2.コーヒーの味と緊張感
キースと別れ、黙々と学園の敷地内を歩く夜。理事長と約束していた時間は九時だったことを思い出し、少し足を速める。
敷地はかなり広いが、道は舗装されているので、迷うことはなかった。
入口らしき所へ着くと、初老の男が一人立っていた。男の頭には、白いものが目立ち始めている。
夜が近くまで行くと、男は顔を上げた。
「こんにちは。私の学園へようこそ。理事長のクルスだ。君は夜君で間違いないかい?」
温和そうな、けれど厳格な雰囲気も含んだ声。キースとは似ていない。
夜は「はい。これからよろしくお願いします」と答え、礼儀正しくお辞儀した。
本当は、『夜』という名前はこの国では珍しい名前――というか、ほとんどいない――で、目立ってしまう可能性があったため、偽名を使おうと考えていた。
だが、キースがそれに反対した。「友達から偽名で呼ばれるのって嫌でしょ?」と。夜自身は、別に偽名で呼ばれたところで何も感じないうえ、『友達』なんていう存在をつくるつもりもなかったので、キースのその言葉に戸惑った。
結局、自分のそんな考えを言うとキースに怒られそうで言えず、本名で登録することにしたのだった。
「では夜君、ついて来なさい」
慣れない声で自分の名前を呼ばれることに違和感を覚えつつもしょうがないことと諦め、クルスの後を歩く。
建物内に入ると、急に身体が重くなった。
夜は不思議に思ったが、クルスの話を聞いているうちに謎は解けた。
学園には魔物が入って来られないよう、結界が張ってあるらしい。理事長であるクルス自らが張っただけあって、その効果は相当なものなのだろう。
(どうりで……)
夜は魔物ではないが、実は、魔物の血が少なからず流れていた。そのため、僅かだが結界が効いてしまうのである。
しかし、特別体調が悪くなるわけでもなく、ただ身体が重いだけ。建物を出ればその重さも感じない。少なくとも学園生活に支障が出ることはなさそうだ。
夜は安堵し、クルスの話に再び耳を傾けた。
二人が理事長室に入ると、一人の女が書類をファイルに綴じているところだった。
赤い髪をした、随分と美人な女だ。眼鏡を掛けているせいなのか、知的に見える。
「お帰りなさい、理事長」
女にしては若干低めの声だったが、耳触りの良い声だ。
「その子が転校生の……?」
女が夜を見る。
「そう、夜君だ」
クルスは立ち位置を少しだけずらし、夜がジュリアを、ジュリアが夜を見やすいようにした。
「夜君、この女性は秘書のジュリア」
ジュリアが椅子から立ち上がる。意外に背が高く、ざっと見ても百七十はありそうだ。
「ジュリアです。よろしくね」
赤い瞳がレンズ越しに夜を見つめる。
何だか値踏みされているような気がして、夜は視線を逸らした。
「夜です。よろしくお願いします」
無難に挨拶を交わし終えたところで、クルスがジュリアに飲み物を頼んだ。
「夜君は何がいい?」
「あ……何でもいいです」
「そうかい?」
「ならコーヒーを二つ持って来てくれ」とクルスがジュリアに追加注文する。
ふと、キースを思い出した。
こんな時キースなら、何を言わなくてもコーヒー以外の飲み物を持って来てくれる。嫌いな物、好きな物、言わなくてもわかってくれていた。
夜がぼんやりしていると、クルスが肩を叩いた。
「どうかしたのかい?」
そう言いながら、夜の顔を覗き込む。
夜はハッとして、「いえ、何も……」と、失礼のない程度にクルスの手を退ける。
クルスは不思議そうな顔をしていたが、深くは追究してこず、「それならいい。さぁ、そこのソファにでも掛けて」と笑った。
「理事長、コーヒーお持ちしました」
夜とクルスがソファに座った丁度その時、ジュリアが銀のトレイにカップを二つ乗せて現れた。
「ありがとう」
クルスが二つとも取り、夜の前に一つ置く。コーヒーは黒々としていて、表面に顔は映っていなかった。
「どうもありがとうございます」
夜はお礼だけ述べて、コーヒーには手を付けない。しかし、訝しまれないよう、カップの容器を持つなどしていた。
「ところで、夜君は転校してきたみたいだが、ここに来る前はどこにいたんだい? 書類には書かれていなくてね」
クルスが苦笑する。夜はこれに関しては聞かれるだろうと予測していたため、前から考えていた答えを口にした。
「すみません。諸事情があったので……」
俯き、困ったような表情を張り付ければ、夜の思った通り、クルスは首を傾げている。
「どういうことか教えてくれるかな」
「はい。あの……僕の名前からもわかると思いますけど、僕、最近までこの国の管轄外にいたんです。ここへ来たのは、両親が事故で死んでしまったからなんです。両親が事故にあったことを知った親戚の方が、僕をこちらに引き取ってくださって……」
嘘が滑らかに口を滑る。人と話すことは苦手だが、今はあらかじめ覚えておいた台本通りに演技を進めていくだけということもあり、さほど緊張はしなかった。
「そうだったのか……。急な引っ越しで大変だったろう?」
「いえ、大丈夫です。――それで、この国はあまり他国の人間を受け入れないでしょう? だから書類にも書き辛くて……」
夜が申し訳なさそうに眉を寄せると、クルスは「いいんだ。気にすることはない。君の言っていることも正しいしね」と微笑んだ。
「この国は少々閉鎖的な部分があるから、夜君が書き辛かった気持ちもわかる」
「でも重要な書類だからね。こんどからはきちんと書いてもらうよ?」クルスが軽く片目をつぶる。初老であるにも関わらず、その行動に何の違和感も感じさせない。むしろ、どこか可愛さを感じてしまう。
夜は「もちろんです。本当にご迷惑お掛けしました」と頭を下げた。内心ではホッとしながら。
ジュリアが隣からクスクスと小さく笑い声を上げる。夜もクルスもジュリアの方を見る。
「すみません。でも、夜君があまりに大人っぽいなと思いまして……」
赤い瞳が、またしても夜の揺れる瞳を捕らえる。ジュリアは笑っているはずなのに、どうしてか酷く冷めているように感じた。
「確かに夜君は落ち着いているね。私の学園の生徒達に混ざると、初めは戸惑うかもしれない」
クルスは冷たさを感じていないのか、面白そうに笑っている。夜は笑えなかった。
ジュリアのあの冷たい瞳は何なんだろうか。それに、自分だけに向けられる、あの居心地の悪い視線の意味は――?
そんなことが頭に残る。
「では、余談もここまでにして、この学園について簡単なことを教えようか」
クルスは夜の手元にあるコーヒーを一瞥し、「飲まないのかい?」と尋ねた。夜は仕方なく「いただきます」と、一口だけコーヒーを口に運ぶ。久しぶりに飲んだコーヒーの苦味は、しばらく夜の舌を苦悶させることになった。
クルスの話を一通り聞き終えた夜は、ふとこれから住む場所のことを考えた。クルスの話を聞く限りでは、寮で暮らすことになるらしいが、何人部屋なんだろうか。
「……あの、寮って何人部屋なんですか?」
自分から話し掛けることは苦手だが、何とかできた。何せ、これは夜にとってとても大事なことだから。
身構えている夜に、クルスが不思議そうな表情を見せながら「部屋は二人部屋だが……」と答える。その瞬間、夜は絶望ともいえる感覚に襲われた。
キースとでさえも一緒には暮せなかった。それなのに、見知らぬ他人と同じ部屋で生活するなど耐えられるか? いや、耐えられない。
夜の顔色が段々悪くなっていく。クルスが心配そうに「大丈夫かい?」と顔を覗き込んだ。
「……大丈夫です」
明らかに「大丈夫」という顔色ではないが、夜の纏う雰囲気に、クルスはそれ以上何も言えなかった。
「では、今から君の担任の先生に迎えに来てもらう」
そう言って、クルスは「理事長室」と呟く。すると、一拍置いてから理事長室のドアが叩かれた。
「フォルです」
若そうな男の声がドア越しに聞こえる。何となく不機嫌そうだ。
「入って来てくれ」
クルスの言葉を聞いたのか、ドアがゆっくりと開かれる。キィ……という、軋んだような音が鳴った。
「失礼します」
現れたのは、ジュリアよりも黄みがかっていて、火のような濃く明るい赤色――緋色の髪をした男だった。
男は声の通り、不機嫌そうに目を細めている。細め過ぎていて、瞳が何色かわからない。
「いきなり呼んですまない」
クルスが苦笑して謝罪の言葉を口にする。すると、「……そうですね、いきなり過ぎです。転移させる前に、一言念話で伝えてくださいと前から言っているのに……」と男が文句を言った。
理事長であるクルスにこんな口が叩ける男は一体何者なんだろうか。クルスは担任と言っていたが、上司に対してこんな物言いをしていいのか。……疑問は尽きない。
「まぁ、そう言わないでくれ。君の生徒になる夜君を迎えに来て欲しくてね」
クルスは長くなりそうだった男の話を遮り、無理矢理話を変えた。おかげで男の視線が夜に移る。
「……夜です」
クルスやジュリア、見知らぬ男からの視線を感じ、若干緊張が走った。
ぼそりと呟くようなか細い声に、男がさらに目を細める。
「お前の担任になるフォルだ。後でクラスでも挨拶してもらうが、その時もそんな挨拶なら許さない」
鋭く冷たい声だった。だが、その声に夜が脅えることはなかった。
「わかりました」
淡々と返事を返す。夜にとったら、こういう性格の人間の方が接しやすかった。クルスのような柔らかく温かい人間には慣れていないのだ。
「じゃあよろしく頼んだよ、フォル先生」
クルスがにこりと微笑み、次いで、夜を見遣った。
「学園で何かあったら私のところへ来なさい。できる限り力になろう」
「……ありがとうございます」
夜は何だかクルスの顔を見れず、深々と礼をしながら感謝の言葉を述べた。
「では失礼します。……行くぞ」
フォルが理事長室を去る。夜も後について行く。
ふいに、途中から全く会話に入ってこなかったジュリアを思い出した。確か、フォルが現れてからだ。急に存在を薄くしていたのは……。
そう思い、フォルの後ろ姿を見つめる。
(一体何者なんだろう)
夜は、自分の中に潜ませた仕事用の顏がずくずくと疼き、外に出たがっているのを感じた。
フォルは後ろから感じる気配に気付いていた。
(このガキ……。まだ十五歳の子どもが出せるような気配じゃない。いや、大人だって滅多にいないぞ、こんな暗い空気を放つ奴は……)
フォルの後ろにいる子ども――夜からは、殺気に近いものが醸し出されていた。
フォルはそっと懐に手を忍ばせる。万が一攻撃して来たら、迅速に対応できるように……。
夜の気配が動く。近付いて来ているようだ。
無表情を装うフォルのこめかみから、ツゥ……と一筋の汗が流れ落ちた。
懐に忍ばせている右手に力を込めた時、ふっと夜からあの重苦しい空気が消えたのを、フォルは敏感に感じ取った。それでも気を許さないように、探りは入れたままにしておく。
(一体……どういうことだ?)
夜が近付いて来ていると感じたのは正しいはずだ。しかし、それ以上は一向に近付いて来る気配がない。後ろを向いて確認したくとも、何故かフォルの第六感みたいなものがそれを拒否する。
結局クラスに到着する頃になっても、夜は何もしてこなかった。自分の杞憂かと安堵したものの、しばらくは夜に注意しておくべきだなと思ったのだった。
クラスに着くまでの間、フォルは一言も話し掛けてこなかった。それが辛いわけではなかったが、些か気まずさを感じた。
これからのためにも、『普通な』演技をしておくべきなのだ。わかってはいる。しかし、どうにも心が落ち着かなかった。話し掛けようと思っても、口を開いたら何を言うか、自分でもわからなかった。
夜は表情を変えぬまま心中で反省し、自分の中で騒ぎ立てる何かを抑えた。
「……ここがお前のクラスになる場所だ」
クルリと振り向いたフォルからの眼差しは、何故か理事長室にいた時よりも厳しいものになっていた。夜にはその原因が何かはわからない。だが特に気にすることもなく、「ありがとうございます」と無難にお礼をした。
フォルはじっとそんな夜の姿を見ていたが、フイッと教室のドアへ顔を向けた。そのままボソリと「……問題を起こすなよ」と呟いたのを夜は聞き取る。「わかりました」と返事をしたものの、その顔はスッと陰を帯びさせていた。
フォルは先に教室内へ入って行き、夜はフォルの合図で入って来いとのことだった。廊下にて合図を待っている間、夜はフォルについて考えていた。やはり何かあるのだろう――と。 職業柄、相手を観察することは得意だ。フォルから感じたのは、一介の教師の気配などではない。
十分に警戒しておかねばならないと思った時、教室内から「入って来い」という声が聞こえてきた。夜は気持ちを切り替え、演技に集中する。
足を一歩踏み入れると、様々な視線が夜に集中した。
見ることは得意だが、見られることには慣れていない。夜は俯き気味に教壇の上に上がった。
「今日からこのクラスの生徒になる夜だ」
フォルは一言そう言って、夜にバトンタッチする。夜はどうすればいいかわからず、突っ立ったままだ。
呆れたようにフォルが耳打ちした。
「自己紹介しろ。挨拶してもらうと言っただろう」
そういえば……と夜は思い出す。確かに理事長室でそんなことを言っていた。慣れない状況に身を置いているため、頭が働かなかったのだろう。
夜は顔を上げ、眼前に広がる他人の群れをしっかりと視界に捉えた。