3.初めまして
今日の授業は午後からだった。
つい昨日まで、フィン達の学年は演習に行っていたからだ。疲れを残さないようにとの、学園からの指示である。
フィンは昼食を寮の食堂で食べ、そのまま教室に向かう。廊下にはチラホラと生徒の姿が見えた。
教室内へ入ると、幼馴染みであるユノとキャロルが近寄って来た。二人の瞳は妙に輝いている。フィンは席に向かいながら、二人の話に耳を傾けた。
「さっき入手した情報なんだけど、今日このクラスに転校生が来るらしいわよ」
キャロルはウキウキとした口調でフィンに話し掛ける。
こういう話はいくら教師が気を付けていても、何故か生徒に漏れてしまうものだ。どういう仕組みなのだろう。生徒の情報収集能力は侮れないものがある。
フィンはキャロルの話に興味をそそられた。この国で転校生など、ほとんど有り得ないからだ。もし本当なら、一体どういう理由で転校することになったのだろうか。
「確か、男の子だって言ってたと思うよ」
ユノが唇の下に指を当てて言葉を紡いだ。
ユノは人見知りで、幼馴染みであるフィンとキャロル以外にはあまり話し掛けない。話し掛けられても顔を赤く染めてしまう。
「男かぁ。どんな奴だろうな」
楽し気にフィンは笑う。
フィンは大抵の人間と仲良くなれる自信があるし、またそれは事実だった。しかし、今まで親友と呼べる存在ができたことがなかった。どんなに仲良くできても、どこかしっくりこないのだ。ユノやキャロルは好きだが、やはり親友ではないだろう。例えるなら、妹のような感覚である。
だから無意識に期待していた。転校生は、自分の親友になる人間であるかどうか……。
扉が開いた時、フィンは自分の心臓が脈打つ音を聞いた。ドクンドクンと力強く脈を打っているのがわかった。興奮しているのだ。しかし、どうやらそれはフィンだけではないようで、教室全体が落ち着かない雰囲気に包まれていた。
入って来たフォルの姿を捉え、後ろに続く者がいないとわかると、大きく落胆した。転校生なんかいないじゃないか――そう思った。だからフォルが「入って来い」とドアの外へ言った時、一瞬頭に入ってこず、黒髪の少年を見て、ようやく言葉の意味を理解した。
扉をゆっくりと開く少年は、想像していたような明るく元気な少年ではなく、むしろ正反対だと言える、暗い感じの少年だった。少しガッカリした。根暗な人間はあまり好きではない。とっつきにくいし、何よりこっちまで暗い気分になりそうだからだ。
フィンは何となく裏切られた気がして机に伏せようとした――が、伏せられなかった。フォルに挨拶を促されて顔を上げた少年が、見たこともないぐらい綺麗だったからだ。フィンだけでなく、他の少年少女も同じことを思ったようで、誰一人として少年から目を逸らす者はいなかった。
濡れたように艶やかな黒髪は、前髪が長く垂れていて少年の顔を見辛くさせていたが、それでも髪の隙間から覗く瞳や鼻筋から、美しく中性的な顔立ちをしていることがわかった。
肌は日を浴びていないのかという程に白い。透ける肌とはこの少年の肌のことかと思うくらいだ。
「夜と言います。これからよろしくお願いします」
声は、まだ変声期を迎えていないようで、少年特有の高さがある。
フィンは夜に感じた暗さにあわせて、儚さのようなものも感じ取った。
――と、夜がそれ以上喋らないことに不満の声が上がる。教室内がまたたくまに騒がしくなった。しかしフォルがその場を治め、一旦は静寂が訪れる。それでも誰かの一言がまたしてもざわめきを生んだ。内容は『家名』がないということだった。
『家名』とは、言わば『名字』のようなものだ。この国では身分の高い人間にしか付けられない。また、この学園に家名がない者はいない。何故なら、身分の高い者と低い者は、住む地域が自然と分かれるからだ。
国は、国が定めた地域の学園に行けと言う。つまり、住む地域が分かれていれば、必然的に、学園に集まるのは同じ身分の者同士になるという仕組みである。
そんな中、夜という少年には家名がない。これは、生徒達にとってかなり重要なことであった。
生徒達は皆身分の高い者ばかりであるが、その中にも階級がある。身分が高ければ高い程、自分のステータスになり、大きな顔ができるのだ。
さらに、夜は家名がないことだけが珍しいのではなかった。『夜』という名前すらも、この学園の生徒達にとっては物珍しい名前だった。少なくとも、この国にそんな響きの名前を持つ者はいないだろう。
これにはフィンも興味をそそられた。響きが綺麗で、「夜」と口にすると、何故か心が落ち着く。まるで前から知っているような気さえする。――こんなに綺麗なのに、どうしてみんなは夜に対して否定的なのだろう?
フィンにはわからなかった。だから思わず声が出ていた。無意識だ。
「――うるせぇよ」
その瞬間、夜の黒い瞳が自分を捉えたことに気付いた。どうしてか、気恥ずかしい感覚に陥る。
こんなこと、今まであっただろうか? 初対面の人間に話し掛けたり、一緒に遊んだりしたことだって数え切れないくらいある。それなのにどうして目が合ったくらいでこんな……。
フィンはよくわからない感覚に振り回された。
「夜と言います。これからよろしくお願いします」
淡白な物言いに、教室内のざわめきが一瞬治まる。しかし、すぐにあちらこちらから「え、これだけ?」「何か冷たそう」という声が聞こえてきた。
「静かにしろ」
そんな生徒達のざわめきを、フォルの鶴の一声が静める。
「お前ももう少し愛想良くしろよ」
夜は意味がわからないと首を傾げた。何故関わったこともない人間に愛想良くする必要があるのだろうか。
『普通な』演技をするつもりだった夜だが、その前に『普通』がわかっていなかった。というより、『普通』の基準が他の人とは違っていたのである。
だが、夜はそれを知らないため、とりあえず頷いてはみたものの、納得はしていなかった。
「つうかさ、あいつ、家名なしだぜ」
ボソリと誰かが呟く。それにまた誰かの声が反応した。
「確かに。名前も変だったしな」
変声期に差し掛かったぐらいの聞き取り辛い声が教室に響く。その少年達の周囲にいた者達も、チラチラと夜を見ながら頷き始めた。
フォルが「やっぱりな」と小さく口にしたのを、夜は聞き逃さなかった。どういうことか訊ねようとした時、低い声が教室の空気を震わせた。
「――うるせぇよ」
あれ程うるさかった生徒達が一斉に口を告ぐんだ。ピタッという効果音が当てはまるくらいに揃っていた。
「本当に。家名がないくらいなんだっていうの。要は性格でしょ。ね、ユノ」
低い声から一転、高く明るい少女の声が響く。
「ね、ユノ」と同意を求められたのは、その少女の隣に座っていた、背の高そうな少女だった。少女は白い肌を赤く染めていたが、「う、うん……」と力強く頷いた。
騒いでいた生徒達は落ち着きを取り戻し、気まずそうに俯く。夜はこれと言って気にしていなかったので、何故こんな空気になっているのか理解できなかった。
フォルは今がチャンスとばかりに、「いいか、俺のクラスで差別は許さない。今回は許すが次はないからな」と忠告した。先程の言い出しっぺ達は顔面を蒼白させ、身を縮まらせている。
「――で、お前の席はあそこだ」
疲れたように肩を揉みながら、揉まれている肩の腕を上げるフォル。指差しているのは、あの「うるせぇよ」の少年付近だった。
よく見ると右隣の席が空いているようだ。あそこが夜の席なのだろう。
「わかりました」
夜は淡々と返事をし、一番後ろの席へと足を進める。途中、ジロジロと不躾な視線や嘲笑を含んだ視線を受けたが、夜が相手にすることはなかった。
夜が席に座ると、「俺はフィン。さっきは大変だったな」と先程の少年が笑い掛けてきた。人懐っこい笑顔だ。深緑の短い髪、二重だが鋭さのあるエメラルドグリーンの瞳、薄めの唇――「うるせぇよ」の少年は整った顔立ちだった。とても、さっき発された低い声の人物とは思えない。
「どうも……」夜は警戒していた。このフィンという少年は、恐らくクラスのリーダー的存在。先のやり取りでそう感じた。
「転校生なんて珍しいもんだから、みんな興奮したんだと思う」
フィンは夜の素っ気ない返事も気にせず、積極的に話し掛けてくる。夜はそれに対して「はぁ」とか「いえ」など、事務的に応えるのみ。どうしてこんなに構ってくるのか不思議でならなかった。
フィンは、夜が自分の隣の席だと知ると、さらによくわからない感覚に襲われた。だが同時に嬉しく思った。
何と話し掛けようか、夜がこちらに来るまでの短い間にいろいろ考える。自分のことやこの学園のこと、話題はいくらでもあった。
フィンはふと夜の方を見る。一番後ろの席ということで、来るまでに沢山の席の間を通らなければならない。そのため、途中何人かに絡まれているようだ。
フィンはカッとしたが、よく見ると夜はさほど気にしていない様子で、淡々としている。その姿を見て、フィンの昂りはスッと静まった。
そういえば、先程の挨拶の時も夜はあまり気にしていないようだった。というよりも、興味がなさそうにしていた気がする。
フィンは、段々と自分に近付いて来る夜から目が離せなくなった。そして夜が隣に座ったと同時に、思わず話し掛けていた。
「俺はフィン。さっきは大変だったな」
なるべく悪い印象を与えたくなくて、声がいつもより高くなる。
「どうも……」
夜の反応は薄く、フィンは一瞬困惑した。こんな返事をされたことがなかったのだ。フィンに話し掛けられた相手は、たいていにこやかに微笑んだり、嬉しそうな表情で言葉を返してきた。中には緊張で強張った顏になった者もいたが、夜のように素っ気ない態度をされたことは一度もなかった。
そのため、フィンはどうしていいかわからなかったが、それでも夜に構うのを止めたりはしなかった。
夜の冷たいとも言えるその対応に寂しさを感じないことはないが、無視はされていない。そのことにフィンは気付いていたのである。
夜と友達になりたい――そう思った。それどころか、夜とだったら親友になれるかもしれないとまで思えた。出会ってからたった数分でそんなことを思うなんて、随分おかしいことだというのは自分でもわかっている。でも、そう思わずにはいられないのだ。フィンは無表情の夜の横顔を見て、その気持ちが強くなるのを感じ取った。
(初めまして、夜――)
再度――今度は心の中で――挨拶し、フィンは表情を和らげたのだった。