序章
がつがつ、とわざと乱暴な音を立ててあの女がやってきました。毎度毎度、あまり他の人達に迷惑をかけないでいただきたいのですが。まぁ言っても聞かないでしょうし、しまいには鍋でも叩きながら乗り込んできそうなので放っておきましょう。馬鹿は放っておくに限るのです。
せっかくお気に入りの水をお気に入りのポットで沸かしてお気に入りのカップで安物のインスタントコーヒーを飲もうとしていたのに。水と雰囲気を揃えれば安物でもインスタントでも意外と美味しいものですよ。だから私はこの世界が好きなのです。今や仕事はおろか生活にすら必需品となりつつあるインターネットを使えば、この辺境の街に居を構えていても世界中の名水が手に入ります。とはいえここのところ私が凝っているのはこの街から車で3時間ばかり行ったところにある山の麓の湧水なのですがね。それがまさに甘露というより他なく……ああ、足音が止まりました。
確か表の印は“在室中”にしてあったはずです。あの女が来ると分かっていれば“帰宅”にしておいたものを。もっとも、この時間に私が帰宅していては規定の労働時間から逸脱したことになってしまいます。つまりはサボりという扱いになり、その汚名は私を傷付けるでしょう。結局のところ、私はあの女の来訪を甘んじて受け入れることしかできないのです。
「おいこら、そんなでかい声で俺に喧嘩売るとはいい度胸だな」
扉を蹴り開けてあの女が入ってきました。うちの建物はかなり年季が入っているのであまり乱暴に取り扱うと壊れてしまう恐れがあります。そしてこの部屋の責任者は私ですから、この部屋の扉が壊された場合は私が責任を持って対処しなくてはならないのです。つまり今私の目の前にいるこの傍若無人な女に対して修繕費用もろもろの請求書を送付するという面倒をしなくてはならないということです。できれば余計な仕事を増やさないでいただきたいのですが。
「余計なことをくっちゃべっているのは貴様だろうが。ゆき、一応俺だって用があるから来たんだぜ」
それはそうでしょう。用もないのに来られてはこちらとしてもたまったものではありません。その薄汚れた白衣を着たままその辺に座られても迷惑です。どうぞ立ったまま用件をおっしゃってください。
「客を相手にコーヒーひとつ出す気がないとは、さすがに大学の先生様ともなるとお偉いことだ」
私はしがない助教にすぎませんし、学生が訪ねてきたときにはとっておきのコーヒーをご馳走します。私のコーヒーはなかなか好評で、それを目当てにここに来る学生も少なくありません。それに、確かこの女はコーヒーは苦いから好かないと言って普段は紅茶しか飲まないと、学生の1人から聞いたことがあります。この味の分からない女に出すコーヒーなど私は淹れるつもりはありません。
「……ほお。貴様、佐羽に手を出したな?」
彼はとても可愛い学生ですね。しかし提出期限を1週間過ぎても一向にレポートを出しに来る気配がないので、仕方がありませんから部屋に呼び出したのです。彼は悪びれた様子もなくその翌日に完成したレポートを提出しました。勿論減点対象にはなりますが、内容そのものはとても完成度の高いものでした。そんな折、ついでに彼の保護者であるふざけた女のことも聞いてみたというところです。
「あいつめ、単位目当てに俺を売ったな。さすが我が弟子、やることが汚い」
本当に分からない女です。それよりもそろそろ本題に入っていただかなければ、私にも予定というものがありますので。
「次のコマは講義を持っているのか。愚鈍な学生共なんて待たせておけばいいものを」
雇われの身でそのような馬鹿げた仕事ぶりではいずれ解雇されてしまいます。私も今の職と環境を失いたくはありませんので、いい加減に本題に入らないと煮え湯をその眼鏡にぶっかけますよ。
「やっと本性を見せたな。まぁいいさ。仕方ないから本題に入ってやる。この間のアッシュナーク神殿襲撃、あれは貴様の自作自演だろ?」
さて、何のことやら。
「そうやって余裕を気取るのも大いに結構。だがそのうち足元をすくわれるぜ? 奴は貴様が思っている程従順でもなければ臆病でもない。俺達は常に“二世”の動きに警戒するべきだ。違うか?」
まさか、常に傍若無人、大魔王の名を欲しいままにする傲慢女が私に忠告めいたことを言いにくるとは。それだけ貴女も切羽詰まっていると見るのが正しいのでしょうね。せっかく手中にした“二世”を取り逃がしたことがよほど惜しかったのだと見えます。子飼いの手下に探らせているようですが、3年の年月を経て未だ成果は得られずといったところでしょうか。そこで私にどのような取引を持ちかけようとお越しいただいたのかはいささか不審に感じるところではありますが、忠告そのものはありがたく受け取っておきましょう。私も彼の動きには注意を払うことにします。
「俺は確かに傲慢な大魔王を気取っちゃいるが、弟子は可愛がる主義だぜ? そこが貴様との大きな相違だ」
……よく言う。神殿の事件を利用して失った聖者を取り戻したのでしょう。貴女は全てにそうやって保険をかけている。弟子などと呼べば聞こえはよろしいですが、所詮貴女にとっては操り人形、玩具でしかない。だから貴女の世界はいつも理不尽な赤色にまみれて汚く穢れているのです。
「はっはっは! こいつは面白い。よく言う、だと? それは貴様にこそ相応しい言葉だぜ。たまには穴蔵から外に出てこの世界を見てみろよ。腐った思想に縋る民衆という名の生命体が何にも考えず空っぽのまま街を徘徊している。膨張したシステムは穴だらけ、常に割りを食うのは元々立場の弱い連中だ。全ては上位の者に優位に働き、人生なんてそんなものと大概の奴がそう思っている。クソ程つまらないことじゃないか。誰も彼も時間と仕組みと他人様に流されて、果たして何が平和だろうな? ああ、本当に退屈な世界だよここは。全てあらゆるものがお仕着せで、自由なふりをしようにもモデルがないとその格好すら分からないときたもんだ。馬鹿げているとしか思えないぜ」
それでも、私の世界を愛する人々は多いのです。殺伐とした命のやりとりを強いられ、強い信念を持っていない人間は弾かれ肉塊の化け物と化す……それこそ弱者を切り捨てる傲慢なシステムでしょう。
「相変わらず、貴様とは意見が合わないな」
ええ、その通りです。この一点に関してだけは常に意見が一致しているとも言えますね。喜ばしいことです。あの方は我々がどのように決着をつけるのかをとても楽しみにしていらっしゃることでしょう。しかし困ったことに私は実はこういった盤面の遊戯は甚だ不得手でして。相手の手を読みつつ自分の手を考える……これは困難なことです。何しろ私には貴女のような外道女の考えが一向に理解できないのですから。
「安心しろ、俺も似たようなもんだ。貴様のようないけ好かない男の腹の内なんぞ知りたくもない」
ではやはりこの遊戯は今しばらく続くことになりそうですね。あの方にはもうしばらく待っていただくことにいたしましょう。勿論、そのうちに痺れを切らせてこちらに乗り込んでこないとも限りませんが……その前に“二世”達を何とかしておいた方が良さそうですね。
「貴様の手に負えるような連中じゃあないだろうぜ。まぁせいぜい指を咥えて見ているがいい。いずれ必ず後悔することになるさ」
聞きようによっては捨て台詞とも思える言葉を残して鈍色の女が去っていきました。がつがつ、というあの足音だけは本当に何とかならないものでしょうか。
それにしても、あの女がわざわざ私に忠告しにくるとは珍しい。何かよからぬことでも企んでいるのか、それとも天変地異の前触れでしょうか。私も用心するに越したことはないのでしょう。いくら“一世”の我々とて、手に余る事象は常に存在するのですから。
手始めに、あの女の懐を探ってみることにしましょうか。
執筆日2013/11/10