表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

へらりと壊れる体温計

お題:無意識の人

 ごめん、私壊れちゃった、と彼女は言った。冷えピタをおでこに貼り付けて、寝ていろと言ったのにソファに座っていた。僕は言うことを聞かない彼女へ少し苛立って、その隣に座る。

「ごめんね、私、壊れちゃったみたい」

 僕を見て、彼女はもう一度そう言った。うん、それは分かったから、と僕は先を促す。

「どうしてそう思うのさ?」

「だってね、これ、見て」

 そう言って彼女が差し出したのは体温計だった。「38.5」とデジタルな数字が表示されている。

「何度はかってもね、八度五分なの。何回やってもそうなの。これって、やっぱり、私、壊れちゃったんだと思う」

 へらりと、彼女は笑った。冷えピタをおでこに貼り付けて、真っ赤な頬に汗をかいて。僕はそれに苛立って、乱暴に彼女から体温計を奪う。

「体温計が壊れたんじゃないの」

「ちがうよお。だって、何回もはかったんだよ。もうねぇ、十回くらい。それなのにずっと八度五分なの」

「だから、体温計の方が壊れたんじゃないの。僕もはかってみるから」

 彼女から奪った体温計を脇に挟む。少し古いタイプの体温計は、無事に体温がはかれるまで数分かかる。僕はイライラしているのに、彼女はへらへら笑っていた。

「ほんとにね、何回もはかったの。二十回くらい? 三十回かな? えっとね、一時間くらいはかってたの。それなのにずっと八度五分だからさ、私、壊れちゃったんだと思う」

 僕はもう彼女に返事をしなかった。ただ脇に挟まった体温計がピピピと鳴くのを待っている。彼女は僕の返事などいらなかったようで、まだ一人で話している。

「これってさあ、私、この先ずうーっと八度五分のままってことかな。どうしよう、脳みそ煮えちゃうね。沸騰しちゃうよ。茹で上がっちゃうね。それは困るねぇ」

 へらりと笑う。平熱の彼女はこんなふうに笑わない。そんな風に笑っていたのは彼女じゃない。あの子だ。

「タンパク質ってさあ、知ってる? タンパク質って、一度茹で上がると元には戻らないんだってね。お米とおんなじ。一回干からびたお米は、もう元の炊きたてご飯には戻らないんだよ。タンパク質もおんなじなんだってー」

 僕は苛立ちながら時計を見た。まだ体温計は鳴らないのか。

「人ってさあ、タンパク質でできてるんだよね? 脳みそもそうなんだよね? タンパク質って、固まっちゃったら戻らないんだよー。怖いねー。人も茹で上がっちゃうんだね。どうしよう、私、このまま八度五分のままだったら。直らなかったらどうしよう。なんだか怖いな。ねえ、タンパク質の凝固温度って何度だっけ?」

 彼女の口調が段々としっかりしていく。もしかしたら、意識がはっきりしてきたのかもしれない。僕がそう思った時、ピピピ、と脇から音がした。やっと体温計が鳴いた。

 さっさと体温計を引っこ抜く。そこに表示されていたのは、やっぱり「38.5」という数字だった。

「ほら、見て。壊れてるのは体温計の方だよ。君じゃない。君は壊れてない」

 彼女は、僕が見せた体温計をぼんやりと眺めている。

「……壊れてない?」

「壊れてない」

「そっかあ」

 口調こそぼんやりとしていたが、彼女はもうへらりと笑わなかった。僕はそれに安心する。

「ほら、寝よう。ただの風邪だ。一晩寝れば治るよ」

「そっか。そうだね。壊れてないもんね。脳みそも煮えないもんね。よかった。寝よう。寝るね」

「うん。寝よう」

 彼女の腕を引っ張って立たせた。体を支えて、ベッドまで連れて行く。彼女は自分からベッドに飛び込んで布団を被り、僕へにこりと笑ってみせた。

「おやすみ」

「うん、おやすみ」

 彼女は目を閉じたかと思うと、次の瞬間には寝息を立てていた。これで大丈夫だろう。もう明日には、彼女はへらりと笑ったりしない。僕は安堵して、ベッドの傍に座り込んだ。気が付かなかったが、そのまま寝てしまっていたらしい。


「……ねえ、起きて」

 声とともに、僕をつつく感触。目を開ければ、彼女がいたずらな表情で僕をのぞき込んでいた。窓の外からは日が差し込んでいる。朝か。

「まさか寝てる時もずっとそばに居てくれるなんてね。ごめん、でも嬉しい。ありがとう」

 そう言って彼女は笑った。にっこりと、いつもの通り美しく笑った。僕もそれへ笑い返す。

「別に、いいんだよ。後おはよう」

「うん。おはよう」

 彼女は起き上がると、おでこに張った冷えピタを剥がしてゴミ箱に捨てた。僕もゆっくりと体を起こす。硬い体を伸ばしながら、彼女へ尋ねた。

「もう具合はいい?」

「うん、随分よくなった。きっと君がついてくれてたおかげだね」

「そっか、良かった。……ねえ」

「ん?」

 振り返る彼女はいつもの彼女だった。へらりと笑ったりしない彼女だった。

「昨日のこと、覚えてる?」

 僕が意を決してそう聞けば、彼女はきょとんとしている。

「え、何、私なんかした? 昨日って、確か、君が帰ってくるの待てないで寝ちゃったような気がしたんだけど……」

「そっか。ならいいや」

「えっ、ちょっと待ってよ! 私、なんかしたの? 全然覚えてないんだけど」

 寝言でも聞かれたのかと、彼女が恥ずかしそうに僕を追求する。僕は笑ってそれをかわした。彼女は昨日のことを覚えていない。ならば僕も、そのことは教えるべきではない。

 彼女の体調が優れなくなると、必ずあの子が出てくる。僕と彼女の間で、タブーとなってしまったあの子。へらりと笑っては、訳の分からないことを言って僕と彼女を困らせたあの子。彼女もきっと忘れられていないのだろう。それが無意識の中で出てきてしまう。僕はそういったことに詳しくはないが、二重人格のようなものになってしまっているのだ。……僕は、オカルトチックなことは信じていない。

 彼女はそれまで風邪も引かないような健康体だったのに、あのことがあってから、数ヶ月に一度体調を崩すようになった。それはつまり、数ヶ月に一度、僕の前にあの子が現れるということだった。だから僕もあの子のことが忘れられない。もう何年も前のことなのに、あの子は今も僕達を逃がすことはないのだ。

「……ねえ、大丈夫? 風邪、うつったんじゃない?」

 ふと気づけば、彼女が心配そうに僕をのぞき込んでいた。慌てて僕は首を左右にふる。

「いや、ちょっと考え事してただけだよ。ピンピンしてるから、心配しないで」

「そう? ……仕事? 話だけならいくらでも聞くよ?」

 首を傾げて、本気で僕を心配してくれる彼女をなでて、僕は笑った。彼女を安心させるのなら、僕の心からの笑みが一番なのだと、長い付き合いで分かっている。

「大丈夫。心配してくれてありがとう。……朝ご飯食べようか」

「……うん」

 彼女は頷いた。少しひっかかったような顔はしつつも、素直に引き下がって微笑んでくれた。

 僕と彼女の間にはわずかな歪がある。それは少なからずあの子のことで、僕らはそのうち、本当に壊れてしまうのではないかと思っている。……その前に、あの子を、忘れてしまいたい。

「ねえ、早く行こう」

 先に立って彼女が笑う。にっこりと。それに笑い返して、ふと気づいた。

 僕は今、へらりと笑ってやいなかっただろうか、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ