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彼女と見る月

お題:謎の帰り道

「谷川俊太郎だったら、『はる』が一番好きかな。ひらがなの方ね」


 *


 それは、一耳惚れとでもいうんだろうか。いや、一聞き惚れ? まあどちらにしろ、そういうことなのだ。

 彼女の声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立って、ぞわりぞわりと背中が泡だって、ジブリの登場人物みたいに髪の毛が逆立つような感じで、「ああ、僕は、あの子が好きだ」と思った。

 僕はばっと振り返って、その声の主を確認した。僕が初恋を経験したのは、高校に入学して一番最初、クラスの中で一人ひとり自己紹介していた時だった。出席番号とフルネームを喋った彼女の声に、僕は一瞬で恋をした。

 僕より一列後ろで、僕より二行廊下側。少しだけ遠い席。そこに彼女はいた。ぱちぱちと瞬きしている、その目がまた綺麗だと思った。多分その瞬間には一目惚れしていた。

 それから僕は一生懸命だった。委員会を決めるとなった時、皆が探り探り希望の委員会へ手を挙げる中、僕はまっすぐに図書委員会へ手を上げた。理由はもちろんたった一つ、彼女が図書委員会へ手をあげていたからだった。

 早い者勝ちというやつで、僕は晴れて彼女と同じ委員会になったのだった。


 *


「本当はね、谷川俊太郎より、寺山修司が好きなの。寺山修司少女詩集。それが一番好き」


 *


 図書室で、二人並んで放課後を過ごす。僕はその時間が何より幸せだった。ちらと横を見れば彼女の美しい瞳があるし、たまに利用者が来れば彼女の美しい声が聞ける。これより幸せなことがあろうかというくらいに幸せだった。

 しかし、僕が多くの幸せを望まない性格だったのが災いしたのか、僕と彼女の関係はまるで進展しなかった。週に三日、放課後は二人で図書室の当番を務めているのに、僕は彼女とクラスメイトで同じ委員会という関係性から少しも動いていなかった。いや、少しも、ではないと思いたい。じわりじわりと、僕は彼女と会話をしていた。ほんの少し距離を詰めるようにして、僕は彼女が一番好きな谷川俊太郎の詩を知っているし、彼女が一番好きな詩集も知っていた。けれどそれだけだった。彼女のそれだけを知って、僕は一体彼女とどんな関係になれるのだろうと思った。少し焦ってもいた。

 それに、今日は中秋の名月とやらだった。

「ね、ねえ。一緒に、帰らない?」

 僕が勇気を出してそう誘ったら、彼女は美しい瞳をぽっかり広げた後、それを優しく細めて頷いた。


 *


「でもね、私、あなたの好きな詩人も詩集も知らないのよ」


 *


「ねえ、どこ行くの?」

 彼女の戸惑うような声が後ろから聞こえて、それにぞわりと鳥肌が立った。けれど足は止めなかった。彼女と手をつないでいる、というそれだけの事実が、僕の心を随分と浮き立たせているのだった。

 あそこへ行こう、と思っていたのだった。折角の二人の帰り道、少しばかり寄り道をしよう、と。今日は満月であったから、きっと彼女を喜ばせられるだろうと思って。

 そう思うのなら、行き先くらい教えてやればよかったのに、僕はそんな余裕もなかった。ただぎゅうと彼女の手を握って、たまに後ろから聞こえる声に心臓を高鳴らせながら、ひたすらに目的地を目指す。彼女は不思議がりながら、それでも僕についてきてくれた。

 ようやく僕が立ち止まると、彼女はつんのめるようにして僕にぶつかった。それから、わあ、と瞳をいっぱいに開く。

 そこは僕の秘密の場所だった。祖父が教えてくれた、月見にうってつけの場所。電線も、高い建物もなく、ただただ広がる夜空にぽっかり浮かぶ月だけが見える。

 恐る恐る彼女の様子を窺う。彼女はじっと満月を見つめて、それから僕へ視線を移した。その瞳の美しさに、またぞわりと鳥肌が立つ。

「月が綺麗ですね、なんて言ったらぶっ飛ばすからね」

 彼女は僕をドギマギさせる声のまま、僕の心を射殺すような微笑みのまま、そんなことを言った。

「私その言葉嫌いなの。ただ日本人らしさだとか風流だとか、そんな上っ面の理解だけして、得意げな顔でその言葉を使われると、本当に腹が立つのよ。何が、月が綺麗、よ。そんなの当たり前よ。月はいつだって綺麗よ。それがアイラブユーを意味するだなんて、本当に自分で思っているのかっていう話よ。自分の言葉で伝えるボキャブラリーはないのかっていう話なのよ」

 つらつらと彼女は僕へ言葉を浴びせかける。そんなに長く彼女の声を聞いたのは初めてだったので、僕の心臓は壊れてしまいそうだった。まるで耳から熱湯でも流し込まれているようだ。

「それで」と彼女は僕の瞳を見つめた。「あなたは何が言いたいの?」

 高鳴る心臓の音がうるさく僕を急かす。耳の熱がじんじんと僕を急かす。じっと見つめる彼女の瞳が僕を急かす。彼女の声の余韻が僕を急かしている。

「好きです」

 急かされて急かされて急かされて、結果出てきたのは、そんなシンプルな四文字だった。シンプルにも程があった。そもそも僕、彼女にはタメ口だったはずなのに、どうして突然敬語になったのだろう。

 それでもそれ以上何も言えなかった。僕はそのたった四文字を口にしただけで息切れしていた。顔を真っ赤にする僕を見て、彼女は何を思ったのだろう。じっと僕を見つめた後、にっこりと美しい瞳を細めた。

「知ってた」

 その後すぐに、でも私、あなたのこと何も知らないの、と続ける。あなたの好きな詩人も、あなたの好きな詩集も、何も。

「だから、色々、教えてほしいな。あなたのことが知りたいの。どうしてなのかって言えば、それはきっと、私もあなたのことが好きだから」

 それはアイラブユーを意味するのだと、彼女の美声にときめく僕は、しばらく理解ができないままだった。

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