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OSSAN IN THE SUMMER(中)

 ダルダーノ・ガンディーニは大きく舌打ちした。

 小高い丘陵に建てられた別荘のバルコニー。彼はそこの手摺りから丸々と太った身を乗り出すようにし、両手に握った双眼鏡でビーチを眺めている。最先端の光学技術で作られたポロプリズム式のEDG双眼鏡は、ビーチで屯するとある一行の様子を彼の視界に鮮明に映していた。

「くそっ! チンピラ上がりの下っ端は使えんな! 女二人連れて来るだけのお使いすらできんとは!」

 低いダミ声で吐き捨てると、ダルダーノは双眼鏡を目から外し、自分ではダンディーだと思っている髭面を顰めた。

 ガンディーニ・ファミリーはイタリアに拠点を置くマフィアの一つである。数年前に小さな違法カジノを経営し始めたことが設立の発端。故にもし強大な同業者に睨まれでもすれば塩をかけられたナメクジのごとく萎んで縮んで簡単に消滅する、そんな弱小組織だった・・・

 そう、『だった』。過去形だ。

 彼らは近年稀に見る速度で力をつけ、まだ規模は小さいものの海外にも進出するほどの組織へと成長している。違法カジノを点々と広げ、密輸・密造・薬にも手を出し、構成員の数も雇ったチンピラを含めれば二百人を超える。

 そのガンディーニ・ファミリーを一代で育て上げた現首領が彼――ダルダーノ・ガンディーニだ。

「チッ」

 ダルダーノはもう一度舌打ちすると、踵を返して室内に戻った。豪華な調度品で飾られたリビングには誰もいない。扉の外に二人の正規構成員が護衛として待機しているだけだ。

 ダルダーノは部屋を軽く見回すと、でっぷりとした体躯を投げ出すようにしてソファーに腰を埋めた。それからイラついた大声で呼びかける。

「ヴィンフリート! ヴィンフリートはおるか!」

「お呼びかな、首領ドンダルダーノ?」

 すぐに声は返ってきた。だがそれは扉の向こうに屹立する護衛の部下たちではない。人などいるはずもない部屋の隅、その暗闇からだった。

 と、まるで影が実体化したかのごとく暗闇がぬっと手前に隆起した。それが一人の青年だと気づくのにダルダーノは二秒ほど要したが、驚きもしなければ侵入者だと騒ぎ立てることもしない。さらに続けて三人の男女が青年に付き従う形で同じように現れるのも、ダルダーノはただ黙って見ている。

 そして全員が揃ったところで、彼は忌々しげに口を開いた。

「……魔術師め。相変わらず薄気味悪い現れ方をする」

 付き人には目もくれずダルダーノは青年を睥睨する。肩まで伸ばした赤髪に整った相貌を備えた美男子だった。背は高く、百八十センチは優に超えている。その長身を包むローブは黒地に赤い目玉のような紋様が描かれており、胡散臭くも気味が悪い。

 青年――ヴィンフリートは切れ長の両目を細め、その赤紫色の瞳に狂気を、唇に嘲笑を浮かべる。

「呼んだのはそちらさんだろう。いちいちあんたの護衛の許可を貰う面倒は避けたくてね。これでも私は忙しいのだ」

「貴様……」

 ヴィンフリートの横柄な態度に、ダルダーノは眉間に皺を寄せることを禁じ得ない。

「俺はガンディーニ・ファミリーのボスだぞ? 貴様の飼い主だ! 最初は大目に見てやったが、そろそろ言葉遣いには気をつけろ!」

「これでも最大限の敬意を払っているつもりなんだがなぁ」

「貴様の怪しげな研究とやらに、誰が資金を援助してやっていると思っている!」

「その資金とやらを、あんたが豚のように肥えるほど安定して得られているのは誰のおかげだと思っている?」

「うぐ……」

 そう返されてはダルダーノも沈黙する他ない。ガンディーニ・ファミリーが勢力を拡大するきっかけとなったのは、この目の前に立つ胡散臭い魔術師と手を組んだからだ。決してダルダーノ自身の力ではない。その事実を知るのはダルダーノと数人の幹部だけである。

 初めこそ路上の占い師よりもこの男を信用していなかったダルダーノだが、魔術とやらがどうやら本物らしいことは充分に思い知った。カジノではこちらが多くの利益を得られるように勝敗を絶妙に調整し、密輸・密造・薬の売買などは他の同業者や警察に気づかれもせず行えている。さらに一体なにをしたのか客も異常に増加しているし、なにより対立関係にある組織をことごとく蹴散らしてくれたのは大きい。

 ノルウェーの別荘で優雅にビーチを眺めることができるのも、全てはこの男のおかげ。

 もっとも、ノルウェーに別荘を建てる提案をしたのもこの男だが。

「嫌味の言い合いをするために呼んだわけではないのだろう? 要件はなんだ?」

 口調も態度も悪い男だが、もはやガンディーニ・ファミリーにとってはなくてはならない存在だ。ダルダーノは無言で手に持っていた双眼鏡を投げ渡した。

「? こいつの改造か? 女の衣服だけ透けるようにしろとか言わないだろうな?」

「違う! ビーチを見ろ! そこに緑髪と青髪の女がいるだろ!」

 ヴィンフリートはバルコニーに繋がる窓まで歩み寄ると、双眼鏡を目にあてた。

「どれだ? それっぽい色の髪をした女なんてたくさん……あー、アレか。なるほど、あんたが気に入りそうな美女だな」

「そいつらを連れて来い。俺の女にする」

「エロオヤジめ。結局女かよ。だが――」

 ヴィンフリートは深く長い呆れの溜息を吐くと、雇い主の愚かさを馬鹿にするような笑みを刻む。


「アレは、あんたの手には負えんよ」


「なんだと?」

「アレは人間ではない。そこの三人と同じだ」

 そう言ってヴィンフリートは自分の従者たちを指差した。

 白いビキニの上からパーカーを羽織っただけの、十五歳くらいの少女。退屈そうに調度品の壺を手に取って眺めている。

 ぶかぶかの濃紺ローブで頭から足下までを隠し、一切肌を露出していない恐らく男。底冷えする不気味な空気を纏ってなにもせず立っている。

 全身を隠せるほどの大楯を椅子代わりに座った、灰緑色の軽装鎧で武装した青年。雇い主の部屋にいることなどお構いなしに酒を樽で飲んでいる

 ダルダーノは彼らの正体を知っている。

「……幻獣、というやつか?」

「そうだ。人間と幻獣の区別など、魔力を感じ取れる魔術師なら誰でもわかる。だからやめておけ。私も無闇にどこぞの幻獣と事を構えるつもりはない」

 ヴィンフリートはダルダーノに諦めるように言うと、改めて双眼鏡を覗く。

「見ただけではなんの幻獣かはわからんがな。暢気に海水浴なんてしているくらいだ、野良ではあるまい。となれば近くに契約者が……………………ッ!?」

 そこまで口にしたところで、ヴィンフリートはどういうわけか硬直した。一体なにを見たのかダルダーノには知る由もないが、小刻みに震え始めるヴィンフリートから恐怖とは違う高揚した感情が伝わってくる。

 ジャパンという国の言葉で表すならば――『武者震い』。

「……クハッ」

 やがてヴィンフリートの口から奇妙な笑い声が漏れたかと思うと、

「クハハ、ハハハ、ハーッハッハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」

 堰を切ったかのように、笑いの津波がダルダーノのいるリビングへと押し寄せた。

 ついに壊れたか。

 ダルダーノがそう思った時、奴に貸していた双眼鏡が乱暴に飛んで戻ってきた。かなりの高級品なので壊れてはならんと転びながら必死にキャッチする。

「なんだ? どういうことだ? なぜあの大魔術師がこの地にいる? ハハッ! まさかこの私を追ってきたとでも言うのか? いや、あの様子からしてただのバカンスか? なんにしても都合がいい・・・・・

「? ?? ???」

 ヴィンフリートの言っている意味がダルダーノにはさっぱりわからない。テンションの上がり切った魔術師に問い質すことなど恐ろしくてできず、ただ頭に疑問符を浮かべてソファーで身を縮こませるしかなかった。

「首領ダルターノ、気が変わった。あんたの望み、叶えてやろう」

「は?」

「あの幻獣女二人をあんたに侍らせてやるよ。『人化』していれば体の基本的な構造は人間と変わらんからな。あんたが楽しむだけなら充分だろう」

「いや、えーと……」

「場合によっては殺してしまうかもしれんが、その時は大目に見てくれ」

「えぇ」

 混乱のあまり呆然とするダルダーノを無視し、ヴィンフリートは踵を返す。

「秋幡辰久――彼の大魔術師を討てば、私の悲願は達成されるも同然。これを好機と言わずしてなんと言う!」

 大仰に両腕を広げ、ヴィンフリートは己の契約幻獣のうち白ビキニの少女に向かって命じる。

「クラーケン、お前は残り一つの〈魔法玉〉の回収を急げ。恐らく奴は感づいて邪魔をしてくるだろうが」

「ニヒッ、潰していいのかァ、そいつら?」

 白ビキニの少女は、凶暴かつ好戦的な笑みを浮かべて問うた。

「〈魔法玉〉を優先しろ。お前一人ではどうせ敵いはせん。それに、秋幡辰久には私の研究成果を見てもらう必要があるからな」

「チッ……りょーかいりょーかい」

 少女が不満そうに頷くのを認めると、ヴィンフリートは残りの二人を見た。

「お前たちにもやってもらうことがある。とりあえず研究室に戻るぞ」

 ヴィンフリートは三体の幻獣を引き連れ、やはり扉ではなく暗闇から消えていった。


「ハハハッ! このヴィンフリート・ディ・グレゴリオが、我が一族の名が、魔術界に返り咲く時が来たのだ!」


 最後に響いてきたその言葉には、ダルダーノはもうついていけなかった。


        ∞


 日が完全に沈んだ深夜の時間帯になっても、辰久たちは小島に残っていた。

 正確には一度オスロ市には帰っているのだが、それはキャンプ道具を揃えるためと、人目につかない夜間に調査をするためホテルで少し仮眠を取っただけに過ぎない。

 そうして体調も万全に小島へと戻って来たのだが、『不確定な魔力が海から発生している』という情報だけではなにが原因なのかは見当もつかなかった。魔力を発生させている場所もそうだ。海上なのか海中なのか海底なのか、はたまた意表を突いて空か。範囲が広すぎる。

 無論、可能性のある場所を虱潰しに探るなどといった愚策には走らない。少々大規模な術式を組む必要はあるが、探知魔術でオスロ・フィヨルド全域を一気に洗い出す方がずいぶんと楽だ。

 そう考えた辰久は現在、メインビーチの砂浜に巨大な魔法陣を描いている。上空から眺めればちょっとした地上絵に見えるそれは、朝までに消さなければ大変面倒な騒ぎになること請け合いだろう。

 けれど、オスロ・フィヨルド全域に探知をかけるともなればそれなりに複雑な式になる。発動するための魔力量も並の魔術師が十人は必要と思われるが、大魔術師の辰久にとっては大した問題にならない。並の魔術師など足下にも及ばない魔力を有しているのだから。

「会ったことはないけど、日本にいるボスの息子はボス以上の魔力を持ってるんだってさ」

 特に手伝うこともないのでビーチの端に座って携帯ゲームに興じながら、ヴィーヴルは他愛無い世間話のつもりで隣のフレースヴェルグに話しかけた。

「らしいな」フレースヴェルグも所在無げに寝っ転がり、「魔力はあのおっさん以上っつっても、魔術は封印してんだろ? だからウェルシュが護衛に就いたんだし」

「別にウェルシュが出向かなくてもよかったと思うんだよ。息子さん、勝手に他の幻獣と契約してたらしいから。まあ、ウェルシュの乗ってた飛行機が墜落して到着遅れたから、結果オーライではあるんだけど」

「そういや、なんであいつわざわざ飛行機で行ったんだ? 自分の翼の方が早いだろ」

「あの子にはあの子のこだわりがあるからねぇ」

 実は自分で飛ぶという発想からなかったことなど露知らず、ヴィーヴルは遠い地へ旅立った友を思い出して苦笑する。

「寂しいんじゃないのか? お前、ウェルシュとはけっこう仲よかったんだろ?」

「まあ、ね。私と一緒にゲームしてくれるのって、あの子とリヴィとタマの奴だけだし」

「……けっこういるじゃねえか」

「モンバロとかって基本四人まで対戦可能なんだよ! フルでメンツ揃ってないとCPU入れることになったりして微妙なんだよ!」

「知らねえよ!」

 フレースヴェルグも暇潰しにゲームセンターに通うことはあるが、ヴィーヴルのように一日中どっぷりプレイし続ける精神はどうも理解できなかった。

「ちょーっとそこの君たち! おっさんばっかり働かせてないで少しは手伝ってくんないかな!? 年寄りにはこれけっこうしんどいのよ!?」

 いつまでも二人がだらだらしていると、ついに契約者様が泣き言のような抗議を立ててきた。しんどいとか言っているが、汗も掻いていなければ息も切らしていない。それに魔法陣は既にほとんど完成している。

「ボスの術式を私らが描けるわけないっしょ? あと私らの分の〈アンテナ〉はもう全部立て終えたんだからさ、別にゲームしてていいじゃん」

「他のみんなだってまだ頑張ってるんだぞー?」

「リヴィたちの仕事が遅いんだよ」

「まあ、オレらは飛べるからな。他の奴らより早いのは当然だろ」

 辰久の大規模探知術式は、ただそこに魔法陣を描くだけでは機能しない。いや動くには動くのだが、距離が遠くなればなるほどに正確さが欠けてくる。

 そこで、一定距離ごとに探知術式の効果を増幅・調整するための〈アンテナ〉を立てる必要があった。刻まれるルーン文字に意味があるため、〈アンテナ〉となるものはある程度の長さがある棒状の物体ならばなんでもいい。オスロ市に戻った時、辰久はキャンプ道具一式と一緒に物干し竿も仕入れていた。

 その数は三十本。

 翼を持つヴィーヴルとフレースヴェルグが遠距離にある島々に、フェンリルとアルラウネが近距離の島々にそれぞれ〈アンテナ〉を立てることとなった。ヴィーヴルとフレースヴェルグはあっという間に仕事を終えたが、フェンリルとアルラウネは分担作業でやっているわけではないため少々時間がかかっているらしい。

 だが、一番大変なのはリヴァイアサンだ。そんな都合よく一定距離に島があるわけがないので、唯一海中行動が可能な彼女は最も多くの〈アンテナ〉を海底に立てなければならない。あと数十分はヴィーヴルたちの暇が続くだろう。

「け~っきょく俺が一人で描いちゃったよ」

 魔法陣を完成させ、残るは〈アンテナ〉が全て立った報告を受けるだけとなった辰久は、ぶつくさと文句を垂れながら一仕事終えたとばかりにクーラーボックスからキンキンに冷えた缶ビールを取り出した。

 ぷしゅっ、とプルタブを開き、炭酸の弾ける音に心地よさを感じつつ、一気に中身を口内に流し込む。気温は肌寒いくらいだが、地面に巨大な紋様を描いた後の火照った体に染み渡る冷たさは格別だった。

「あ、おっさん、オレにも一本くれ」

「私はコーラで」

「やーよやーよ、自分で取りに来んしゃい」

 調子よく寛いだまま注文するフレースヴェルグとヴィーヴルに、辰久は子供のようにあっかんべえをするのだった。

 その直後――異変は起こった。

「「「――ッ!?」」」

 近く――と言っても数キロは離れているだろう――で強大な魔力の衝突を辰久たちは感知したのだ。

 個種結界も張られている。誰かがなにかと戦闘を始めたのだ。

「この魔力は……フェンリルか」

 自分と繋がった魔力リンクの荒ぶりから辰久は判断した。ヴィーヴルとフレースヴェルグも表情を険しくして立ち上がる。

「どうする、ボス?」

 応援に行くか、行かないかとヴィーヴルは訊いている。フェンリルは弱い幻獣ではない。寧ろ『神』と渡り合えるレベルの力を持っている。だがそれも状況によってはいくらでも覆されてしまうだろう。

「駆けつけるべきなんだろうけど、そうは問屋が卸してくれないらしいね」

 辰久に言われ、ヴィーヴルたちも気づく。

 周り――障害物がなく見晴らしのよい砂浜に隠れる場所などない。そもそも隠れるつもりもないのだろう。

 ぼんやりと輝く青白い人型の燐光が、何十もの数で三人を完全に取り囲んでいた。


        ∞


 時は少し遡る。

「ぴぎゃあああああああああああああああああああああああああっ!?」

 空も海もダークブルー一色に支配された洋上に断末魔を想起させる大絶叫が轟き渡った。

 顔面で風を切りながら高速移動する少女――幻獣アルラウネは、後ろに流れる若草色の髪を激しくバタつかせながら、大粒の涙を来た道に落としつつ悲鳴を上げた。

「速いです! 速過ぎます! 速い落ちる速い落ちる速い落ちるスピードダウンしてくださいフェンリルさんっっっ!?」

 アルラウネは自分で移動しているわけではなく、黒髪の少女――幻獣フェンリルの首に背中から腕を回すようにして掴まっているだけだった。

 自分で決めたこととはいえ、調査を始める前の役割分担でフェンリルと一緒になったことを今になって後悔する。ヴィーヴルとフレースヴェルグはさっさと飛び去ってしまうし、リヴァイアサンと一緒に海中散歩なんて死んでしまう。かと言って残ったところで辰久の術式を手伝うこともできない。自分だけ楽しようと考える豪傑さを持ち合わせていないアルラウネは、無理を言ってフェンリルに同行させてもらったのだ。

 その結果が――

「んひゃあああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 この大絶叫である。

 これがただのモーターボートやジェットスキーの暴走運転だったら、アルラウネもここまで悲鳴は上げていないだろう。そもそもモーターボートやジェットスキーなんて借りる余裕などなかったのだから、空も飛べず水中での自由も利かないフェンリルがどうやって近隣の島々を巡るのか最初は興味津々だった。

 でもまさか、フェンリルが自分自身の足で・・・・・・・海面を疾駆する・・・・・・・とは。

 しかも顔面を空気の槌でぶん殴られるかのような速度。絶対にジェットスキーの方が遅い。間違いなく。

 一体なにをして海面を蹴っているのか観察する余裕はなかったが、それでも目に入った光景はアルラウネをさらに驚愕させた。

 フェンリルが着水する直前、瞬間的に海面が凍りついているのだ。そこを蹴って彼女は前へ前へと進んでいる。

 神をも飲み込む幻獣フェンリルは、最終的に太陽すら喰らうと恐れられていた。だが、実際に太陽を丸呑みするなどとてもじゃないが不可能である。そのように言われている所以は、太陽からもたらされる恩恵――『熱』を奪う力を持っているかららしい。

〝陽喰〟の特性。

 熱を奪われた場所は瞬時に凍結し、それが水面ならば足場を作る。

 ただし、浮いているだけの氷塊を踏みつけるわけなので、乗っている側からすれば非常に不安定だった。それはもう揺れる揺れる。いつフェンリルが足を滑らせてザブンするかアルラウネは気が気でなかった。寧ろ氷上で滑らないのが不思議だった。

「ふぇふぇふぇフェンリルさんわたし落ちちゃいますって!? こんな暗い海にダイブしたくありません! もうちょっと! もうちょっと安全運転でお願いしますぅうううっ!?」

「問題ない。法定速度は守っている」

「どこの国のなんの法定速度ですかぁあっ!?」

「心配しなくても逮捕はされない」

「そんな心配してません!?」

 既に五つの小島に〈アンテナ〉を刺し、残りはフェンリルの持っている一本となっているが、この移動方法だけは一向に慣れる気がしないアルラウネだった。

「アルラに合わせて前半をのんびりし過ぎた。他の皆は恐らくもう終わっているだろう。急がねば主に申し訳が立たない」

「あれでのんびりだったんですか!? 他の皆さんもこんなに早く仕事終わりませんからもっとゆっくり走ってくだひゃうっ!?」

 アルラウネの切実な願いを聞き入れたのか、突然フェンリルは海上で急ブレーキをかけた。ペキペキパキッ! と海水が急激に凍りつく透き通った音と、その氷を足裏でガリガリと削る荒い音が同時に暗澹の夜海を駆け抜ける。運動エネルギーが完全に消滅するまで数十メートルは滑っただろうか、豪快過ぎる停止のおかげでアルラウネは軽く舌を噛んでしまった。

「うー……ど、どうしたのですか、フェンリルさん? 急に止まって?」

 ちろりと小さな舌を出して痛みに顔を顰めるアルラウネに、フェンリルは警戒を滲ませた低い声音で呟く。

「……風が止んだ」

「ふぇ?」

 ついさっきまで空気の壁を全身で突貫させられていたアルラウネは、すぐにはわからなかった。だが確かに、海の沖にしては不自然なほど風がない。

 完全な凪の海だ。

 と、目の前の海面がぷくぷくと泡立ち始めた。風もなく波も穏やかな静謐たる海では、泡の弾ける微かな音すらよく響く。

「なにかいる」

「はい、強い魔力を感じます」

 海中に潜む何者かの気配を二人が感じ取った次の瞬間、足下の氷を砕き割ってしなやかな鞭のようなものが飛び出してきた。

「!」

 フェンリルは咄嗟の判断で後ろへ飛ぶ。二人を乗せていた分厚い氷を一撃の下に粉砕したそれは、くねくねと動く一本の白い触手だった。

 太さはアルラウネの太股ほどだが、触手の片面にびっしりと並ぶ吸盤は見た目の生理的嫌悪感を増長させる。けれどヴィーヴルやリヴァイアサンのような剛の者ならば『美味しそう』とでも言いかねない、げそ。つまり、イカの足。

 世界最大級の無脊椎動物であるダイオウホオズキイカならば、これほど巨大な触手を持っているかもしれない。だが、分厚い氷を一瞬で砕くほどの力はあるだろうか?

「あれって、まさか――」

 言いかけたアルラウネの言葉はフェンリルが再び後ろに跳んだため中断された。さっきまで立っていた場所を三本の触手が同じように砕氷する。あの破壊力を一撃でも直で受けたら……自分の華奢な肉体が引き千切れて吹き飛ばされる様を想像し、アルラウネは顔面を蒼白させて小刻みに震えた。

「アルラ、下りて」

「は、はい!」

 言われるままにアルラウネはフェンリルの首に絡めていた腕を解いた。スタッと着氷した途端に滑って転びそうになるが、両腕を鳥のようにバタバタさせてなんとかバランスを取る。

「危ないから、そこを動かないで」

 それだけ告げると、フェンリルは物干し竿をアルラウネに預け、足下の氷を陥没させる踏込みで勢いよく前方に跳躍した。動くなと言われたが、直径三メートル程度の氷塊の上だとアルラウネにできることは声援を送るくらいだ。

 動く者だけを狙っているのか、敵はアルラウネを無視してフェンリルのみに海中から触手を放つ。一本、二本、三本と時間差で次々と出現するそれらを、フェンリルは海面で踊るようにかろやかにかわしていく。

 そして何度目かの触手の一撃を、フェンリルはそのタイミングを狙っていたとばかりに避けることなく受け止めた。

 圧倒的な衝撃で宙へ弾き飛ばされるフェンリルだが、その両腕は触手をホールドしたまま放さない。彼女は苦悶の表情一つ浮かべず、腕に力を込め、そして――

「――はっ」

 小さな気合い。踏ん張りの利かない空中にも関わらず、フェンリルは一本背負いの要領で触手の本体を海中から強引に引っ張り抜いた。

「――えッ!?」

 フェンリルと同じように空中へ放り出された触手の本体は、アルラウネが想像していたグロテスクな巨大頭足類とは違っていた。

 大きな目玉がぎょろりと動く頭部。そこから伸びる円筒状の外套膜。三角のヒレ。

 そんなものはない・・・・・・・・

 合計して十本の触手――うち二本は『触腕』と呼ばれる――を操っていたのは、アルラウネとたいして体格差のない少女だった。

 光沢のある白い髪は左右から一房ずつ長く伸び、先端に行くにつれて赤みがかっている。小さな輪郭に収まる大きな黒い瞳は好戦的な光を宿しているも、同時に自分が海中から引っ張り上げられた事実に吃驚している様子だ。純白のビキニを身に着けた体こそ人間だったが、明らかにそうではない箇所もある。

 両腕の肘から先には触腕が、腰から下は八本のイカ足が生えていたのだ。

 半人化状態。

 この地球で幻獣が本来の姿に戻ると、存在を維持するためにとてつもない魔力が必要となる。だが己の体の一部のみを具現させれば、ある程度の魔力消費を抑えた上で本来に近い力で行動できる。それがあの姿だ。

「クラーケンか」

 自分よりも上空に放り投げた少女を見上げて、フェンリルが呟く。

 幻獣クラーケン。

 船乗りたちの間で古くから語り継がれている海の魔物だ。その名は古代ノルウェー語で『北極クラーク』を意味するが、北極地域に限らずアフリカのアンゴラ沖など世界中の様々な場所で目撃報告されている。

 特筆すべきは大船を簡単に海中へ引きずり込む〝怪力〟と、『身体の全体は決して現さず、人間の目ではその全貌を決して見ることはできない』と言わしめるほどの〝巨大〟さだ。

 だがしかし、今まさに自由落下の始まったクラーケンは〝巨大〟と言うには程遠く思えた。触手も含めれば全長はかなり長いが、それでも体は小柄な少女なのだ。

「ニハッ! このアタシを引き上げるなんて、地上を這うしかできねぇ獣ごときがなかなかやってくれるなァ!!」

 凶悪な笑みを顔面に刻み、クラーケンは伸ばした触手を落下中のフェンリルの頭上へと叩きつけた。フェンリルは腕をクロスさせて防ぐも、空中にいては野球ボールのように呆気なく吹き飛ばされてしまう。

 海面に激突する寸前に体を身軽に捻って着水――いや、例によって〝陽喰〟の特性により生じた氷の足場にフェンリルは着地した。そのまま一呼吸も置かず前方に跳躍。一瞬前まで足をつけていた氷塊が触手の一撃で破砕する。

 あの触手はどうやら伸縮自在のようだ。最長は恐らくクラーケン本来の姿の触手と同じと思われるが、島と間違われるほど〝巨大〟な存在相手にリーチを計算する意味はない。

「オイオイオイオイ、なんでテメェそんなにすばしっこいんだァ? ここは陸地じゃねぇぞ!」

 落下しつつ、少女とは思えない口の悪さでクラーケンは叫んだ。

「だが、いい! 面白い! アタシのマスターは〈魔法玉〉優先っつってたけど――お断りだねェ! こぉーんな愉快な獲物を見つけちまったら襲わずにはいられねえってのォ!」

 楽しそうに、愉しそうに、クラーケンは狩りをする者のギラついた瞳でフェンリルと捉えて触手を振るう。戦いの愉悦に酔い痴れるその様子にアルラウネは寒気を覚えるも、今の言葉には気になる点がいくつかあった。

 マスターとは?

〈魔法玉〉とは?

 クラーケンはオスロ・フィヨルドでなにをしていたのか?

「海中には戻さない」

 触手を掻い潜っていたフェンリルは隙を見て片手を海水に浸す。瞬間、これまでとは比べ物にならない規模の海面が瞬く間に凍結した。夏だというのに極寒の冷気が辺り一帯を支配する。

「こいつッ! 無茶苦茶しやが――ッ!?」

 氷の大地に着地したクラーケンは忌々しげに舌打ちするが、その時には既にフェンリルが肉迫していた。

「がっ!?」

 掬い上げるような掌底がクラーケンの顎を捉えた。だがそれだけでは終わらない。放物線を描いて飛ぶクラーケンの落下地点にフェンリルは先回りし、タイミングよく蹴りを放つ。

 残像が生じるほど高速かつ連続で放たれた蹴りを全てその身に受け、クラーケンは氷上を何十メートルも滑った。それでもクラーケンの瞳から反撃の意志は消えず、腕から生えた二本の触腕を使って停止し、下半身の八本を一斉にフェンリルへと殺到させる。

 乱れ伸びる触手。一撃一撃が強力な威力を誇るそれらを前に、なぜかフェンリルは回避するでもなくその場から動かない。

「ふぇ、フェンリルさん避けてくださいっ!」

 戦慄するアルラウネ。声は届いているはずなのに、クラーケンの攻撃は見えているはずなのに、やはりフェンリルは立ち尽くしたままだ。

 代わりに、彼女は大きく息を吸いつつ体を捻る。


 次の瞬間、フェンリルの口元から蒼い炎が射出された。


「んなァ!? 火ィ!?」

 クラーケンが驚愕に目を見開いた。

 フェンリルの〝陽喰〟の本質は対象を氷結させる能力ではない。熱を奪い、体内に貯蓄し、最終的に外へ放出する。神話でも炎を吐くとされているが、その原理はこの特性に因るものだ。

 ドラゴンブレスにも匹敵する超高温の蒼き火炎流は、迫り来る触手を焼き払い、そのまま苦悶の悲鳴を上げるクラーケンを襲う。しかしクラーケンは紙一重のところで転がってかわした。

「テメェ……スルメになったらどうしてくれんだァ!?」

 焦がしたイカ足を触腕で擦りながら抗議するクラーケンだが、その顔面を一瞬で間合いを詰めたフェンリルに鷲掴みされ思いっ切り押し倒された。

「がはっ!?」

「問題ない。スルメになったら私が食べる」

 たぶん冗談じゃないことを言ってから、フェンリルは氷床に押しつけたクラーケンを鋭い視線で睨め下ろした。

「お前のマスターは誰だ? この海でなにをしていた?」

 フェンリルはアルラウネも疑問に思っていたことを問い質すが、

「ニヒッ……誰が言うかよォ」

 やはりクラーケンは答えず、ぷっくりとフグのように両頬を膨らませた。

 刹那――ブシャアアアアアアアアッ!!

 真っ黒い液体がクラーケンの口から凄まじい勢いで噴射された。フェンリルを頭から丸呑みするかのように浴びせられたそれは――

「イカ墨?」

 だろう。離れた場所にいるアルラウネからでも、月明かりと星明かりしか頼れない夜の暗闇でも、はっきりと視認できる黒。その直撃を見てアルラウネはヒヤッとしたが、威力はたいしたことないらしくフェンリルは少し仰け反った程度である。

 けれど、クラーケンがフェンリルの隙を突いて脱出するには充分な目眩ましだった。

 視覚はもちろん、アルラウネにまで届くイカ墨の普通じゃありえない生々しい悪臭は、鼻の利くフェンリルの嗅覚も一時的に麻痺させてしまったようだ。目元を拭って回復した視覚でフェンリルは辺りを見回すが、氷上にクラーケンの姿は存在しない。

「海の中ですフェンリルさん!!」

 フェンリルが敵を見失ったことを知ったアルラウネはすぐに教えるも、少し遅かった。

「――ッ!?」

 バゴン! と氷を砕いて四本の触手がフェンリルの足下から出現。避ける間もなく彼女の腕、足、首、胴体に絡みつき、凄まじい〝怪力〟で一気に締め上げる。

「ニヒッ、ようやくつっかまえたァ」

 海面から顔だけ出してクラーケンは不敵に笑う。

「簡単には殺さねェ。ゆっくりじっくり絞め殺してやんよォ! 触手プレイを味わう気分はどうだァ? せめていい声で泣けよォ? じゃねぇとアタシがつまんないからなァ! アッハハハハハハハハハハハハハッ!」

 声高く哄笑しながらクラーケンはギチギチと触手の締めつけを強めていく。アルラウネはその光景をただ見ていることしかできなかった。〈致死の絶叫〉を放ったところでクラーケンには効果が薄いだろう。自身の無力さに忸怩する。

 だが、フェンリルが表情を苦痛に歪ませることはなかった。

「オラどうしたァ? 早く泣けよォ?」

 さらに絞めつけが強くなるも、フェンリルは眉一つ動かさない。我慢している、という様子でもない。

「私を束縛するなら『魔法の足枷グレイプニル』でも持って来ることだ」

「あァ?」

 クラーケンが訝しげに頬を引き攣らせた途端だった。


 フェンリルに絡みついていた四本の触手が、まるで食い千切られるように粗く斬断された。


「はァああああああああああああああああああああああああああああッ!?」

 痛撃と驚愕による絶叫をクラーケンは夜の海に撒き散らす。

「〝不縛〟。私の体はその特性を封じられない限り、何者にも縛られない」

 解放されたフェンリルは即座に海面をクラーケンごと凍らした。

「しまっ――」

 逆に動きを封じられたクラーケンの表情に明らかな焦りの色が宿った。だがクラーケンの〝怪力〟ならば破られるのも時間の問題だ。フェンリルはその前にトドメの一撃を加えるべく跳躍し、拳を握った右腕を振り被る。

 その右拳周辺の水分が凍結する。先端を鋭利に尖らせた氷刃が形成された。

「ま、待て!?」

「問題ない。急所は外す。お前にはいろいろと訊きたいことがあるのだ」

 フェンリルには容赦も躊躇もない。右拳に纏った氷の刃が、跳躍の威力を上乗せしてクラーケンの左肩に深々と突き刺さる――ことはなかった。

 刃の尖端がクラーケンの華奢な肩口へと吸い込まれる直前、横方向から突如として凄まじい水の奔流がフェンリルに襲いかかったのだ。

「フェンリルさん!?」

 アルラウネが叫ぶ。激しい水流に呑み込まれたフェンリルは、とてつもない水圧に成すすべなく離れた海面に叩きつけられた。


「文字通り戦いに水差しちまって悪いが、俺らの契約者の命令だからな。勘弁してくれ」


「だ、誰ですか!?」

 アルラウネは誰何しながら声がした方角に視線を向ける。そこには夜の海にぽつりと浮かぶ一隻の小船……いや、小船のように浮かぶ、甲羅に似た半球状の大きな楯が存在していた。

 その楯の上には灰緑色の軽装鎧を纏った青年が立っていた。

 自由を封じていた氷を砕き割ったクラーケンが吠える。

「ガルグイユ! テメェ! 余計なことしやがってェ!」

「えっ!?」

 青年の正体を聞いてアルラウネは瞠目した。

 幻獣ガルグイユ。

 蛇に似た胴体に亀のような甲羅、水かきのついた四本の足を持つ――ドラゴン・・・・だ。

 その名には『のど』または『大酒飲み』という意味があり、大量の水を飲み込むことができる。飲み込んだ水はフェンリルの熱と同様に吐出も可能で、先程の水流はそれだろう。

 街一つを津波のような大洪水であっという間に崩壊させられるドラゴン族。

 アルラウネでは逆立ちしたって勝てやしない。

「うっせ。勘弁しろって言ったろ。おめえの帰りがあまりにも遅えから、酒を飲むのも中断して見に来てやったんだ。ありがたく思え」

「思えるかァ! それが余計なお世話だっつの!」

「最後の〈魔法玉〉は見つかったのか?」

 ムキになってクラーケンは食いかかったが、ガルグイユはその話を打ち切るように声色を重くして問うた。

 クラーケンはしばし嫌そうな顔をしていたが、ガルグイユの方が力は上だと理解しているのだろう、触手を使ってちょいちょいと『下』を指す。

「……あァ、この真下の海底に置いてあんよ」

「ならさっさと拾え。向こうは準備できている。例の大魔術師――秋幡辰久もガンディーニの別荘に捕えたしな」

「えっ!? そんな、辰久さんが!? どうして!?」

「それは聞き捨てならない」

 ザバアッ! とフェンリルが何事もなかったかのように氷の陸地へ上がってきた。視線を険しくし、ガルグイユを睥睨している。

「流石に生きてたか。しぶとい奴は面倒だな。……あー、まてよ。いいこと思いついた。おいクラーケン、俺が使う前にお前ちょっと試してみろ」

 なにを? と問い返すまでもなく理解した顔をするクラーケンに、ガルグイユはそれでもはっきりと思いついた内容を告げた。


「〈魔法玉〉の力ってやつをさ」


        ∞


 人の形をした青白い輝きは辰久たちを取り囲んでいるが、襲ってくる気配はなかった。

「なんなんだ、こいつら?」

 フレースヴェルグが気味悪そうに呟いた。輝きはぼんやりと儚げに明滅するだけで、まるで三人を監視しているかのようにも思える。

「ちょっと焼いてみるわ」

 ヴィーヴルが掌にサッカーボール大の火炎を三つ出現させ、前方を塞いでいた三人(?)の輝きに向けて投げ放つ。輝きは呆然と立ち尽くしたまま火炎の直撃を喰らったが――

「ありゃ、擦り抜けた」

 火炎は輝きを燃やすことなく、背後の岩壁に衝突して三つの焦げ跡を残しただけだった。

「う~ん、実体がないっぽいねどうも」

 辰久は困ったように頭をわしゃわしゃと掻く。実体がなければ燃えることもないし、もちろん物理で殴ることも不可能だ。立体映像に攻撃したって意味がないように。

 だが逆に、向こうからもこちらに危害を加えることはできない。だとすればやはり監視が目的だろうか?

 誰が?

 なんのために?


「礼のなっていない歓迎で申し訳ないね、ヘル・秋幡」


 流暢な日本語にドイツ語の敬称を混ぜた言葉がかけられた。

 人型の輝きが初めて動く。ゾンビのようなゆっくりした動作だったが、左右に開いて道を作った。

 そこを悠長な足取りで歩いてきたのは、赤い髪を肩まで伸ばした長身痩躯の青年だった。黒地に赤い目玉模様が刺繍されたローブ纏い、端整な顔には絶対的な余裕や自信を含んだ笑みを浮かべている。彼の三歩斜め後ろには、濃紺のローブがそのまま歩いているように肌を見せない男――感じられる魔力は幻獣の物だ――が付き従っていた。

「どちらさん? あーいや待って、どっかで見た覚えのあるようなないような……」

 こめかみに指をあてて引っかかった記憶を手繰る辰久に、青年はイラついたように片眉を僅かにピクつかせた。

「なるほどなるほど、貴様にとってこのヴィンフリート・ディ・グレゴリオはその程度の存在というわけか。まったくもって気に食わん」

「ヴィンフリート? あー、はいはい。おっさん思い出したよ。そういや懲罰対象リストにそういう名前のドイツ人魔術師がいたっけか。確か隠れんぼが得意なんだって? なかなか捕まんなくて俺の部下が嘆いてたよ」

「好きでこそこそ隠れているわけではないのだがね。まあ、その不名誉な印象も今夜限りだ」

「というと? おっさんにもわかりやすーく説明してくれると助かるね。この状況は一体なんの真似なのか、とかも含めて」

 二人の魔術師はお互いに余裕を見せつけ合うかのような遣り取りを続ける。

「長年費やしてきた私の研究がついに成果を上げるのだよ。第二次世界大戦後に衰退したグレゴリオ一族に、再び繁栄の光を与えるにたる成果をね」

「グレゴリオ一族っていうとアレだっけ? 連盟が定めた『一般の戦争には不干渉』という協定を無視して、目先の利益に飛びつき大戦時に大馬鹿やらかしちゃって追放された一族」

「私はその末裔だ」

「今度はどんな大馬鹿やらかしちゃうわけよ?」

「それは見てのお楽しみだ。貴様には特等席で私の研究成果を拝んでもらいたいのだが、同行してもらえるかな?」

「ふざけんな! どうせろくなことじゃないよ! ボス、こうしてのこのこ私らの前に現れたんだ。懲罰は今すぐ執行すべきだ!」

「同感だな」

 言うや否や、ヴィーヴルが火炎を、フレースヴェルグが裂風を生み出す。炎と風は互いに打ち消し合うことなく上乗し、その威力をより引き上げてヴィンフリートを襲撃した。

 だが、炎も風も、周りの輝きと同様にヴィンフリートと後ろの契約幻獣を擦り抜けるだけで終わった。

「無駄だ。今の私は〝霊体〟――精神だけを具象させているに過ぎない。周りの輝きも同じ。ガンディーニ・ファミリーの構成員の精神をちょっとだけ借りている。まあ、魔術なんて知らない彼らは私に意のままに操られる人形と変わらんがね」

 クツクツと嫌らしくヴィンフリートは笑う。幽体離脱――ガンド魔術にはそのような術式も存在するが、恐らく違う。あの系統の魔術は他人の精神にも干渉できるけれど、幽体離脱までできるのは自分だけのはずだ。

「そっちの幻獣――アンデット系の力だぁね」

「ほう、よく見破ったものだ」

 看破した辰久にヴィンフリートはパチパチと軽い柏手を送る。

「フン、なんにしてもてめえら霊体だろ?」フレースヴェルグが鼻息を鳴らし、「つーことは、そっちもなにもできねえんじゃねえの?」

「そうでもないさ」

 すっと右手を挙げ、ヴィンフリートは背後の契約幻獣に指示を出す。

「やれ、ゴースト」

「……御意」

 全身ローブ男が頷いた瞬間、周りを囲んでいた人型の輝きがそれぞれ一点へと凝縮した。切れかけの蛍光灯よりも儚げな光量だったそれらは、最後の力を振り絞るかのように一気に強烈な輝きを放ち始めた。

「なんだこれ!? ボス、周りの奴らが!?」

「こいつ、人の精神体に術式を仕込んでいたのかよ!?」

 ソフトボール程度の大きさになった輝きから光の線が伸びる。それは光点と光点を複雑に結びつけ、やがて辰久たちを中心に置いた光の魔法陣と化した。

「あ、いかんよコレ。相当強力な転移魔術だ。おっさんでも今からじゃ打ち消せない」

 やられちゃったなー、と凄まじく緊張感のないことを言う辰久。光の量がさらに増加し、転移が始まる頃にはもはや目も開けていられなかった。

「秋幡辰久、招待するのは貴様だけだ。契約幻獣たちは別室で預からせてもらう」

 ヴィンフリートのその言葉だけが、最後に聞こえた。


        ∞


 同時刻。イタリア――ミラノ某所。

 林立するビル群の裏通りに位置するとある地下カジノは、普段ならば無法者たちの溜まり場として賑やかな喧噪に包まれている時間だった。

 しかし、カジノ内は異様な静けさに支配されていた。

 客らしき者は一人もいない。それどころか並んでいたスロットマシンはありえない形に歪み倒れ、ルーレット台やカード台は真っ二つに両断され、ワイン瓶は全て割れて中身をぶちまけ、床や壁には弾痕が蜂の巣のように刻まれている。

 その有り様は、まさに崩壊していると言ってもいいだろう。

 ここはガンディーニ・ファミリーの事務所の一つだ。

 マフィア同士の抗争があった――というわけではない。床には黒服の構成員が何人も倒れているが、これだけの戦闘の跡があるにも関わらず事切れている者は一人もいなかった。

 苦しそうに呻く彼らの中心には、ローブを纏った二人の女性が無傷で立っている。

 その女性二人が彼らの敵。そして、たった二人でマフィアの一部を壊滅させた者たちだ。

「……化け物め」

 かろうじて意識のある構成員の胸倉を女性の片方が掴み上げ、凛とした口調で訊く。

「あの魔術師はどこにいる?」

「なんの……話だ……?」

「惚けるな。このカジノには魔術的な力が作用していた。いや、貴様らが経営するカジノには全て同様の魔術が仕掛けられていた」

「まじゅつ……だと? そりゃ、てめえらが使ってた……化け物の力か?」

 構成員は本当に知らないらしい。この違法カジノの責任者と思われる男が知らなければ、他の者を叩き起こしたところで結果は同じだろう。

「では、質問を変えます」

 もう一人の女性が丁寧な口調で問いかける。

「あなたたちのボスは、どこにいますか?」

「ふん、言うと思うか?」

 構成員の男はせめてもの抵抗の意思を見せる。だが――

「その口ぶりだとボスの所在は知っているのだな。ならば言わせるまでだ。両手両足の指を一本ずつヤスリで削り落とそうと思うが、貴様は何本まで堪えられるかな?」

「ひぃ!?」

 胸倉を掴んでいた女性の非情な言葉に構成員の男は短く悲鳴を上げて顔を歪めた。

「(ちょっと、やり過ぎですよ)」

「(安心しろ。本当にやるわけではない)」

 構成員の男には聞こえないように遣り取りする二人に、彼はさらなる恐怖を募らせる。そしてついには精神が堪えられなくなり、泣きながら口を開いた。

「わ、わかった。言う! 言うから見逃してくれ!」

 喚く構成員の男を女性は乱暴に解放する。床に叩きつけられた構成員の男は咳き込みながらボスの――ダルダーノ・ガンディーニの居場所を告げる。

「げほっ……ボスは、オスロの別荘だ」

 すると成り行きを見守っていた方の女性が疲れた息を漏らす。

「オスロ――ノルウェーですか。外国となると、少々遠いですね」

「移動に心配はいらないぞ。アレがある。――おい、詳しい場所も教えろ」

 そうして構成員の男からできる限りの情報を聞き出すと、謎の襲撃者たちはそれ以上なにもせずカジノを後にした。


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