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OSSAN IN THE SUMMER(下)

「んで? ここどこ?」

「さあ?」

 ヴィーヴルとフレースヴェルグは見知らぬ場所を見渡して首を傾げた。

 外ではない。蝋燭の頼りない明かりが均等に配置された薄暗い建物内だ。石造りの壁には窓一つ見当たらないため、恐らく地下ではないかと思われる。

 かび臭い湿った空気。埃っぽい床。

 壁から生えた鎖の先は、二人の両手両足を拘束するルーン文字の刻まれた枷。

 そして、目の前にある頑丈そうな鉄格子。そちらも同じようにルーン文字が刻まれている。

「オレが思うに、地下牢じゃね?」

「んなもん見たらわかるわよ馬鹿!」

 スパン! と軽快な音を立ててヴィーヴルはフレースヴェルグの後頭部をしばきたかったが、拘束されていてはそれもできない。

「なんで私とあんただけこんなとこにいるのかって訊いてんのよ! ボスは? さっきまで一緒だったよね?」

「……そんな質問じゃなかっただろ」

 フレースヴェルグは小声で愚痴る。

 ヴィンフリートとかいう魔術師に妙な術式で転移させられた場所は、フレースヴェルグの言う通りどこかの地下牢だった。転移した瞬間に拘束された状態だとは、なかなか器用な術式だ。

 そのどこかというのは、だいたい予想がついている。

「ねえ、フレス。確かあいつ、ガンディーニ・ファミリーの構成員の精神を使ったって言ってたよね」

「あー、そういや言ってたな。マフィアを今の隠れ蓑に使ってるってわけか」

「てことはさ、ここってあの趣味の悪い別荘の地下ってことじゃない?」

「うえ、マジか。オレ、あの邸にだけは入りたくなかったのになぁ」

「私もだよ」

 二人揃ってうんざりする。せっかくの島の景観をこれでもかとぶっ壊していた派手な洋館は、海水浴客の誰もが視界に入れないようにしていただろう。ましてそれがマフィアの別荘だと知っていれば尚更だ。近づきたいとも思わない。

「……で? フレスはどうするつもり?」

「どうするって、なにがだ?」

「ここで大人しく捕まってるか、脱出するか」

「おいおい、この鎖のルーンはたぶんオレら幻獣の特性を封じるものだぞ? そう簡単に脱出なんて――」

 バキンッ!!

「……」

 いとも簡単に鎖を引き千切ったヴィーヴルを、フレースヴェルグは無言無表情で見詰めた。

「フェンリルを捕まえる神器じゃないんだ。ちょっと頑丈な鎖を術式で強化したくらいでドラゴンを封じられるとでも思ったのかね、あのマヌケそうな魔術師は」

 唇を斜に構えた悪そうな顔で笑うヴィーヴル。その自信満々なドヤ顔にフレースヴェルグは思わず溜息をついた。

「……ったく、お前らドラゴンの腕力にゃ呆れるぜ」

 バキンッ!!

 壁ごと引っこ抜く勢いでフレースヴェルグも鎖を捻じ切った。予想以上にあっさり切れてしまったことに多少の違和感を覚えるが、まさか罠ではないだろう。仕掛けた魔術師がマヌケだったのか、それとも――

「あんたも大概じゃん」

「まあ、オレは化け鷲であり、『巨人』だからな」

 フレースヴェルグたちが、あまりに強過ぎたのか。

「鎖さえ千切れば、あとはこのルーン文字を適当に潰して……」

 ヴィーヴルは両手首に嵌められた枷を壁に強く擦りつける。鉄の枷自体を削るわけではなく、削った壁の粉末で刻まれたルーン文字の溝を埋めるのだ。

 そうして両手両足の枷に仕込まれた封印魔術を機能させなくすると――ボワッ! 四組あった枷と鎖は一瞬で赤い炎と化して吹き消えた。

 燃やしたのではない。

 ヴィーヴルの特性――〝炎体〟は、個種結界に付与させることで対象の無機物を炎化させることができるのだ。

「相変わらず凄まじい特性だよな」

「ほい、フレスのも」

「ほあっちゃ!? ちょ、オレは炎に触れたら普通に熱いんだからいきなりはやめろよ!?」

「大丈夫大丈夫。焼き鳥になったら私が美味しく頂くから」

「それどの辺が大丈夫なのか具体的に原稿用紙五枚に纏めて提出しろ!?」

「やだよ面倒臭い」

 ヒラヒラと適当に振られるヴィーヴルの手には、もはや縛るものはなにもない。同じく自由の身になったフレースヴェルグも軽く火傷した手首を労わりつつ、

「……次はそっちだな」

 そう言って普通の牢よりも魔術的に頑丈な鉄格子を睨んだ。

「私の特性で吹き消してもいいけど……別に敵に見つかりたくないわけじゃないし、寧ろ誰か見つけて問い詰めたいところだから」

 ニヤァ、と悪役しか似合わない笑みを刻むヴィーヴル。

 その考えを瞬時に理解し、フレースヴェルグも同じように笑って頷いた。


「「派手にぶっ壊すか!」」


        ∞


 地下から響いた突き上げるような振動にガンディーニ・ファミリーのボス――ダルダーノ・ガンディーニはベッドから跳ね起きた。

「な、何事だっ!?」

 自分が水玉模様のナイトキャップとパジャマ姿ということも忘れて自室を飛び出す。すぐにファミリーの構成員が二人見つかった。なにせ護衛として扉の前に立っていたのだから当然だ。

 構成員二人は自分たちのボスの姿に吹き出しそうになりかけるも、すぐに状況を思い出して表情を引き締めた。

「地下牢で何者かが暴れているようです」

「は? 牢には誰も入れてないぞ?」

「いえ、ヴィンフリート様が先程――」

「おのれあの魔術師が!」

 恐らく昼間の幻獣女を奴が捕らえたのだろう。ダルダーノが頼んだことをきちんと遂行した件については部下よりも有能だが、幻獣などという恐ろしい存在を抱くつもりは毛頭ない。

「俺の組織を潰す気か! くそがっ! おい、奴の研究室に行くぞ!」

「牢で暴れている者は?」

「放っておけ! ヴィンフリートに始末させる!」

 沸騰しそうな感情を声に乗せて吐き散らし、ダルダーノは自分専用のエレベーターで魔術師の研究室――別荘の最下層へと降りる。


        ∞


「一番下にヴィンフリートの研究室があるんだってさ。たぶんボスはそこだよ」

「あのヴィンフリートって奴、おっさんだけ招待するとかなんとか言ってたよな」

 地下牢のあったフロアの廊下をヴィーヴルとフレースヴェルグは歩いていた。何気ない雑談と変わらないノリで情報の確認をする二人だったが、その背後には黒服の男たちが死屍累々の体で積み上げられていた。

 牢の破壊音を聞きつけてわらわらと集まってきたガンディーニ・ファミリーの構成員たちだ。

 全員意識は失っているが、死んでいる者はいない。相手はマフィアであるものの魔術を知らない一般人。殺してしまうわけにはいかない。情報を聞き出せるだけ聞き出して眠ってもらうのが妥当だろう。

「ボスのことだから全然これっぽっちも不思議なくらい心配にはならないんだけど、一応、急いだ方がよさそうね」

「だな。――お、階段発見」

「えー、階段で下りるの? エレベーターとかあるっしょ、どっかに」

「ねえだろ。ビルじゃないんだから」

「そうだ、後ろの奴ら叩き起こして訊いてみる?」

「今さっき急がねえとって結論に達したよな!? そんな暇ねえよ!?」

 実は廊下の突き当たりを曲がった先にあったとは知らず、二人は階段を下へ下へと進んでいく。仮に見つけていたとしてもガンディーニ・ファミリーのボス以外は使用できないようセキュリティが働いているため、ヴィーヴルたちが利用することはできない。

 もっとも、壊して飛び降りれば済む話ではあったが。

 地下牢から下にフロアはなかった。ただひたすらに階段だけが続いている。蝋燭を使った照明はとても薄暗く、気をつけなければ足を滑らせてしまいそうだ。普通に蛍光灯を使えよ、と自分の炎で足下を照らすヴィーヴルが何度も愚痴っていた。

 やがて階段の先に重そうな鉄の扉が見えた。

「らぁっ!!」

 一気に駆け下りたフレースヴェルグが蹴り破る。鉄扉はくの字に圧し曲がって砲弾のように吹っ飛び壁に激突した。

 待ち伏せ上等寧ろ返り討ちの覚悟と勢いで扉の先へ。

 そこは――

「あぁ?」

「どういうことよ、これ」

 ヴィーヴルとフレースヴェルグの目の前には、積み上げられた黒服の山があった。さらにその奥には大穴の穿たれた鉄格子が見え、ところどころ崩れた壁や銃弾の跡から戦闘があったことが窺える。

 黒服たちと誰かがここで戦った。

 誰かとは、ヴィーヴルとフレースヴェルグだ。

 ここは二人が転移させられた場所――地下牢のフロアだった。

「チッ、どっかで空間を捻じられてたみたいだな」

 フレースヴェルグが舌打ちする。下りても下りても元の場所へ戻ってしまう無限回廊。あらかじめ魔術的にそういった仕掛けがされていたのだとすれば、二人が脱走することはあの魔術師にとって想定の範囲内だったということだ。

「〝無限〟〝連続〟そして〝循環〟……あいつの契約幻獣にウロボロスでもいるのかね」

「いや、その要素を組み込んだ結界魔術だろうよ。ちょっとした上級魔術師ならこのくらいやってのけるぜ」

「ならよかったわ。本家じゃないなら破るのはそう難しくないだろうし」

 ヴィーヴルは掌上に特大の炎を出現させる。それを床に叩きつけて結界ごと最下層まで貫くつもりだ。

 都合悪くその直撃コースに辰久がいる可能性は、考えない。

 どうせなんとかしてしまう、あの大魔術師は。

「んじゃ、一気にやるよ。フレス、離れてな」

「おう」


「いやいやいやぁ、それは流石にさせないなぁ!」


 冷気を纏った風が吹いた。

 本能的に感じた薄気味悪さに二人が身震いした瞬間、ヴィーヴルの生成していた炎が解き放ってもいないのに破裂した。

「なっ!?」

 瞠目するヴィーヴル。熱風の衝撃波が容赦なく彼女の体を打つが、自分の炎で火傷するほどヴィーヴルの体は脆くない。フレースヴェルグと一緒に少し吹っ飛んだだけだ。

 火の粉が舞い散るその中で、濃紺の全身ローブに身を包んだ男が階段を背にするように立っていた。ローブのフードからは頬骨の目立つ痩せこけた白い顔が覗いている。どうやら、完全に後ろを取られていたようだ。

「ゴースト、だったか?」

 姿を現した敵にフレースヴェルグが問いかける。

 幻獣ゴースト。

 現の世に残留する無念の霊魂から生まれたアンデットだ。一般的には亡霊とされているが、特性や能力の違う亜種が数多く存在する。

 例えば、無念の思いを抱いた対象者の下に出現するファントム。

 例えば、強い怨念の意識のせいで人間全てに対して敵意を持つスペクター。

 例えば、高位の霊体であるレイス。

 眼前に屹立する男がどの存在なのかは不明だが、一般人が畏怖するような幽霊とは大きな違いがある。

 あれはあくまで、『幻獣』だ。

 この世界の生物が化けて出たような不明瞭な存在ではなく、幻獣界にいる『ゴースト』という名の種族に過ぎない。なにより――

「おれっち的には面倒だから放っといてもいいんだけどさぁ、ほらぁ、アレアレ。お前たちをこのフロアから出すなっヴィンフリートのマスターに言われてんだよねぇ。ヒヒヒヒ。だから通さねえの。ヒヒヒヒ」

 こんな活き活きと軽い口調で喋る幽霊などいてたまるか。

 ヴィーヴルが睨む。

「あんた、ヴィンフリートの腰巾着してた時はもっと大人しい感じじゃなかったっけ?」

「ん? あーまーそうだね。だってほら、おれっちってば口が軽いからさぁ。余計なこと喋ってマスターに癇癪されても困るわけよ。魔力くれなくなったら人間襲うしかねえじゃん? 人間襲うの面倒じゃん?」

 ケラケラカタカタと一人で笑うゴーストに、ヴィーヴルは問答無用で炎弾をぶつけた。

 だが、炎はビーチでの時のようにゴーストの体を擦り抜けてしまった。

「〝霊体〟の特性だよん。おれっちに物理的に触れようなんざだいたい無理だから。そこんとこ理解しといた方がいいよ。ヒヒヒ」

「忠告どうも。そっちもその笑い方キモイし雑魚っぽいからやめた方がいいよ」

「ヒヒ、癖なんでね。なかなか直りません。あーそうそう、そっちがおれっちに触れられないように、おれっちも直接そっちに触れることはできないんだけど――」

 すっと、ゴーストが白い手袋をはめた右手を翳す。

 瞬間、ヴィーヴルはハンマーで殴られたような不可視の衝撃を浴びて背中から転倒した。

念動力サイコキネシスか!」

 なにが起こったのかわからない表情で仰向けに倒れたヴィーヴルを見て、フレースヴェルグが看破する。思念の力だけで物体に干渉する能力だ。実体を持たないゴーストらしいと言える。

「イエースイエスイエス! 正解だ! 一発で見抜くとはおれっちビックリ。流石は〝全視〟と〝見知〟の特性を持つフレースヴェルグ様だ。〝全視〟と〝見知〟を合わせて〝全知〟。ヒヒヒヒ。凄いね。ヒヒヒヒ。伊達に世界樹の頂から世界を視てるわけじゃないよね!」

「!? ――ああ、なるほど。もう正体はバレてるわけか」

「お前さんたちだけだがね」

 フレースヴェルグは世界樹ユグドラシルの天辺から全てを見渡す全知者としての側面を持っている。故に〝全視〟と〝見知〟。文字通り、全てを『視』て全て『知』る特性だ。使うには多少なりとも魔力が消費されるため、本人の意志とは関係なく常時発動するパッシブスキルというわけではない。もしそうだったらフィンリルが食べていた『芋虫』を本物と勘違いしたりはしないだろう。

 骸骨顔を気持ち悪い笑みで歪ませるゴーストから目を逸らさず、フレースヴェルグは立ち上がったヴィーヴルに言う。

「ヴィーヴル、こいつはオレがやる。お前は先におっさんのとこ行ってろ」

「あ、そう? わかった。じゃあ頑張ってね」

「……お前な、味方を置き去りにするんだぞ? もうちょっと躊躇いとかないのかよ」

「一人じゃ勝てないわけ?」

「いいや。寧ろオレだから勝てる・・・・・・・・

「なら別にいいっしょ」

 ニッとはにかむヴィーヴルは、フレースヴェルグをそれなりに信用していることを言外に告げていた。

「ここじゃあいつが邪魔をする。適当に階段を下りたところで結界を破れ」

「あいよ」

 短い返事だけしてヴィーヴルは疾駆する。階段の前にはゴーストが立ちはだかっているが、それはもう眼中に入れず横を抜ける。

「ヒヒッ、行かせるかよ」

「ははっ、邪魔させるかよ」

 ザシュッ!

 ヴィーヴルを捕えるための念動力を放とうと翳したゴーストの右腕が、ローブの袖ごとスッパリ裂けた。

「――ッ!?」

 つーっと切れた自分の腕から赤い血が流れるのを見てゴーストは驚愕する。

「へえ、〝霊体〟っつっても血は出るんだな。まあ、お前も立派な幻獣だって話か」

「なにをした?」

「さあな」

 ゴーストが初めて警戒の色を表情に宿す。これまで自分は絶対無敵だとでも思っていたのかもしれない。

 睨み合って対峙するフレースヴェルグとゴースト。

 ヴィーヴルはとっくに階段を下りていた。


        ∞


 ガンディーニ・ファミリーの別荘――その最下層。

 ヴィンフリートの研究室。

 そこは広大なドーム状の空間だった。小高い丘の上に建っているガンディーニ・ファミリーの別荘だが、その丘の半分ほどを空洞にしたような広さだ。壁の一面には数々の機材が設置され、その周辺には何本ものコードが絡み合うようにのたうっている。別の壁には様々なパターンの魔法陣やルーン文字が描かれた紙が貼られ、奥にはちょっとした大型船も通れそうな水路が引かれていた。恐らく海まで続いているのだろう。

「魔科学と錬金術……ルーン魔術に、ほう、こっちは北欧神話に由来する魔法陣ばかり。なかなかすんごいものに挑戦してるねぇ」

「そっちはまだ未完成だがね」

「研究熱心な若人はおっさん嫌いじゃないよ」

「大魔術師にそう言ってもらえるとは光栄だ」

 辰久は特に拘束されることもなく自由に研究室内を見物していた。ヴィンフリート・ディ・グレゴリオは時折辰久でも感心するほどの魔術を極めようとしている。お尋ね者でなければ是非とも連盟にスカウトしておきたい人材だった。

「んで? おっさんに見せたいものってこれら? いやぁ、確かにお前さんは凄いけども、こんなの見せられてもおっさんに罪を帳消しにする権限はないよ?」

「不要だ。私の罪などそのうち消える」

 ヴィンフリートはこれまで数多くの一般人の組織に取り入り、魔術を使って栄えさせ、最終的に全てを喰らってきた。ほとんど裏社会の人間とはいえその過程で何人も殺しているし、契約した幻獣を使って違法なことも行っている。今のガンディーニ・ファミリーに巣を移してからは、数えきれないほどの堅気の人間を魔術で薬や違法カジノの道に落とした。

 故に連盟から指名手配を受けた男だ。

 辰久たち懲罰師が討たねばならない魔術師だ。

 優秀な部下と契約幻獣の一体に捕縛を任せてはいるが、ここで見つけてしまっては見逃すわけにはいかない。

「もうしばらく待ってもらおう。直に届く」

「さっき連絡してた相手? 俺たちを捕まえたからどうのこうの言ってたけど?」

「そうだと言っておこう。だがまあ、ただ待つだけも退屈だ。実技の前に少し話をしよう。聞く気はあるかい?」

「勿体つけるのはおっさん嫌いよ?」

 ヴィンフリートは満足そうに笑い、一泊置いてから口を開く。

「オスロ・フィヨルドの戦いは知っているかい?」

「ちょこっとだけなら」

 第二次世界大戦中にオスロ・フィヨルド内で勃発した戦闘のことだ。ドイツ軍が艦隊を率いて侵攻したものの、ノルウェー軍の激しい抵抗にあえなく敗北したと歴史では語られている。

「その戦いにはグレゴリオの一族も噛んでいたのだ。ドイツ軍が使用した艦隊の内、重巡洋艦ブリュッヒャー、ポケット戦艦リュッツォウ、軽巡洋艦エムデン、そして水雷艇アルバトロス。この四隻にはグレゴリオ一族の粋を結集した魔導具が組み込まれていた。魔術的な強化を施した軍艦は百戦錬磨の働きを見せるはずだったが、協定破りに感づいた連盟によって裏側から阻止され敗北。組み込んでいた魔導具は四つとも海底へ沈んだ。機能は停止せずにね」

「それをヴィンフリート青年が魔術で探知してサルベージしたと?」

「その通りだが、話は黙って聞いてもらいたいね」

「こりゃあ失敬失敬」

 どうやらその探知魔術の弊害として、魔力に対する抵抗力が低い子供や老人が海水浴に来て溺れてしまったようだ。

「その魔導具とはこれらのことだ」

 ヴィンフリートはローブの懐から三つの宝玉と思われる球体を取り出した。赤、黄、緑。それぞれの球体がそれぞれの色にぼんやりと輝いている。

 僅かな魔力――それもなにも混ざっていない純粋な属性魔力を放出している証左だ。

「自然界から対応する属性の元素を吸い上げ魔力に変換し貯蓄する。能力としてはそれだけだが、その容量も無限に増え続けるとなれば脅威をわかってもらえるだろう」

「……よからぬことにいくらでも使えそうだぁね」

 第二次世界大戦から何年、いや何十年が経過したことか。その間止まることなく魔力を蓄積させていたのだとしたら、あの球体一つに一体どれほどの力が秘められているのか計り知れない。

「我々はこの形状から〈魔宝玉〉と呼んでいる。個々の名はそれぞれが組み込まれた軍艦の名と同一だ。火のブリュッヒャー、地のリュッツォウ、風のエムデン、水のアルバトロスといった具合にね」

「水が足りないようだけど?」

「言ったはずだ。直に届く、と」

「それを待つ義務はないんだけど?」

「いいや、ここまで話した以上、そちらとしても見過ごせないはずだ。〈魔宝玉〉は四つ纏めて回収したいのだろう? 下手に暴れて届けている者が逃げ出しては苦労が増えることになる」

 見透かされている。確かに纏めて確保した方が楽だと辰久は考えた。しかし纏めて回収する苦労と分割して回収する苦労、実際どちらが大変かの天秤は結論を出していない。

 判断する前に、ヴィンフリートの研究内容、これから行うだろう魔術の内容を知らなければ。

「それでヴィンフリート青年、お前さんは〈魔宝玉〉を使ってなにをしでかすつもりだい?」

「〈魔宝玉〉を作った私の先祖は軍艦を強化することしか思いつかなかった。当時は蓄積させていた魔力的にもその程度しかできなかったからだ。だが今は違う」

 興が乗ってきたのだろう、ヴィンフリートは気分よさげに笑って両腕を広げ、


「秋幡辰久、〈終末の日ラグナロク〉を見たくはないか?」


「――ッ!?」

 ラグナロク――『神々の運命』を意味する言葉だ。神々が戦い、生物が滅び、そして新たな世界が誕生する。

 ヴィンフリートが北欧神話に由来する魔術の研究をしていたことを思い出す。神話通りの出来事が起こるとは思えないが、ヴィンフリートがやろうとしていることはおおよそわかった。

「新世界の神になる、なんて冗談言わないでしょ?」

「そこまでは私も望んでいない。魔術界の頂点にグレゴリオ一族の名を刻めれば満足だ。だが、そのためには一度世界の終わりを見せつける必要がある」

「……ぶっ飛び過ぎよその考え。こりゃ、今動くべきだと判断せざるを得ないね」

 意識を固定する。分割する苦労を受け入れる。魔力を段階的に高め、最も効率のよい術式で敵を仕留めるチャンスを窺う。

「まあ、当然そうなるだろう。悪かったな、秋幡辰久。実は貴様に〈終末の日〉を見せるつもりはないのだ。その前に、この私自らの手で大魔術師である貴様を葬る。その事実があれば『その後』を円滑に進められるだろう」

 ヴィンフリートも魔力を高める。辰久ほどではないにしろ、奴も相当な魔力を内に宿しているとわかる。

 二つの魔力が衝突し、見えない圧力で部屋全体が軋みを上げる。

 その時だった。


「ヴィンフリート!!」


 低いダミ声の絶叫が割り込んできた。

 研究室の端っこに目立たなく存在するエレベーターの扉が開き、丸々と太った髭面の男と二人の黒服が現れた。なにやらずいぶんとお怒りのようだ。初めて見る辰久としては敵か味方かそれ以外かを判断する必要がある。

「首領ダルダーノ。今いいところだったのだ。邪魔をしないでもらいたい」

 水を差されたことで不機嫌そうに眉を寄せるヴィンフリート。

「ええい! うるさい! 貴様どういうつもりだ!」

「どういうつもりとは?」

「貴様が地下牢に閉じ込めた者たちが脱走して暴れている! とんでもない被害だ! 早くなんとかしろ!」

「そうかやはり脱走したか。だがゴーストを配置してある。奴なら十全な時間稼ぎをしてくれるだろう」

「なにをぶつくさ言っている!」

「その脱走した片方はあんたが所望した緑髪の女だ。好きにすればいいだろう?」

「幻獣など抱けるか!」

 憤慨するダルダーノとかいう男は、ヴィンフリートが隠れ蓑に使っている組織のボスと言ったところか。そんなことよりもヴィーヴルたちが上手いことやっていることに辰久は安心した。

「私は今忙しいのだ。見てわかれ。来客中だぞ」

 ダルダーノがちらりと辰久を一瞥する。どうも、と挨拶するべきだろうか?

「そんなおっさんなど知るか!」

「おっさんにおっさん言われた!?」

 というかダルダーノは見た感じ辰久より年上だ。そんな人間から『おっさん』と言われれば心境は穏やかではいられない。それほど老けて見えるのだろうかと割と本気で心配する辰久だった。

「とにかく今すぐなんとかしろ! さもなければ貴様とて容赦はせんぞ!」

 チャキリ、と拳銃のハンマーが下ろされる音が三つ響く。

 ダルダーノと、その護衛と思われる部下たちがヴィンフリートに銃口を向けたのだ。

「……なるほど、そうくるか。つくづく愚かしい頭だよ、首領ダルダーノ」

 呆れたように肩を竦めるヴィンフリートだったが、次の瞬間に底冷えする冷酷さを切れ長の両眼に宿した。

「私としても、もはや貴様らに用はない。大人しく失せれば追うつもりはないぞ? だからさっさと消えろ豚ども!」

「な、ななななんだと貴様ぁ!? もう構わん! 殺せ! ぶっ殺せ!」


 ――パン! ――パン! ――パン!

  ――パン! ――パン! ――パン!

   ――パン! ――パン! ――パン!


 三つの拳銃が連続で火を吹く。

「フン、馬鹿者どもめ」

 呟き、ヴィンフリートは人差し指だけ立てた右手を翳した。その人差し指の先に紫色の複雑な魔法陣が展開させる。魔法陣は銃弾を全て受け止め――

 ――速度を倍にして跳ね返した。

「うぐっ」

 小さな呻き声。

 硝煙を吐き出す拳銃を構えていたダルダーノたちは、左胸から真っ赤な花を咲かせて崩れ落ちた。床に赤黒い液体が広がっていく。

 ほぼ即死だっただろう。

「普通の銃弾で魔術師を殺せると思ったのか? 墓は作らんぞ。手間だ」

 その言葉はダルダーノたちには届かない。当然、死体は返事などしない。

 代わりに、ヴィンフリートの頭上からとてつもない魔力の塊が降ってきた。

「――ッ!?」

 バックステップでヴィンフリートはかわす。今まで彼の立っていた場所には、光り輝く巨大な剣が深々と刺さっていた。

 秋幡辰久だ。

「不意を突いたと思ったけど、当たらないもんだねぇ」

 辰久の周囲には全く同じ光の剣が幾本も浮遊していた。一本一本が恐ろしい魔力量で構成されている。先程銃弾を跳ね返した魔法陣程度では盾にもならないだろう。

「すまないな、秋幡辰久。邪魔が入った」

「俺はあの人らのこと全く知らねえけど、なにも殺すこたぁなかったんじゃねえの?」

「生かす理由もない」

「オーケー。どうしようもない屑だ」

 光の剣が一斉に切っ先をヴィンフリートに向けて揃える。

「こんな奴に魔術界の頂点取らせるわけにゃいかんよね」

 瞬間、ヴィンフリートの足下から光の檻が出現した。あっと言う間もなく閉じ込められたヴィンフリートに向かって、全ての光の剣が同時に射出させる。

「クハッ! 素晴らしい! 光の物質生成魔術をこの速度で! これが大魔術師の力か!」

 ヴィンフリートは指先で空中に文字を描く。すると彼の前方に幾多の魔法陣が出現し、その中心から凄まじい轟音を立てて雷撃が迸った。

 雷撃は光の剣と激突し、相殺する。いくつもの爆発で生じた様々なベクトルを持つ衝撃波が研究室をめちゃくちゃに掻き乱す。

 続いて光の檻も大根のように細切れに斬断され、ヴィンフリートがローブをはためかせて飛び出した。

 そこに今度は無数の光の矢が放物線を描いて降り注ぐ。全部を相殺することなど不可能な物量だったが、ヴィンフリートは焦らない。

 光の矢の雨は、その全てを飲み込むほどの水に押し流されたからだ。

「遅いぞ、ガルグイユ。なにを遊んでいた」

 奥の水路を背にするようにして、軽装鎧の青年が立っていた。

「悪ぃ悪ぃ、ちょっとクラーケンで実験してたもんで」

 まったく悪びれる様子もなく、ガルグイユと呼ばれた青年はなにかをヴィンフリートに投げ寄越した。

 青色に輝く宝玉――〈魔法玉〉アルバトロスだ。

「そいつが例の運び屋? ガルグイユだなんて、なかなかどうして強力な幻獣を従えてんじゃないの」

 ヴィンフリートは予想以上に強かった。さらに敵も増え、状況的に見れば辰久は絶体絶命の大ピンチだ。

 それでも軽口を叩けるほどの余裕があるのは――上から迫る強大な魔力のおかげだった。


 轟ッ!!


 真っ赤な炎が天井を爆壊させて辰久とヴィンフリートの間に降り立った。

 炎が弾け、鮮やかな緑色の髪をした女性が姿を現す。

「私参上!」

 格好つけたつもりなのか牙を見せて凶笑する、幻獣ヴィーヴル。

「遅いよ、ヴィーヴルさんや。なにを遊んでたのよ?」

「遊んでねえし!?」


 二体一の構図は、その状態で戦闘が始まる前に二対二へと変移した。


        ∞


 オスロ・フィヨルドの海上を氷の塊に乗って漂うアルラウネは、目の前で繰り広げられた光景を信じられずにいた。

「そんな、フェンリルさん!」

 悲痛な叫びを上げるアルラウネの視線の先には、青い魔力の光を全身に纏ったクラーケンの少女と、その前で息を切らし傷だらけになって膝をつくフェンリルの姿があった。

 幻獣ガルグイユを名乗る青年が現れてから全てが変わった。

 二対一の戦いを強いられたわけじゃない。寧ろガルグイユは参戦しなかった。その代わり、クラーケンに妙な術を施したのだ。

 いや、術と言うべきだろうか?

 クラーケンが海底から拾ってきた青色の球体を使い、クラーケンの魔力を身の毛が弥立つほど増幅させた。たったそれだけだ。

 しかし、たったそれだけでも幻獣同士の戦いを左右するほど大きな影響力を与える。

「ニヒッ! すげえ、すげえなァオイ! なんだよこれ魔力が溢れて止まんねえよォ!」

 触手が伸びる。その速度は青色の球体を使う前の比ではない。以前はアルラウネでも目で追えた。けれど今は気づいた時にはフェンリルが薙ぎ飛ばされている。

 それでもアルラウネより遥かに強いフェンリルには見えていたし、避けることもできた。今だってフェンリルは傷ついた体とは思えない反応速度で横へ飛んだ。

 だが――

「ヒャッハァー!!」

 クラーケンが狂喜の叫びを発した途端、触手の先が部分的に膨れ上がった。巨大化は二倍や三倍などというレベルではなく、その一撃だけで小さな島なら地形を変えられてしまいそうな大きさと威力に達する。どこへ飛ぼうが避けられない。

「――ぐっ」

 空中へ打ち上げられたフェンリルから苦悶の呻き声が漏れる。彼女が押されている一番の理由は、恐らく戦場が海の上だからだ。

 戦場で足場を作るためにフェンリルは常に〝陽喰〟の特性を発動させている。もちろん魔力も消費するし、加減も調整しなければ上手く凍らせず海にダイブしてしまう。その集中力だって相当なものだ。

 海上での戦闘はフェンリルを著しく消耗させる。

 ならば――

「フェンリルさん! 近くの島まで一旦退きましょう! ここでは不利です!」

 アルラウネはクラーケンに聞かれようが構わず大声で提案した。ガルグイユはいない。彼はしばらく観戦してから青色の球体を持って立ち去ってしまった。

 だからクラーケンさえどうにかできればいいのだが、氷の上に着地したフェンリルは静かに首を横に振った。

「アルラ、それはできない。島に誰かいたら巻き込んでしまう」

「ですけど、このままじゃ……」

「問題ない」

「ごちゃごちゃくっちゃべってんじゃねェ!」

 クラーケンが触手で海面を叩いて大波を発生させる。アルラウネまで巻き込む規模だったが、飲み込まれる直前にどうにかフェンリルが波ごと凍結させた。

 その凍った波を砕き割った触手がフェンリルの体を打つ。ボキィ! とどこかの骨が折れる音をアルラウネは聞いた。

「フェンリルさん!?」

「ガフッ……問題ない」

 吐血する姿のどこが問題ないのか。

「オイオイオイ、さっきまでの勢いはどこ行ったんだァ? もっとアタシと遊ぼうぜフェンリルさんよォ! それともなにかァ? あっちのお仲間がいると気が散るってかァ? ニヒ、だったら――」

「ひっ」

 クラーケンの凶悪な眼がアルラウネを捉えた。

 触手が海上を這うように伸びる。

 だが速度はやや遅い。アルラウネを薙ぎ飛ばさず捕獲するためだろう。

 フェンリルの助けはとてもじゃないが間に合わない。

「㌫㌶㌍㌫㍊㍍㌻㌫㍊㌶㌍㍍㍊㍍!!」

〈致死の絶叫〉を放ってみたが、音波の衝撃ごときでは触手の侵攻を一ミリ秒も阻めなかった。

 触手がとぐろを巻くかのようにアルラウネに絡みつく。

 その寸前だった。

 ザバン! と。


 海が、割れた・・・


 比喩ではない。幅が何十メートルという規模で、オスロ・フィヨルドの両岸を繋ぐ海底の道が形成させたのだ。

 左右から海水が滝のように落ちていく。状況の理解が追いつかず「ひ~ん」と泣きながら流されていたアルラウネはフェンリルに回収されたが、

「はァ?」

 キョトンとするクラーケンだけは、丁度割れた海の中央にいた。つまり、海水による浮力がなくなり――

「なんだこりゃぁあああああああああああッ!?」

 重力に従い落下する。

「ななななんなんですかこれは海が割れましたよフェンリルさん!?」

「落ち着いて、アルラ。私は言ったぞ、問題ないと」

 フェンリルの視線に倣いアルラウネはクラーケンが落ちる先の海底を見る。

 そこには誰かが立っていた。

「選手交代の時間」

 フェンリルがそう言ってから、アルラウネはあれが誰なのか気づいた。


「フェンリル、アララちゃん、やっほ~♪ 助けに来たよ~♪」


 暗い海底から明るい笑顔を振り撒くのは、波打つ青い髪をした長身の水着美女――リヴァイアサンだった。

「なんだテメェはァ!?」

 落下しながらも全触手を真下に伸ばすクラーケンだが、リヴァイアサンは落ち着いた動作で右手を頭上に掲げる。

 滝となって落ちる周りの海水が不自然にその掌へと収束する。

 途方もない水エネルギーが凝縮され、

「アララちゃんをイジめていいのは~、ウチだけなんだから~」

 のんびりした口調と共に上空へ解き放たれた。

「ぶりゅばっ!?」

 間欠泉など生温い宇宙戦艦の主砲のような水柱にクラーケンは呆気なく呑み込まれ、遥か空の彼方へと突き上げられてしまった。


 幻獣リヴァイアサン。

 泳いだだけで海を割る〝不死〟の大海魔にして〝荒海〟の象徴たるドラゴン。

 ベヒモス、ジズと共に神が五日目に創造したとされる存在であり、七つの大罪では〝嫉妬〟を司る悪魔となっている。

 その〝堅硬〟な鱗と〝巨大〟さはいかなる武器も通用せず、荒ぶる水の力で全てを破壊する。その脅威はベヒモスが『最高生物』と呼ばれるのに対し、リヴァイアサンは『最強生物』と呼ばれるほどだ。


 クラーケンが落ちてくるよりも先に、割れていた海は一つへと統合された。今までの天変地異が嘘のように穏やかな波音を立て始める。

「り、リヴィさん助かりました! 本っっっ当に助かりました! あとわたしはアルラです!」

 海面から顔を出したリヴァイアサンに、フェンリルの背中に負ぶさったアルラウネが何度もお礼する。

「ふふふ~、お礼ならあとでぎゅっとさせてくれればそれでいいよ~。それと~、たぶんまだ終わってないかな~。妙な魔力の膜がダメージを軽減してたみたいだし~」

 そんな馬鹿なとアルラウネは思ったが、上空から聞き取りづらい声で「くっそがァ! テメェから先に片づけてやんぞコラァ!」と悪態が聞こえてきたため恐怖のあまり涙目になる。なんというしぶとさだろう。

「どうもタッつんたちも戦ってるみたいなんだよね~。あの子はウチが遊んであげるから~、二人はタッつんのとこに行ってあげて~」

「了解した」

 コクリと頷くフェンリル。

「フェンリル、アララちゃんをお願いね~。ウチの大事な非常食だし~」

「非常食!?」

「そちらも承知した」

「承知しないでくださいフェンリルさん!?」

 負ぶさったアルラウネがぎゃーぎゃー騒ぐも、フェンリルは構わず踵を返して駆け出した。

「――ってフェンリルさんやっぱり凄い怪我じゃないですか!」

「このくらい問題ない」

「問題あります! 移動しながらでいいですから治療しますよ! わたし、一応治癒術できますから!」

「む……」

 そんな遣り取りを見送り、リヴァイアサンは「んん~」と軽く伸びをしてから後ろを振り返る。

「さてと~」

 そこに触手の生えた白い少女が隕石のように落下して大きな水柱を立てた。


「クラーケンだっけ~? 今度はこのお姉さんと~、なにをして遊ぼっか~?」


 海を代表する怪物同士の戦いが始まる。


        ∞


「オレの種族が『死体を飲み込む者フレースヴェルグ』って呼ばれる理由は、神話の中じゃ明確な記述がないせいで謎らしい」

 腕を組んで仁王立ちするフレースヴェルグが語る。

「謎もなにも、そのまんまなのにな。〝死飲〟――オレはアンデットを喰えるし、〝不死〟だろうが〝霊体〟だろうがそいつが幻獣なら実態を掴んで有効打を与えられる。ま、なんでも喰っちまう〝貪欲〟みたいな特性には敵わないけどな」

 彼の眼前の床には切り刻まれたボロ雑巾、もとい、そんな風に見えてしまう幻獣ゴーストのなれの果てが突っ伏していた。

「……ヒヒ……ヒ」

 独特の笑い声が切れ切れに響く。ゴーストが息をするのかは知らないが、フレースヴェルグが起こした『アンデットを刻む風』により既に虫の息である。

「悪いが、トドメは刺すぜ」

 最後の一陣を放つためフレースヴェルグは手刀を構える。だが、それを振り下ろそうとした時、背後から複数人の気配を感じた。

「チッ」

 急遽トドメの風を中断し背後を振り向きながら突風を起こす。吹き飛んだのは黒服の男たち――意識を失っていたガンディーニ・ファミリーの構成員たちだった。

 普通の風で吹き飛んだのだから精神体ではない。

「こいつら、まさか……」

 風を受けていない者たちが覚束ない足取りでフレースヴェルグを取り囲もうとする。倒れた者たちもムクリムクリと起き上がった。

「操られているのか?」

〝見知〟の特性が構成員たちの状態を見抜く。ゾンビのように這う彼らは、意識を失ったまま体だけ乗っ取られている様子だ。

 誰に?

 ゴーストに決まっている。

「ヒヒッ、そいつらは普通の人間だ。お前に殺せるかな?」

「普通っつってもマフィアだろうがよ」

 だからと言って殺していいならフレースヴェルグはとっくにやっている。だが、そうしてしまうと罰を受けるのは自分自身だということも理解している。

 こっちの世界にはこっちの世界のルールがある。

 好きでそこに身を置いているフレースヴェルグに、ルールを破るつもりはない。

「下衆いやり方しやがる」

「おれっちにとっちゃ最ッ高の褒め言葉だ! もっと言ってもいいんだぞ」

 わらわらと群がってくる生きゾンビとなった構成員たちにフレースヴェルグは腕を、足を、腰を押さえつけられた。さらに顔面をゴーストの放った念動力の衝撃が強打する。尋常ならざる力を発揮する生きゾンビたちが支えとなり、このままではなにもできないサンドバッグだ。

 念動力の衝撃に一瞬くらりとなったが、フレースヴェルグは口元をニヤリと歪めた。

「でもな、お前馬鹿だろ?」

「なに?」

「この人間どもに手も足も出しちゃなんねえってんなら、オレもヴィーヴルも最初っから大人しく捕まってるよ。もしくは振り切って逃げてる。なのに、なんでこいつら気を失ってた?」

「いやいや、そりゃお前らが殴ったり蹴ったり容赦なく……………………あー」

「そうだ、別にこいつらオレらにとって大事な人質じゃねえんだ。殺さなきゃいいだけってことなら――」

 ビュオッ! フレースヴェルグを抑えていた生きゾンビたちが不自然に発生した風に引き剥がされ、そのまま流れる空気の牢獄に囚われる。

「――オレは手加減できる子だからよ」

「ちょ!?」

 フレースヴェルグが床を蹴る。一鼓動の内にゴーストとの距離を詰め、その首に風の刃を纏った手刀をあてる。

 驚愕に目を見開くゴーストに命乞いをする暇は与えない。

 フレースヴェルグの〝死飲〟がゴーストの〝霊体〟を打ち消す。

「――あばよ」

 音もなく切り飛ばされた首は、血が噴き出る前に光の粒子となって霧散した。


        ∞


 とてつもない熱量と水量が激しく衝突する。

 爆発する水蒸気が研究室の機材を吹き飛ばす。

 湯気吹き荒れる蒸し暑い大気の中を四つの影が飛び回る。

「燃えろ亀野郎!」

「そりゃごめんだね蛇女」

 ヴィーヴルが振るった炎そのものの拳をガルグイユが身の丈以上もある大楯で受け止めた。拡散した炎は指向性を持って大楯を回り込むが、ガルグイユの足下から吹き上がった水柱に呑まれ消火された。

 水龍のように自在にうねる水柱に乗って上昇するガルグイユを、ヴィーヴルは腕に生えた翼を羽ばたかせて追撃する。

 それを見たガルグイユが掌から水の弾丸を放つ。ヴィーヴルは見事なアクロバット飛行でそれを回避し、〝炎体〟の特性で炎と化した片翼を振るう。

「はっ、よく燃える蛇だ!」

 口を大きく広げたガルグイユは水流のブレスを放射。辰久の光の矢を纏めて押し流したあの激流である。

「チッ! 燃えてんじゃないよ! なってんだ炎に!」

 ヴィーヴルは自分の体である炎翼を消されるわけにはいかず、反転して水流を回避。壁に衝突した水流はそこに大穴を穿いて風通しをよくした。

 穴から見えた外はまだ暗い。朝明けまでもうしばらくかかるだろう。

「なんて威力だよ。でも、あんなの大技過ぎてあたる気がしないわ!」

「そうかい。なら――」

 水の柱に乗ったガルグイユがヴィーヴルに急接近。楯を構えた突進をヴィーヴルも真正面から炎の拳で迎え撃つ。大型トラックに撥ねられたような衝撃だったがヴィーヴルは吹っ飛ばない。楯と炎拳が競り合い周囲の気温が著しく上昇する。ガルグイユの乗っていた水柱が沸騰するまで数秒だった。

「そのまま茹で亀になっちまえ!」

「こんなぬるま湯じゃなんねえよ!」

 ガルグイユは楯を持ってない方の手で腰に提げていた酒瓶を取る。戦闘中にも関わらずそれを口へと持っていきラッパ飲みし――

「大技があたんねえなら、あてればいいだろ」

「――やばッ!?」

 ガルグイユの口元に大量の魔力が収束する。この距離でアレを撃たれたら流石にかわせるかわからない。

 と――ズゥン!

 ガルグイユは水流を吐き出す寸前、上空から殴りつけられたように急落下した。床に叩きつけられて巨大なクレーターを形成する。

「ヴィーヴルさんや、ガルグイユの特性は〝水蓄〟だぁよ。水の魔力をいくらでも体内に貯蓄できる。あの酒瓶もたぶん普通じゃない。中が海にでも繋がってる魔導具かなんかかな。とにかく飲ませないように気をつけなさい」

 下からのアドバイス。秋幡辰久が重力系の魔術でガルグイユを打ち落としたらしい。

「サンキュ、ボス」

 ヴィーヴルは頭上に小太陽を生成して追撃する。特大の火炎球は床にぶつかった瞬間に大爆発を起こして辺り一面を火の海に変えた。

 その火の海を物ともせずに、二人の魔術師が交差する。

 ルーンの術式を体に刻んだ肉体強化術で高速移動するヴィンフリートは、右手にどこからか取り出した両刃長剣を握り、四つの〈魔宝玉〉とやらを自分の周囲に浮かべていた。〈魔宝玉〉から各属性の強力な防御結界が展開されており、四重に張られたそれらが人外魔境と化した研究室内から彼の肉体を守っている。

 一方辰久も自分の周囲に魔術障壁を張り巡らせて炎の中を駆け回り、ヴィンフリートが繰り出す魔力を乗せた剣撃を異空間に仕舞っておいた『大魔術師の杖』で捌く。

 連盟に数人しかいない大魔術師が振るっても壊れない特別製の魔法杖だ。正直そんな補助道具などなくても魔術を使う分には苦労しないのだが、相手が武器持って接近戦を仕掛けてきた以上は使わざるを得ない。ヴィンフリートのような達人級の術者ならば尚更だ。

 だがやはり、年季が違う。彼がいくら達人だろうと、魔術による戦闘経験は十代の頃から懲罰師だった辰久には到底敵わない。あらゆる攻撃は軽くあしらわれていた。

「若いもんにはおっさんもまだまだ負けられないね」

 一度は言ってみたかった台詞だった。

「ならばこの私が早めに引退させてやろう」

 ヴィンフリートは剣を辰久に打ち込みつつ、その合間に床や壁に術式を刻んでいた。それらが緑色の光を放ったかと思うと、ダムが決壊したように半透明の液体が溢れ返った。

 じゅううううっ。

 水が一瞬で蒸発したような音を立てて煙が噴き上がった。周囲の炎で液体が気化したのではない。液体は炎を鎮火してなお溢れ続けている。

 室内の高台からヴィンフリートの哄笑が響く。

「こいつは魔術障壁をも溶かす酸だ。秋幡辰久、貴様はどう対処する?」

「う~ん、そうだねぇ。とりあえず、飛ぶ?」

 ふわり。

 辰久の体が空中に浮き上がった。その数秒後に酸の洪水で床全体が浸水する。

「ははっ、あのマヌケ! 自分の契約幻獣を溶かしたよ!」

 床と天井の中間付近を飛んでいるヴィーヴルが嘲笑した。そうだったらずいぶんと楽になるのだが、ヴィンフリートほどの術者がその辺りを考慮していないわけがない。

「やれ、ガルグイユ」

 ヴィンフリートの一言で床の中央に巨大な渦が発生した。栓でも引っこ抜いたかのようにみるみる酸の海がどこかに吸い込まれていく。

 そのどこかとは――幻獣ガルグイユの腹の中だ。

〝水蓄〟の特性は液体ならなんだって飲める。そういうことらしい。

「うえぇ……マズいもん飲ませないでくれよ、マスター」

「ならばさっさと吐き出せ」

「おっけ、そうするぜ」

 じゅっ。

 ガルグイユが吐き出した酸の水流放射はヴィーヴルが穿った天井の穴を押し広げるようにして溶かし、貫通した。丘の上まで地下何階分あったのかわからないが、十は余裕で超えていたと思う。

 上にいたマフィアの構成員たちはどうなったのか?

 それを考えている余裕は、恐らくない。

「おいマスター、そろそろ〈魔宝玉〉を使ってくれ。そのために俺はあんたと契約したんだぜ?」

「……仕方のない奴め。来い」

 酸の後味が悪かったのか、ガルグイユはノロノロとヴィンフリートの下へ歩み寄る。

「ボス! あいつらなんかヤバいことするっぽいよ!」

「〈魔宝玉〉ってやつの基本的な使い方――対象物の強化だろうね。確かに厄介そうだ」

 空中に浮遊するヴィーヴルと辰久が妨害行為に入ろうとしたその時だった。


「あっぶねえ!? なんだったんだ今のは!? なんかいろんなもんが溶けたぞ!?」


 天井の穴から鷲の翼を羽ばたかせて、驚き顔の青年が下りてきた。上の階でゴーストを撃破したフレースヴェルグだ。

「あー……………………フレス、無事だった?」

「ヴィーヴル、お前オレのこと絶対忘れてただろ?」

「信じてたよ?」

「白々しく親指立てんな疑問形になってんぞ!?」

 いい加減な調子のヴィーヴルに全力でツッコミを入れるフレースヴェルグ。彼は特に目立った怪我はなく、戦力として充分に期待できるだろう。

 そして現れたのはフレースヴェルグだけではなかった。

 

「あわわ、なんか凄いことになってます!」

「主、助太刀に参上しました」


 壁に開いた大穴の縁に二人の少女が立っていた。

 フェンリルとアルラウネだ。

「おお、お二人さんも無事でよかった。おっさん心配してたのよ?」

 と言っても本当のところ無事ではなさそうだ。ほとんど無傷のフレースヴェルグとは違い、傷だらけのフェンリルはそれなりに消耗していると見てわかる。アルラウネが治療したのだろうが、満足に戦闘を行えるのかどうかは辰久でも判断に困った。

「私ならまだ戦えます」

 その困惑を読んだのか、フェンリルが質問される前に答えた。

「そう? なら戦力にカウントするよ? アルラは?」

「わ、わたしは戦うなんて無理です死んじゃいます! ここで応援してます!」

「だよねー」

 ぶんぶんと捥げてしまいそうな勢いで首を横に振るアルラウネに辰久は苦笑した。元々彼女は戦闘員として契約したわけではないのだから、戦場に送り込むわけにはいかない。

 リヴァイアサン以外の全員が戦場――ヴィンフリートの研究室に集結した。

 あとは魔術師の犯罪者とその契約幻獣をみんなでフクロにすればよかったのだが、三人が駆けつけたタイミングは少々、いや、かなりよろしくなかった。


「フハハハハハハハハハッ!! 来た来た来たぁああああああああああああっ!! すげえぞ! 俺の望んだ以上だ! クラーケンも同じこと言ってたが、魔力が溢れてなくなる気がしねえ!」


 ガルグイユの強化が完了し、本来の姿――プレシオサウルスに亀の甲羅を装備させたような巨大龍がそこに君臨してしまった。


        ∞


 ガルグイユの一撃でほとんど原型を失ってしまった別荘の上空に、一頭の牡馬が佇んでいた。まるでそこに見えない地面でもあるかのように、灰色の毛並をした馬は力強く空間を踏み締めている。

 馬の背には二人の女性が跨っていた。

「……本当に、一時間ほどで到着してしまうなんて」

「どうした、顔が青いぞ?」

 手綱を握っている方の女性が心配げに問いかける。

「このグラーネはスレイプニルの血を引く駿馬だ。人間には少々厳しかっただろうか? だが辰久殿はジェットコースターにでも乗ったように楽しんでいたが」

「あの人と一緒にしないでください! なんかいろいろと異常な人なんですから!」

「……本人が聞いたら泣きそうだな」

 手綱を握っている方の女性のフードの中から苦笑が漏れる。

「まあ、その本人はどうやらこの下にいるようだが」

「あ、やっぱりこの魔力ってそうなんですね。休暇だ休暇だって浮かれていましたけど、きちんと仕事しているようで安心しました」

 ホッと胸を撫で下ろす後ろの女性。手綱を握っている方の女性は苦笑をやめ、少々まじめな声になって訊く。

「副官殿、どうする? あの魔術師は我々が追っていた者だが、このまま任せてしまうか?」

「いえ、自分たちに与えられた仕事を勝手に放棄するわけにはいきません。少し様子を見てから加勢しましょう。敵と思われる者の魔力は信じられないくらい強大ですが、あなたがタイミングよく加われば討伐までそれほど時間はかからないかと」

「買い被り過ぎだ」

「そうでもないでしょう、ヒルデさん、いえ――」

 夜風が吹き、手綱を握っている方の女性のフードが取れる。夜空に浮かぶ月が二つになったかのような、輝かんばかりの鮮やかで細い金髪が躍った。


「ヴァルキリー・ブリュンヒルデさん」


        ∞


「――狭いな」

 甲羅を背負った首長龍がぽつりと呟いた瞬間、大量の水が爆発的に溢れてヴィンフリートの研究室を吹き飛ばした。ガンディーニ・ファミリーの別荘が立っていた丘が綺麗に崩れ去り、島の形が僅かに変わる。

「派手にやっちゃってまあ……マフィアの人たちは無事なんかね?」

「ああ、おっさん、それならオレが纏めて風で島の反対側に運んでおいたよ」

「それよりリヴィだけいないんだけど?」

「遠くでクラーケンと戦闘中だ。……アルラ、大丈夫か?」

「きゅう……」

 辰久たちは生き埋めになどなることもなく崩れた丘の上に立っていた。フェンリルに担がれたアルラウネだけが急な崩壊に目を回している。

「う~ん、なんだか前にもこんな研究所の爆発に巻き込まれた覚えがあるなぁ。デジャビュってやつ?」

「今回は雪崩なんて起きないから安心しなよ、ボス」

「やめて! 思い出させないで!」

 いつぞやに全裸で雪山を駆け下りたけれど結局雪崩に呑まれてしまった事件を思い出しかけて、辰久は記憶のフラッシュバックを緊急停止させる。あの事件の後だ。人間にとっては超高度な浮遊魔術を必死に習得したのは(人は魔法少女みたいに簡単には飛べない。今だって『大魔術師の杖』がないと制御できないのだ)。

「んなことどうでもいいよ、おっさん。あいつどうすんだ? 放っといたらやべえだろ?」

 フレースヴェルグが前方の海を睨む。そこに浮かぶ幻獣本来の姿となったガルグイユが、海水を飲んでいた。

 水嵩が驚くべき速度で減っていく。いくら〝水蓄〟の特性だろうと限界はあるはずだが、魔力強化されたガルグイユを見ていると無尽蔵ではないかとさえ思えてしまう。

「さあガルグイユよ、好きなだけ暴れるがいい! 研究室の崩壊で秋幡辰久がくたばるとは思えんが、探すのも億劫だ。生きていれば向こうから現れるだろう。私はこれより〈終末の日〉の術式に入る。夜明けと共に今の世界を終わらせよう!」

 ガルグイユの甲羅の上でヴィンフリートが声を大にして宣告するように叫んでいた。悪役が板につき過ぎて笑えてくるが、状況は決して笑えない。

「海が干上がるのも、世界が滅ぶのもさせちゃいかんよね」

 辰久は契約幻獣たちを見回す。一人足りないが、全員が無言で頷いた。

 幸いなことに、向こうは辰久たちに気づいていない。

 仕掛けるなら、今だ。

「そんじゃ、一気に畳みかけますか」

「おう!」「あいよ!」「了解しました」「皆さん頑張ってください!」

 四者四様の返事をし、戦えないアルラウネだけを残して散開した。


        ∞


 まず仕掛けたのは飛行組――ヴィーヴルとフレースヴェルグだった。

「ド派手に燃えろッ!」

「飲み過ぎは体によくないぜ!」

 特大の火炎球が無数に降り注ぎ、幾本も発生した竜巻が海水を巻き上げる。

「秋幡辰久の契約幻獣どもか! ガルグイユ!」

 ヴィンフリートの指示でガルグイユがヒレを持ち上げ水面を叩く。それだけで巨大な水柱が立ち昇りし、炎と竜巻を全て同時に吹き消した。

 だが次の瞬間には水柱ごと海面が凍りつく。

 フェンリルだ。

 目にも留まらぬ瞬足で氷上を駆け抜けた彼女は、海中に頭を突っ込んだガルグイユの首に飛び蹴りを打ち込む。硬い鱗に覆われたガルグイユだったが、苦しげな唸りを上げて頭を持ち上げた。

「はっ!」

 鎌首をもたげるガルグイユの顎をフェンリルは下から蹴り上げる。反撃で吐き出された水流を巧みにかわし、溜めていた熱エネルギーを灼熱の蒼炎に変換し一息に放射する。

 が――

「そんな炎で俺を焼けるか!」

 ガルグイユの水のブレスは、フェンリルの炎など物ともしなかった。呑み込み、消し去り、それでも威力を減らさずフェンリルに迫る。横に飛んでかわす。

「邪魔なハエどもだ」

 ヴィンフリートの声。紫に光る魔法陣が空中にいくつも出現して雷撃が放たれる。ヴィーヴル、フレースヴェルグ、フェンリルの三体は回避行動に移るも、雷撃にはホーミング性があるらしくどこまでも追っていく。

「あーもう! 面倒臭い術だね!」

 ヴィーヴルが炎を放って相殺。それに倣ってフレースヴェルグとフェンリルも回避を諦めてそれぞれの技をぶつけた。

「貴様らに用はない! 秋幡辰久を出せ!」

「呼んだ?」

 声は同じ甲羅の上から聞こえた。

「なっ!?」

 いつの間に、という表情であんぐりと口を開けるヴィンフリート。

「俺はこれでも筆頭懲罰師よ? 懲罰対象に逃げられないために、気配を消す術はけっこう努力してんの」

 そう言って辰久は杖を振るう。生成された二本の光の短剣が射出し、ヴィンフリートの両足を甲羅に縫いつけた。

「ぐあっ!?」

「ガルグイユを倒すよりお前さんを先に黙らせた方が楽だとおっさんは思ったわけよ」

 この間にも辰久の契約幻獣たちはガルグイユへの攻撃を止めていない。甲羅上にいる辰久すら巻き込んでもまあ大丈夫か、とでも言うように遠慮なく炎や風、氷を放ち続けている。

 それらをたった一体で迎撃してみせるガルグイユは大概だが、流石に甲羅の上までは手が回らないようだ。

「私を先に倒した方が楽? クハッ! 確かにそうかもしれんが、残念ながらもはや私を倒しただけでは〈終末の日〉は止められん! 既に術式の基盤は構築されているのだ! 見ろ!」

 ヴィンフリートが上空を指す。古典的な不意打ちかと警戒しつつ辰久は顔を上げ――

「――ッ!?」

 絶句した。


 夜空全体を覆うように、暁色の複雑な魔法陣が展開されつつあったのだ。


「……うそん」

 数秒経ってようやくそれだけ呟けた。これほどの規模の術式は世界中の大魔術師を掻き集めたとしても作れはすまい。当然、ヴィンフリートだけの魔力で成し遂げることなど不可能だ。

 四つの〈魔宝玉〉――何十年も魔力を貯蓄させたそれらが自動で術式を組み上げている。

 ガルグイユの強化などウォーミングアップですらない。

 やはりこちらが本命だ。

「言っておくが、〈魔宝玉〉は私の手元にはない。だが今から探せば完成を阻止することも可能だろう。無論、させないがな」

 ヴィンフリートがその場で長剣を真横に薙ぐ。するとガルグイユを中心に巨大な魔法陣が出現し、辰久だけを残して転移した。

 転移先は目の前だ。僅か数百メートルしか移動していない。

 だが。

 それでも。


「終わらせてやろう、秋幡辰久。やれガルグイユ、その目に映る全てを押し流せ!」


 ガルグイユが溜めに溜め込んだ海水を吐き出すことは、止めようのない距離だった。

「俺が全力で障壁を張る! みんなは少しでも水流の威力を削ってくれ!」

 辰久の指示に、幻獣たちは返事をする暇も惜しむようにそれぞれの攻撃を放つ。

 多少は削れている。

 けれど、ほとんど意味がない。砂漠の砂をコップで運び出すような程度だった。

 辰久の張った障壁と水流が激突する。

 保ったのは、一瞬。

 障壁は呆気なく打ち砕かれ、全てを飲み込む水の奔流が襲来する。

 その時だった。


 空から金色が降ってきたのは。


 正体は夜風に靡く輝かしい金髪をした女性だった。左右の手に金色の両刃大剣を握り、左腕にはバックラー、肩を露出させた白いドレスの上から連盟支給のローブをマントのように羽織っている。

「はぁあああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 気合い二閃。

 強烈に輝く二本の大剣から放たれた斬光が迫る巨大水流を三枚に分断する。進むベクトルを強制的に曲げられた水流は、明後日の方向に飛んで海面に着弾した。

「ヒルデ!? どうしてここに!?」

 ヴィーヴルが驚きの声を上げるが、ヒルデと呼ばれた女性――ヴァルキリー・ブリュンヒルデは厳しい目つきで怒鳴る。

「話は後だ、ヴィーヴル殿! 先に敵を片づける!」

 ヴァルキリー。別の読み方をワルキューレ。

 戦場に置いて死を選定し、勝敗を決する女性の半神である。主神オーディンの命を受け、戦死した勇士をヴァルハラへと導く存在で、その人数は伝承によって様々だ。八人だったり、九人だったり、十二人だったり。それぞれ特徴は異なるものの、一人一人が共通して戦の勝敗を左右するほど強大な力を持っている。

 そしてその中の一人、〝勝利のルーンに通じる者〟ブリュンヒルデは、再び大剣を振るって水流を裂いた斬光を飛ばした。それは寸分違わずまっすぐにガルグイユに向かって疾り、その頑強な甲羅ごと四本のヒレを楽々と斬り裂いた。

「ぐぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」

 絶叫。

 激しく暴れもがくガルグイユ。その背中からヴィンフリートが放り出されるのが見えた。

「辰久殿、トドメを」

 ブリュンヒルデが振り返って言う。

「大丈夫大丈夫、さっき甲羅に乗った時にマーキングは済ませてあんのよ」

 辰久は一歩前に出て杖を構えた。

「ガルグイユって幻獣はフランスの伝承だと最終的に焼き殺されてんのよね。ヴィーヴルの炎は堪えてたけど、どうしようもない火力をぶつけりゃ灰になるしかない」

 十字を切るように杖を振るう。次の瞬間、ガルグイユを中心に五つの赤い魔法陣が広がった。一番巨大な陣と、その四方に位置する小さな陣の五つだ。

 まずは四つの小陣から火柱が噴き上がった。それだけで数百メートル離れた辰久たちにも熱が伝わってくる。

 そして――

 中央の魔法陣からも、火山の噴火を彷彿させる灼炎が渦巻きながら天を衝いた。


「うぐぉおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?」


 響き渡る断末魔。

「俺が使える炎熱系最大の魔術――〈地獄の焼炉ヘルファーナス〉は、ちょっと熱いじゃあ済まないよ」

 辰久は憐れむような目で炎を見詰め、杖を下ろす。

 ガルグイユの巨体は、死にもの狂いで暴れていたが、やがて包まれた炎の中で塵も残さず消え失せた。


        ∞


 あの焦熱の中、なんとヴィンフリートは生きていた。

「お前さんもしぶといねえ」

 海面を漂っていたところを引き上げて今は適当な縄で拘束している。常人ならバターになっていただろうに、結界でどうにか熱を凌いでいたようだ。

「……勝ったつもりか、秋幡辰久?」

「勝ってんでしょ?」

 憔悴し切った姿でなにを言い出すかと思えば、どこかで頭でも打ったのだろうか?

「言ったはずだ。私を倒しても〈終末の日〉は止められない。あの夜空に展開した術式は夜明けと同時に発動するぞ。そうなれば、世界は暁の色で染まり大勢の生物が死に絶える」

「どこにそんな術式があんのよ?」

「はぁ? なにを馬鹿なことを! よく見ろ! いやよく見なくともわかるはずだ! ちゃんと夜空に術式が描かれて………………………………いない?」

 ポカンとした表情のヴィンフリートは、月と星以外見えない夜空を凝視したまま固まった。

 否、月と星以外見えない、というのは誤りだ。

 正確にはもう一つ、灰色の毛並をした馬が空中を駆け下りている姿も見えた。

「上空に展開していた術式の核は全て回収しました」

 灰色の馬が地面に蹄をつけたところで、その背に跨ったローブの女性が四つの〈魔宝玉〉を皆に見せる。

 辰久の副官をしている彼女は、ブリュンヒルデが地上に飛び降りてしまった後に灰色の馬――グラーネの手綱を握り、夜空を駆け巡って〈魔宝玉〉を集めていたのだった。

 ヴィンフリートの企みも〈魔宝玉〉の存在も知らない彼女たちだったが、状況を見極めて自分たちがどう動くかを正しく判断した結果――世界は救われた。

「副官さん、凄いです! 救世主さんなのです!」

「え?」

 嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねるアルラウネに、副官の女魔術師は自分の偉業を理解できずキョトンとする。とんでもない広範囲術式だったが、世界を滅ぼすとまでは思っていなかったのだろう。

「これは、今度から救世主様と呼ばないとね」

 ヴィーヴルがニヤニヤしながらからかう。

「なんだかよくわかりませんけど、また私がきちんと名前で呼んでもらえる日が遠くなった気がします。いいですか、私の名前は」

「そんなことより副官さんって乗馬できたんだな」

「そんなこと!? フレースヴェルグさん、私の名前がそんなこととはどういうことですか!?」

「まあまあ、いいじゃんか名前くらい。減るもんじゃないっしょ?」

「減るどころかなくなってますよ!?」

 断固抗議する女魔術師に、ヴィーヴルとフレースヴェルグはケラケラ笑っていた。とっても性質が悪い二人である。

「……馬鹿な。この私の術式が……長年の研究が……」

 向こうの遣り取りを余所に放心するヴィンフリートへ、辰久は憐れみを込めた言葉を投げる。

「悪いこと考えるからこうなんのよ」

「そうです! 悪いことは実らないのです!」

 ちゃっかりアルラウネが便乗する。

「幻獣アルラウネ……わからんな、秋幡辰久。貴様ほどの魔術師が、なぜこのような雑魚と契約を交わしている?」

「雑魚……うぅ、否定できません」

 ショックで涙ぐむアルラウネの頭を辰久はくしゃくしゃと撫でた。

「わかってないねぇ。おっさんがアルラと契約したのは、戦闘力の問題じゃないんよ」

「辰久さん! そうですよね! わたし、戦えなくてもちゃんと役に立って――」

「可愛いからに決まってんでしょうが!」

「そんな理由でしたかっ!?」

 一瞬感激しかけたアルラウネは、もう走って逃げ出したい気持ちで一杯になりそうだった。

「ハハ、大魔術師の余裕か? 見せつけてくれるな」

「いやぁ、アルラは役に立つよ? 主に懲罰対象をひっ捕らえた後にね。ほーらアルラ、そんなおっさんから一歩ずつ引いて行かずにこっちおいで」

 手招きで呼ばれ、アルラウネはしぶしぶ辰久の隣に戻る。

「じゃ、いつも通りお願いよ」

「あ、わかりました」

「? なにをする気だ?」

 状況を理解できないヴィンフリート、全てを理解した顔のアルラウネ、そんな二人から距離を置く辰久。

 準備は整える必要すらない。

「㌫㌶㌍㌫㍊㍍㌻㌫㍊㌶㌍㍍㍊㍍!!」

 アルラウネの一声だけで、ヴィンフリートは白目を剥いて地面に突っ伏した。

「これでよろしかったでしょうか、辰久さん?」

「おう、オッケーよ。帰ったら気絶しない程度にもうちょい出力を抑えて一緒にいろいろ聞き出そうね」

「はい! やっぱりわたし、役に立ってますよね!」

「もちろんさ!」

 やり遂げた無垢な笑顔を見せるアルラウネに、辰久は「グッジョブ」とサムズアップするのだった。

「やっぱ、アルラが一番無邪気にえげつねえよ」

「フレス殿に同感だな」

 表情を引き攣らせるフレースヴェルグに、腕を組んで見守っていたブリュンヒルデが同意して頷いた。

「主、リヴィが戻ってきました」

 海の彼方を眺めていたフェンリルが報告する。見ると、青いビキニ姿の美女が白いビキニ姿の少女を引きずるようにして泳いでいた。

「みんなただいま~。お土産持って来たよ~」

 リヴァイアサンによって陸に引き上げられたお土産――もといクラーケンの少女は、完全な人化状態で大変怯えていた。彼女は水着で雪山に放り捨てられたかのようにガクブルと震え、


「悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い悪魔恐い」


 自分を抱き締め、呪われたように同じ言葉を繰り返し呟いている。

「……リヴィさんや、この娘に一体なにをしたんだい? おっさんもビックリなほど恐がってる様子だけど?」

「さぁ~? 最初はプロレスごっこして~、次にかくれんぼして~、最後は鬼ごっこして遊んでただけだよ~?」

「……」

「……」

「……」

 おかしい、ほのぼのとした子供の遊びが、どうしてこれほど殺伐として聞こえるのだろうか?

 聞かなかったことにしよう。辰久はそう決めた。

「えっと、この娘は……クラーケンだったっけ?」

「はい。その男の契約幻獣です」

 フェンリルが指差したのは、当然のように気絶したヴィンフリートだった。

「クラーケンのお嬢さんや」

 辰久は腰を屈めてクラーケンと視線の高さを合わせた。

「ひぃ!?」

 ビクリと肩を跳ねさせたクラーケンは頭を抱えて蹲る。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいもう悪いことしません許してくださいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいィ!!」

「……フェンリルとアルラから聞いた話だと、もっと好戦的なように思えたけど……」

 そこにいるのは、恐怖に怯える女の子にしか見えなかった。どうしたものかと辰久が困惑していると、歩み寄ってきたブリュンヒルデがクラーケンの首筋に大剣の刃を添えた。

「辰久殿、これは敵の幻獣だ。適切な処分を」

 ブリュンヒルデは無情にも言い放つ。

「あいわかった」

 パン! と手を叩いて辰久は立ち上がる。クラーケンは一層怯えたようすで黒い瞳を揺らし、自分を見下ろす辰久を見上げた。

 秋幡辰久が、連盟の筆頭懲罰師が、敵として大暴れした幻獣に処分を下す。


「クラーケンのお嬢さん、おっさんと契約しない?」


 ……。

 …………。

 ………………。

「「「「はいいいいッ!?」」」」

 声を揃えて驚愕したのは、ヴィーヴル、フレースヴェルグ、アルラウネ、副官の女魔術師の四人だった。

「やっぱり~、タッつんならそうすると思ったよ~」

「主の決定であれば、私はそれに従おう」

「ふふっ、辰久殿らしい決断だ」

 リヴァイアサン、フェンリル、剣を抜いていたブリュンヒルデの三人はこうなることを予想していたとばかりに冷静だった。ブリュンヒルデは剣を引く。

「待て待て待ておっさん!? それ敵なんだよな!?」

「なに考えてんのさボス!? 頭のネジ外れたんなら私探すからその決断はちょっと待った!?」

「そうですよ辰久さん!? 今はなんか可哀想に見えますけど危険な幻獣なんですよ!?」

「主任、考え直してください!?」

 反対派が辰久に群がる。辰久は面倒臭そうに顔を顰め、

「敵だからダメと?」

 うんうんと四人が一斉に何度も頷く。

「じゃあ、ヒルデ以外全員が元討伐対象だったことは棚上げ?」

「「「「……………………」」」」

 四人とも一瞬で沈黙した。ヴィーヴルも、フレースヴェルグも、リヴァイアサンも、フェンリルも、アルラウネさえも、最初は連盟に討伐要請のあった幻獣たちだったのだ。アルラウネ以外はあの事件前の話であるため、蓋を開けてみれば好きでこの世界に渡って人間社会を謳歌していた者たちばかり。実害はほとんど皆無だった。

「それにほら、昔からよく言うでしょうよ」

「な、なにさ?」

 日本の諺でも持ち出してくるのだろうかと訊き返すヴィーヴルに、辰久は大変ウザいことにサムズアップとウインクをして口を開いた。

「『可愛い子は、持ち帰ろう』」

「お巡りさんこいつです!?」

「ごめん間違えた。『昨日の敵は今日の友』だった」

「遅ぇーよ!? 本音聞いちゃったよ!?」

 その後、ヴィーヴルを筆頭に反対派女性陣から袋叩きに遭う辰久だった。

 そんな彼らの様子をキョトリと眺めていたクラーケンは、連盟本部に帰ってから正式に契約を結ぶこととなった。今回のバカンスに来なかった他の契約幻獣たちとも一波乱あったらしいが、それはまた別の話。

 どのような結果にしても、秋幡辰久の短い夏休みはこれにて終了したのだった。



「ん? ちょっと待て、その理屈だとオレも『可愛い子』に入るのか!?」

「あ、いや、フレスはなんか便利そうだったから。パシリ的な意味で」

「酷っ!?」


        ∞


 ヴィンフリート・ディ・グレゴリオの事件は闇の中へと葬られることになった。

 オスロだけならともかく、〈終末の日〉の術式はヨーロッパ全域まで広がっていたため、連盟は『辻褄合わせ』に今日も四苦八苦している。

 ヴィンフリート当人は投獄され、回収された〈魔宝玉〉の処分についてはずいぶんと意見が割れたものだ。

 やれ保管しろ。

 やれ破壊しろ。

 大まかにはこの二つだ。保管派は当然利用を考えているし、破壊派は悪用を恐れている。辰久はどちらかと言えば保管派だ。数十年分の魔力をほとんど放出して飲み干した缶ジュース状態となったそれに脅威はないし、やはり持っていて損はないと思う。

 妥協案で、封印。

 辰久が知り合いの封術師を招集して、信頼できる者以外が知ることのない場所へと眠らせてきた。保管派の中には断固反対を申し出る者もいたが、大魔術師全員が同意してしまえばハンカチを噛む他ない。

 それから、クラーケン。

 新しく辰久の契約幻獣となった彼女には、意外なことにアルラウネが世話係を買って出てくれた。どうも『初めてできた後輩』という先輩ポジションが敵として襲われたことを水に流したらしい。やたらと先輩ぶる態度が非常に不愉快だと、クラーケンは夜な夜な辰久の部屋へ来ては愚痴っていた。

 クラーケン参入で一番喜んだのはリヴァイアサンだ。水中担当が二人になったことで大いにはしゃいでいたが、当のクラーケンは彼女に対して異常なトラウマを刻まれたらしく、同じ部屋に三十分置いただけで死んでしまいそうなのでしばらくは別行動させている。

 あと余談になるが、アルラウネとクラーケン、それとタマこと白面金毛九尾の玉藻前のロリっ娘幻獣トリオをアイドルユニット化しようと密かに企てる部署があると判明。これには辰久も大興奮……もとい、大激怒して抗議のためにその部署へと殴り込んだ挙句に全力で支援すると固く契りを結んできた。後悔はしていない。


 そういった諸々の件でてんやわんやだった数日はバタバタと過ぎ去り、ようやく一息つけるかと思えば、すぐに別の仕事が舞い込んでくるのだった。


「『黎明の兆』……ですか?」

 世界魔術師連盟本部――秋幡辰久の執務室にて、副官の女魔術師が渡された数枚の資料を眺めつつ訊き返した。隣ではパイプ椅子に座ってコクリコクリと船を漕ぐヴィーヴルがいるも、頑なに無視している。

「そう。なんか最近怪しい動きをしてる組織なんよ。幻獣を何体も飼ってて、中にはそれなりに強力な奴もいるらしい」

 執務机で同じ資料を見つつ、辰久は言う。

「ちょいと調べて来てくんない? なにやってんのかわかるまでは、手は出さなくていいから」

 軽い調子で命じる辰久に、女魔術師は隣でイビキを掻き始める緑髪の女性を見る。

「……このだらけ切ったぐーたら幻獣と一緒に、ですか?」

「うん、そのだらけ切ったぐーたら幻獣と一緒に」

「くかー」

「ヒルデさんの方がいいです」

「はっきり言うねぇ。けど彼女には別の仕事があんのよ。俺も前のヴィンフリート青年の件でまだいろいろやることがあるしさ。な、頼むよ」

「……わかりました。仕事ですし」

 しぶしぶ了承し、女魔術師は一礼してから執務室を後にした。

 この後に襲い来る惨劇を、知る由もないまま……。


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