むせ返るカレーの匂い
お題:くさい誤解 必須要素:ヘッドホン
「神様がいるかどうかはさておいて、ひとまずカレーのご飯を炊こう」
彼はそう言って私の話を止めた。それまで一方的に私が話していたので、一瞬喉に言葉がつまって返事ができない。その一瞬を彼は逃さず、さっと立ち上がって台所へ向かった。仕方がないので私もその後を追う。やっと喉のつまりがとれた。
「でも、炊飯器は、この前私が壊しちゃったわ」
この前と言っても、つい昨日の事である。お風呂に入る前に確かにお米を研いだのに、きちんとセットもしたのに、炊飯ボタンを押すのを忘れてしまった。お風呂から上がって炊けていないご飯を見た時、私はそんなことも出来なかったのかと自分が情けなくなり、炊飯器を床に叩きつけてしまったのだ。
「大丈夫。新しいの買ってあるから」
彼は事も無げに言って、真新しい炊飯器を指さした。ああ、本当だ。さすがは彼だ。
お米を研ぐ彼をぼんやりと眺める。彼の綺麗に整えられた髪と、キッチリと着たスーツと、そのスーツを腕まくりしてお米を研いでいる姿を見ていたら、どうしようもなく自分が情けなくなってしまった。ごめんなさい、と心の中で懺悔する。
「何が?」
彼がお米を研ぎながら言った。声に出てしまっていたらしい。私の悪い癖だ。また自分が情けなくなる。
「色々、壊してしまって、ごめんなさい」
「今日は何壊したの?」
「お皿、が、二枚と。後、コップ、一つ。それと、ボールペンを、三本」
「ヘッドホンは?」
「壊してない」
「ならいいじゃないか」
彼はそう言って、お米を炊飯器にセットした。ピッ、とスイッチを押す。確かに押したのを私も確認した。それが『予約』だとか『保温』スイッチではなく、『早炊き』スイッチであることもきちんと確認した。
「おいで」と彼が私を呼ぶ。「炊き上がるまでに、サラダを用意しよう」
はい、とレタスを渡された。私でも分かる。一枚ずつレタスを剥いで、それから流水で洗った。私がそれだけの手順をもたもたとやっているうちに、彼はきゅうりやトマトを綺麗に切って、ドレッシングを何個か取り出していた。どれがいい? と聞かれたので、右端の、と答える。
彼が出してきた大皿へ、まず私が剥いだレタスを乗せる。それから彼が切ったきゅうりやトマトを乗せて、私が選んだドレッシングをかけてくれた。よくできました、と言って、彼が私を撫でる。
それからカレーを温めなおした。これは珍しく私が作ったカレーだった。彼は一口味見して、美味しいよ、と笑う。彼の口に合うように、辛めに作ったのだ。ああ、よかった。彼が褒めてくれて本当によかった。
ピピー、と音がした。ご飯の炊けた音だった。
「じゃあ、準備しよう」
彼に言われて、サラダを机へ持っていく。それから、サラダを取り分けるためのお皿、彼と私の分の箸とスプーン。後は、コップ。あ、ああ、しまった、コップは、
「コップなら戸棚に新しいのが入ってるから」
すぐに彼がそう言った。戸棚を開ければ、確かに新しいコップが置いてある。私はほっとしてそれを手にとった。
私がそれらを机に並べていると、彼が綺麗によそったカレーライスを持ってきた。はい、とまず私の方へ置いて、それから自分の分を置く。
「食べようか」
「うん」
いただきます、と二人で手を合わせた。
カレーを一口食べた。彼が炊いたご飯は美味しかった。私の作ったカレーは辛かった。本当に辛かった。口に入れる前から、むせ返る辛さが匂いとして襲ってきていた。そのカレーを食べながら、神様はいないのだろうな、と思っていた。カレーが辛い。けれどこれは彼が好きな味だ。気づけばぼろぼろと泣いていた。
彼は少しだけ驚いて、それから自分の分のカレーもほっぽり出して、私を撫でた。コップの水を勧めてくる。今日は少し辛かったもんな、と私を宥めるように言った。私がカレーの辛さに泣いているのだと思ったようだった。違うのだと言えないまま、むせ返るカレーの匂いにまた泣いてしまった。
完璧でなんでもできる彼が、私なんぞを好きだと言ってくれるのだから、この世に神様はいないに決まっているのだった。そのことが悲しくて私は泣いた。泣きながら、それはきっと喜ばしいことなのだろう、とも思っていた。世間一般には、神様の不在は、とても喜ばしいことなのだろう。
彼が私を撫でる。カレーはどんどん冷めていく。泣きながら私は、明日この人の前から消え去ろう、と心に決めていた。