。呪いを受けているんだろ? 無茶な治癒魔法を使えば身体が石になるっていうんだろ? あんたにそこまでさせることはねぇ」
「それはあんたが決めることじゃないだろ」
頼成は静かな声でカヒコを諭すと、そのままケンジへと視線を向ける。
「痛むだろ。俺はあんたの命を助けることができると思う。あんたが望むなら、傷を癒して……歩けるようにもできる」
「……」
ひゅー、という息の音がケンジの口から漏れた。そして彼は囁くような声で言う。
「今朝、俺は俺が死ぬ夢を見たんだ。こんな風に、何かの下敷きになって」
頼成は表情を動かさずに少しだけ頷いた。ケンジは続ける。
「夢の中で俺は死んだ。起きたら生きていてホッとした。でもまた死にそうになっている。正夢だ」
「だが、この“現実”であんたはまだ生きられる」
「生きたい」
ケンジの右目から涙が溢れた。か細い声が切々と訴える。
「生きたい。怖い。夢の中で自分が死んでいくのが本当に怖かった。今まで生きてきた全部が砂みたいに崩れていく感じがした。自分というものがなくなるのがはっきり分かった。あんなのはもう御免だ。死にたくない、死にたくない、頼む、助けてくれ死にたくない」
「ああ」
頼成は微かに表情を歪めながら大きく頷いた。
「じゃあ、刺さっているガラスや木を抜いていく。かなり痛いだろうが……必ず助けるから少しだけ我慢してくれ」
そう言って頼成はまずケンジの左目からガラスの破片を抜いた。苦痛に呻くケンジに向かってすぐさま彼は治癒術を展開していく。その間にもケンジの全身を覆うように青緑色をした光の帯が伸び始め、それはまるで繭のように傷付いたケンジの身体を包んでいった。
るうかはその光景を前に茫然とする。読めないのだ。以前頼成が治癒術を使った時には彼女にもその光の帯を構成している文字……呪文を読むことができたというのに。どういうわけか今はまったくそれができない。ただ頼成の操る眩い癒しの光が傷付いた皮膚や肉や骨や内臓を、流れ失われた血を、千切れた神経や血管を、元々歩くことのできなかったその痩せた脚を万全な状態へと再生……あるいはそう創り出していくことを眺めていることしかできなかった。
やがて長い時間が過ぎ、辺りを満たすほどに広がっていた青緑色の光が消える。ケンジは安らかな寝息を立てて眠っていた。細胞を急速に再生されたために全身が疲労しているはずだ、と頼成が言う。そして彼はカヒコに向かってわずかに頭を下げながら口を開いた。
「あんたが俺の身体を心配してくれたことには礼を言う。でも俺は、これでいいと思ってるんだ」
「ああ、ああ……」
カヒコは言葉にできない様子で唇を震わせている。るうかは横たわったままのケンジの身体を担ぎ、瓦礫の山から脱出した。その際に下から微かにカヒコの声が聞こえた。
「あんたは……賢者なんてもんじゃない。聖者だよ……ありがとう……」
それに対して頼成が何と答えたのか、それはるうかの耳には届かなかった。
後の始末は町の者でやるから、とるうか達は宿屋へ行くよう促される。宿屋に着いてみるとそこには何人かの病人や怪我人が頼成の到着を待っていた。青の賢者来訪の話を聞いて集まってきた彼らを前に、頼成は疲れた顔ひとつ見せずに治療を始める。そんな頼成を見ながら、佐羽がるうかの袖を引いた。
「先に部屋に行っていよう」
佐羽は神経質そうな表情で言い、るうかも頷く。2人の懸念はきっと同じことだ。宿屋の厚意で宛がってもらった2部屋のうちのひとつに一旦腰を落ち着け、るうか達は同時に大きな溜め息をついた。
「なんだか……大変なことになりましたね」
るうかが言えば、佐羽もうんと頷いて答える。
「頼成……ホント、馬鹿みたいにお人好しなんだから……」
また石になるつもりなの、あの馬鹿。そう言って佐羽は悔しそうに拳でベッドを叩く。
「呪いなんてかけるんじゃなかった。そうすれば、頼成は強い治癒術を使わなかったかも。だって自分じゃなくて相手が“天敵”化する可能性があるっていうなら……あのお人好しは躊躇するよ。その方がよかったんだ。それなのに俺は浅知恵であいつに呪いをかけた。そんなのあいつの自己犠牲精神を増長させるだけだっていうのに!」
「……落石さん!」
るうかは叫ぶ佐羽の両肩をぐっと掴む。佐羽は半分泣きそうな顔をるうかへと向けた。
「私は……もしも槍昔さんがこの先もずっと強い治癒術を使うことをためらわなくて、それでまた全身が石になってしまうようなことになったら……また、これを使います」
そう言ってるうかは真っ赤な刃のカタールを佐羽の目の前にかざす。佐羽の目には赤い鏡面に映る彼自身の顔が見えているのだろう。彼は目に見えて不愉快そうな表情をした。
「頼成の覚悟を支持するってわけだね。いいんじゃないの、好きにすれば」
「投げやりにならないでください。私だってできればもうあんなことはしたくないんです。でも槍昔さんの覚悟を止められるだけの理由が、助かる人を助けない選択をするような理由が私には見付けられないんです」
「それは石化しても助かる方法があるって分かったからでしょう?」
「……方法がなくても、私は槍昔さんを止められません」
るうかの答えに佐羽はカッと目を剥いた。
「何それ。るうかちゃん、君は頼成より赤の他人を優先するの? 頼成の命を縮めて他の知らない誰かが助かって、それでいいって思うの? 君は頼成の恋人じゃないの? 頼成のことを一番大事にしてくれる人なんじゃないの!?」
叫びながら、佐羽はるうかの腕を掴んだ。細身ではあるが男の力である。現実のるうかであれば悲鳴を上げる程の強い力で両腕を握り込まれ、それでもるうかは揺らがなかった。
「槍昔さんは前にこう言ってくれました。“絶対にあんたのことを守ろうと思った。その思いとか、信念とか、全部を”……って。3年前の私が無茶で無意味な治癒術を使って“天敵”になった一部始終を見ていても、そう思っていてくれたんです」
「……それは」
「私は槍昔さんの信念をとても尊いものだと思います。それを曲げればもっと楽に生きられるんだろうなとも思うんですけど、そうしてしまったらこれまでの槍昔さんを否定するみたいで。“ああ”だから槍昔さんなんだと、思うんです」
るうかは自分の思うことを言いきった。佐羽は何も言い返さなかった。
執筆日2013/11/25