離れる
ある安アパートのとある一室。私はその部屋の扉を家主の留守中に作った合鍵で開けて、高ぶる気持ちを抑えながら中に入りました。夢にまで見た彼の部屋に、彼の生活環境に今私は入っている!この部屋の中で彼が毎日寝起きをして、ここの空気を吸い、この壁や床に触れているだなんて、このまま押し入れに隠れて一生を過ごしたい。そんなことを考えながら、私は台所へ向かいます。
これから2人の、2人だけの生活が始まるのです。大学から帰ってきた彼に温かい料理を振舞ってあげたいのです。初日だからといって、怠けてはいけません。シンクの前に立ち、スーパーの袋から食材を取り出します。彼は自炊をしているのか、台所は意外にも片付いていました。まな板と包丁、野菜を洗い、切り始めます。リズミカルに包丁を動かしていると、なんだか新婚さんみたいだと思いました。本当にそうなる日も遠くは無いでしょう。その『事実』に思わず顔がほころびました。ああ、なんてわたしは幸福なのだろう!
丁度、野菜を切り終わった頃、外の廊下から足音が聞こえてきました。普通の人なら聞き逃してしまうのでしょうが、私には分かります。少し引きずるように歩くあの音は、愛しい彼のものです。彼は私を見てどんな顔をするでしょう。私は驚く彼の顔を想像しました。
「ただいまー」
彼が帰ってきた!独り暮らしでも「ただいま」と言う人だったのでしょうか。普段のクールで寡黙な彼とのギャップが可愛いです。
「おかえりなさい!」
私は満面の笑みで返事をしました。私の声と姿を見た彼は、目を見開き、口を開けたり閉めたりしています。相当、驚いているらしいです。そんな姿も愛おしかった。
「あの、まだちょっと早いけどお風呂にしますか?ご飯はまだ出来ていないので、少し待っていただくことになるんですけど……。あ、お洗濯もしましょうか?やってほしいことは何でも私に言ってください!私、あなたに尽くしたいんです。そのために生まれてきたんです!さあ、どうしますか?何でも遠慮なく言ってください!」
「はあ……えーっと、誰ですか、アナタ」
しかし、彼の口から出たのは信じられない言葉でした。
「そんな!私を忘れてしまったんですか!?」
「忘れるもなにも……」
私はショックと驚きを隠せません。
「……ああ、もしかしてストーカーさん?この頃来てた」
「そんな、ストーカーだなんて……」
確かに私と彼が面と向かって会うのは初めてだけど……。
「毎晩、電話もしたじゃないですか!」
「ああ、あの無言電話」
「帰りが遅い日には、あなたが無事に帰りつくように見守っていたんですよ」
「視線を感じると思ったら、お前だったのか」
「一緒の映画もみたのに……」
あまりの悲しさに、私は思わず膝をついてしまいました。こうなることは全く予想していなかったという訳でも無いのですが、いざ直面するとやっぱり辛く、私のお豆腐メンタルには耐え難いものでした。
「しっかし、ここまでのテンプレストーカーも今どき珍しいな」
「……でも、でも!私の愛は本物です!」
なんとしても、私の愛を分かってもらわなくては!
「私のあなたに対する愛は誰にも負けない自信があります。確かに!順番は間違ったかもしれません。でも本当に愛しているんです。あなたのためなら本当になんでもできますよ。あなたのためなら死んだってかまわない!」
「ばかやろう!」
「え?」
「お前、愛する人のために死んで、本当にその人が幸せになれると思っているのか!?罪悪感で死ぬより辛いかもしれないだろ!」
彼が、私のためを思って叱ってくれている……?やっぱり私の愛は届いていたん
「それに、お前はストーカーが何たるものか全くわかっていない!!」
……え?
「確かに愛しすぎて話しかけられず、後をつけてしまったりしてしまうのは分かる。だって俺もそうだったもん」
「え、え?」
「そりゃあ、愛しい人のために死にたいだろう。俺だって死にたい!愛しい人のために死にたい!ああ、安田さん、僕はあなたで死にたいです!死因、安田美紗子になりたい!!」
私は、私の理想がガラガラと崩れていったのを感じました。クールで無口な彼がこんなことを言ったのも驚いたのですが、彼が私と同じゼミの安田美紗子に想いを寄せていたことが何よりもショックだったのです。やり場の無い悲しみと怒りが、ふつふつと溢れてきます。この愛が届くことのないなら、いっそこのまま……
「おい、ちょっと待て。お前今、『あなたを殺して私も死ぬ』とか考えてないか?」
「現世で結ばれないなら、来世に懸けるまでです」
「そういうところが、愛が足りないんだよ」
愛が足りない?そんなことはないはずです。だけど、彼にそう言われると、そうかもしれないと思ってしまいます。私は、どんなことがあっても、彼への愛は一番でいたいのです。
「あのなあ、本当の愛っていうのは、相手の幸せを一番に思うことなんだよ。俺は安田さんをストーキングして2年目でそれに気づいたんだ。それは安田さんに彼氏が出来たときだった。俺は悲しみと悔しさで男泣きに泣いた。いっそあの男と安田さんを殺して俺も死んでやろうとも思った。でも、安田さんの幸せそうな笑顔を見て、俺はなんて馬鹿なことを考えていたんだろう、彼女が幸せならそれでいいじゃないかって気づくことができたんだよ。俺の一方的な愛は安田さんには苦痛ではないのか、彼女の本当の幸せを願うべきじゃないのか……ってな」
「……本当の、幸せ……」
「そう、本当の幸せだ。お前は相手の気持ちを考えたことはあるのか?」
「……あまりない、かも、です」
「全くないだろ?よく考えてみるんだ。後をつけるのは正しいことか?違うだろう。面識のない人の家に勝手に入ることは?無言電話は?……お前にはもう分かるはずだ」
私は頭を木槌で打たれたかのような衝撃を受けました。そんなことは、たった今、初めて考えたからです。私は彼に迷惑なことをしてきたかもしれない。そう思うと、涙がポロポロと零れ落ちてきました。
「……うぅ、ごめんなさい……」
「いいんだいいんだ。分かればそれで」
「……でも、私のこの溢れんばかりの愛はどうすればいいのでしょうか。このままだと、また同じことをやってしまいそうです」
「あー、分かるわー。それ俺も思ったもん」
あるある、と言いながら同意する彼を、同じ趣味嗜好を持った同士のように感じます。また新しい彼の魅力を見つけてしまいました。
「そういうときはな、『離れる』んだ」
「……離れる」
「そう、距離をとるんだ。そうすれば、相手に危害を与えることは絶対になくなる」
「でも、それだと――」
「愛は満たされない」
「はい」
「そんなときは想像するんだ。相手の幸せな姿を。ストーカーの不安から解放され、キャンパスライフを謳歌している愛する人を。そうすると自然と満たされるんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。最初は辛いかもしれないけど、慣れると大丈夫だから」
私は目から鱗が落ちたようでした。彼の本当の幸せ。彼が幸せなら、私はどうなってもいいのです。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのでしょう。彼の幸せを祈る。それだけでいい。
「あなたのおかげで大事なことに気づけました。ありがとうございます!」
「おう、お前もがんばれよ」
「はい!」
こうして、彼と離れてから、1ヵ月が経過しました。私は、彼と距離を置き幸福を祈ることによって、あの時のドロドロとした感情から、慈愛に満ちた美しい感情へと変化していったのです。これがアガペーというものなのでしょうか。
そして、私は少しでも彼に心理的に近づきたくて、彼のやっているであろうキャンパスライフにも挑戦してみました。つまりは、簡単な友人作りです。少し社交的になるだけでこんなに変わるだなんて、夢にも思いませんでした。
私も幸せ、彼も幸せ。
こういうカタチの愛もあるんだなあ
おわり