牛になれ
母の飼い葉を刻むのは、俺の朝の仕事だ。
夜のうちに湿気を吸った麦藁を、鉈で三寸ずつ落としていく。母は歯が弱い。牛になっても人だった頃の癖は残るらしく、長いままだと噛み切れずに口の端から零してしまう。三寸。それが母の寸法だ。
牛の間は台所の隣にある。この国の家はどこもそうだ。壁一枚を挟んで、人の食卓と飼い葉桶が背中合わせになっている。飼い主は牛の咀嚼を聞きながら飯を食い、牛は人の話し声を聞きながら藁を食う。家族なのだから離すな、と法に書いてある。
「母さん。朝だ」
書類の上では三二七号だが、家でその番号を使ったことは一度もない。
母はもう起きていた。牛籍に移ると眠りが浅くなる。戸を引くと、母は首を巡らせて俺を見た。黒くて濡れた、底の見えない目だ。三年経っても慣れない。人の目より大きいのに、人の目よりずっと読めない。
飼い葉を桶に落とすと、母が顔を突っ込んだ。湿った草の匂いと、獣の体温の匂いが立つ。牛は人より二度ばかり体が熱い。だから冬は、この部屋のほうがあたたかい。
今朝は藁が足りなかった。昨日、刻む前に鉈の刃を研いでいて、そのぶん束をひとつ開け損ねている。桶の底が早々に見えた。
母は食い終わると、桶の縁を蹄で打った。
コツ、コツ、コツ。
いつもならここで俺が藁を足す。足せば母はやめる。だから足りないと言っているのだと、三年ずっと思ってきた。
今朝は足せない。
母は間を置いて、もう一度打った。
コツ、コツコツ、コツ。
それから静かになった。
三つと、四つ。妙な打ち方をするな、と思った。思っただけだった。俺は戸を閉めて支度をした。遅れると主任がうるさい。
牛は言葉を失う。牛籍法の第一条にそう書いてある。転換吏の試験でも、いちばん最初に暗記させられる条文だ。声帯が変わるから話せない、という意味ではない。話さなければならないことが、もう何もなくなるからだ——と教本にはある。俺は十九のときにそれを覚えて、今でも一字違わずに言える。
◇
通りはもう働いていた。
「よく働け」
「よく働け」
すれ違いざまに交わすのはそれだけでいい。この国では朝の挨拶がそれだ。天気の話も、体の具合の話もしない。
具合の話は、しないほうがいい。
石炭を積んだ荷車が坂を上っていく。曳いているのは牛で、脇を歩く男は綱を持っているだけだった。牛の首に借上げ札が下がって、鳴っている。役牛を一日借りると、人を二人雇うより安い。人には人頭税がかかり、牛には飼い葉しかかからないからだ。麦藁は安い。
路地では子供が三人、団子になって転がっていた。下敷きになった痩せたのが、砂を吐きながら叫ぶ。
「牛になれ! お前なんか牛になれ!」
井戸端の女がひとり、面倒くさそうに「およし」と言った。本気で叱る声ではない。この国で一番よく使われる罵り言葉で、役立たず、という意味で使う。うちの前でも月に何度か聞く。俺は足を止めない。止めたところで、意味が変わるわけでもない。
◇
転換所は町の南、屠場の跡地に建っている。牛籍に移った者を殺すわけではないのに、なぜここが選ばれたのか、俺は誰にも聞いたことがない。聞けば答えは返ってくるだろうし、その答えを聞いてしまったら、明日から鉈を握る手つきが変わる気がする。
処理場は建物の奥だ。石を積んだ四角い部屋で、窓は西にひとつきり。昼前は光が入らないから、天井から吊った灯をひとつ落として使う。壁は塗っていない。塗ると、拭いたときに剥がれるからだ。
部屋の中央に台がある。石で、腰の高さで、四隅が丸めてある。角があると、転換の途中で人が転げて怪我をするからだ。
床には浅い溝が切ってある。牛が滑らないためだ。そこまで考えて造った人間が、この国のどこかにいたわけだ。
一件目は昼前に来た。
ヨナス・ハルト。六十八。石工。付き添いは息子夫婦。
俺は人籍簿を開いて、小刀でその名を削った。牛籍に移す手続きというのは、要するに紙を削る作業だ。墨で消してはいけない。読めてしまうから。紙の繊維ごと持っていって、そこに何も書かれていなかったことにする。削り屑は小皿にたまる。日に三度、窓から捨てる。
削った分だけ、牛籍簿に番号を書く。四一二号。
飼い主の欄に息子が署名した。指が震えて、名前の頭が撥ねた。嫁のほうは震えていなかった。飼い葉代の見積もりを、朝からずっと頭で弾いている顔だった。俺はどちらの顔も何百と見ている。責める気はない。この制度は、そういう顔をした人間を前提に作られている。
ヨナスが台に上がる。息子は台の右、嫁は戸口の側に立った。付き添いはたいてい二手に分かれる。近いほうが泣く側で、遠いほうが数えている側だ。
「ヨナス・ハルト。汝は人籍を返上した」
俺は言う。ここまでは書類でも足りる。足りないのはこの先だ。
「牛になれ」
声に出さなければ移らない。それが法だ。判子でも署名でも移らない。転換吏が口で言って、初めて人は牛になる。子供の罵り文句とまったく同じ四文字を、俺は職務として一日に何度も唱える。慣れた。慣れたが、唱えるたびに舌の上に鉄の味がする。
ヨナスの背骨が鳴った。
順番がある。まず背が伸びて、それから膝が逆を向く。指はいちばん最後だ。指が減っていくとき、人はたいてい自分の手を見ようとする。ヨナスも見ようとした。首がもう回らなかった。息子が目を逸らした。嫁は見ていた。
終わって、台の上に牛が一頭。立てずにいる。産まれたてと同じで、最初は誰も立てない。息子が縄を掛けて引いた。蹄が溝に噛んで、三歩目でようやく歩幅が揃った。
「今日は静かなほうだ」
主任のバルドが茶を啜りながら言った。暴れる者はいる。台から降りて逃げる者もいる。逃げても、四つ足になった後では戸口の段差を越えられない。
◇
午後に来たのは、十六の娘だった。
手は荒れていたが、指は全部動いていた。背筋が伸びていて、目の下にも隈がない。飯を食えている顔だ。俺はそれを見た上で、申請書の理由欄を三度読んだ。
【転換希望理由】 妹と弟に食わせるため。
「名前は」
「ミレ」
「病気は」
「ありません」
「怪我は」
「ありません」
「なら受理できない」
「できます」
娘は即座に言った。詰まらなかった。息継ぎの位置まで決めてきた喋り方だった。
「牛籍法第三条の四。健康な者でも、家に養う口が二つ以上あって、収入が課税線を割っている場合は、本人の意思で申請できます。うちは三つです。私と、妹と、弟」
三条の四。第一条が牛の定義で、第二条が飼い主の義務、第三条が申請の要件だ。つまりこの法律は、最初のほうにそれを置いている。例外としてではなく、そういう仕組みなのだと、最初に言っている。
貧しい家の子供はたいてい暗記している。歌みたいにして覚える。
俺も十九のとき、同じ条文を唱えた。
俺は受理印を取り上げた。取り上げたまま、下ろせなかった。
◇
印を下ろせなかった理由を、俺はそのとき、自分にこう説明した。
書類に不備がある。
実際あった。飼い主欄にはもう名前が入っていたが、証人欄が空だった。牛籍への移行は、飼い主の署名だけでは足りない。近隣の人籍者がひとり、その飼い主を「養う意思と能力がある者」として保証しなければならない。形式的な規定で、たいていは隣人が判を押して終わる。
「証人欄が空だ」と俺は言った。
「三日以内に埋めてこい。埋まらなければ差し戻す」
「三日」
「決まりだ」
娘は書類を見て、それから俺を見た。何かを見抜かれた気がして、俺は次の紙を引き寄せた。
「わかりました」
足音が遠ざかってから、俺は飼い主欄の名前を読んだ。
ガレン・ロッタ。
◇
「ガレンか」
バルドは茶を淹れ直しながら言った。この男は一日に七回茶を淹れる。一件処理するごとに一回だ。それが数え方なのだと気づいたのは、勤めて半年経ってからだった。
「知ってるんですか」
「牛を三頭潰した」
湯気の向こうでバルドの顔が滲んだ。
「潰したというのは」
「働かせすぎて死なせた。飼い葉を削って、その分を働かせる。三年で三頭だ。四頭目を今仕込んでる」
「訴えは」
「出てない。出しても通らん」
バルドは茶碗を置いた。
「法定飼い葉量に下限がないからだ。上限はある。太らせすぎて働けなくなると税の等級が変わるからな。下は誰も決めなかった」
俺は何も言わなかった。
「第二条を暗唱してみろ」
「牛の稼ぎを受け取る者は、その牛の扶養家族を引き受ける」
「引き受ける、だ」
バルドは繰り返した。
「食わせろ、とは書いていない。屋根の下に置け、とも書いていない。引き受けた家族を官営牧場へ出しても、第二条は破っていない。牧場は国の施設だからな。国が引き受けたことになる」
俺は自分の指を見た。朝、藁を刻んだときの匂いがまだ残っていた。
「あの娘の家は、子供が二人か」
「妹と弟です」
「なら牧場だな」
バルドは言った。
「官営牧場は去年、三百人入って、人籍のまま出たのが十一人だ。残りは十六の誕生日に牛籍へ回る。書類の上では保護で、実務は仕込みだ」
三百のうち十一。俺は指を折りかけて、やめた。
「娘のほうが先に潰れるか、子供が十六になるのが先か。どっちにしろ、ガレンは損をしない」
◇
その日の勤めが終わってから、俺は南通りの家を見に行った。
用はなかった。証人欄が埋まるかどうかは三日後にわかる。それでも俺は歩いていた。
家は坂の下にあった。屋根が低く、壁の漆喰が右半分だけ塗り直してある。塗り直した側だけ新しくて、まだ白い。誰かが去年、片側だけ直す金を作ったということだ。
戸は開いていた。土間に薄い明かりがひとつ。獣脂の灯で、油が悪いから黒い煙が上がっている。
娘が牛の間を掃いていた。
牛の間には、何も入っていなかった。
薪と、割れた甕と、古い籠が積んである。物置になっていた。この家は誰も出したことがないのだ、と俺は思った。台所の隣に牛の間があって、そこに三年も十年も牛がいない家。この国では珍しい。珍しいということは、この家がずっと、ぎりぎりのところで持ちこたえてきたということだった。
娘が振り返った。
「証人欄は明日埋まります」
挨拶より先にそれが来た。
「隣のヴェラさんに頼みました。判は持っています」
「そうか」
「他に不備はありますか」
俺は答えなかった。土間の奥から小さいのが二人、顔を出したからだ。
女の子のほうが九つくらい、男の子は六つに見えた。女の子は俺の上着の襟の徽章を見て、それが何かを知っている顔をした。男の子は知らない顔をしていた。
「ティナ、ロウ。奥へ」
二人は引っ込んだ。引っ込む前に、女の子のほうがもう一度こっちを見た。
「あなたは何を確認しに来たんですか」
娘は箒を持ったまま言った。
「不備を確認しに来た」
「不備は明日なくなります」
「そうか」
「冬税は十日後です」と娘は言った。
「払えなければ、うちは滞納で三人とも移されます。子供は移せないので牧場です。それも法です。私はそれを知った上で申請しています。だから、確認することはもうありません」
俺は戸口に立ったまま、その台所を見ていた。
十九のとき、俺は自分の家の同じような台所で、母に条文を読んで聞かせた。声に出して、二度読んだ。母は鍋を掻き回しながら聞いていて、一度も振り返らなかった。
◇
翌朝、母を出した。
役所の牛借上げは月に十八日ある。朝、戸口の前に取り立ての男が来て、首に札を掛ける。木の札で、番号と行き先が焼き印してある。三二七、東採石場。
軛をつけるのは飼い主の仕事だ。俺がやる。革が硬くて、冬は特に噛み合わせが悪い。母は首を下げて待っている。この姿勢を覚えるのに、最初の年は半年かかった。
母が坂を上っていくのを、俺は戸口から見ている。
稼ぎは飼い主の口座に入る。俺の口座だ。転換吏の給金は月に四百二十で、母の役牛賃は月に五百六十だ。石を積む月はもう少しいく。
つまり俺は、母に養われている。
三年前、そのことに初めて気づいた晩、俺は牛の間で吐いた。今は吐かない。吐かないというだけで、何かが解決したわけではない。ただ、吐かなくなるということが起きただけだ。
◇
ガレン・ロッタは、その日の午後に転換所へ来た。
娘の件ではなかった。別件だ。五十過ぎの男を一人連れてきて、自分が飼い主になるという。男は肺をやられていて、喋るたびに笛のような音がした。
書類は完璧だった。証人欄まで埋まっていた。
「早いな」とバルドが言った。
「慣れてますから」
ガレンは大きい男ではなかった。むしろ小柄で、指の爪がきれいに切ってある。声がよく通る。
「吏の方。飼い葉の等級、二等でお願いします」
「一等にはしないのか」
「二等で足ります。うちの牛は三頭とも二等でやってました」
三頭とも、と男は言った。過去形であることを、この男は隠しもしなかった。隠す必要がないからだ。
「牛一頭で人二人分です」とガレンは言った。俺にではなく、部屋の空気に向かって言うような喋り方だった。
「人を二人雇えば人頭税が二人分。牛は税がかからない。飼い葉が二等なら月に八十。差し引きで月に三百浮く。三年で一万を超える。これは私が偉いんじゃなくて、そういう法なんです」
バルドは茶を啜っていた。
俺は書類に判を押した。押しながら聞いた。
「南通りのミレという娘の申請、あんたが飼い主だな」
「ええ」
「妹と弟がいる」
「牧場に出します」
ガレンは即答した。
「引き受けはします。第二条どおりです。ただ、うちには子供を置く部屋がないので」
「部屋はあるだろう」
「ないと私が言えば、ないんですよ」
男は笑わなかった。笑えば嫌味になると知っている顔だった。
「吏の方。私は法を破っていません。一度も」
それは本当だった。
◇
ガレンが帰ったあと、バルドが四杯目を淹れた。
「クルト」
「はい」
「お前、母親のときも同じ顔をしていたな」
俺は顔を上げた。
「……いたんですか」
「立ち会いだ。あのときは俺が唱えた」
バルドは湯気を吹いた。
「覚えてないだろう。覚えてない顔をしていた」
覚えていなかった。三年前のあの部屋のことは、床の溝の数まで覚えているのに、誰が唱えたかだけが抜けている。
「弟がいた」とバルドは言った。
「え」
「俺の弟だ。二十年前に移した。俺じゃない、当時の吏がやった。俺は付き添いだ」
バルドは茶碗を両手で持っていた。この男が両手で持つのを、俺は初めて見た。
「飼い主欄に、俺は自分の名前を書かなかった」
「なぜ」
「書けば養う義務が来る。俺には女房と子供がいた。だから叔父に書かせた。叔父は三年で弟を潰した」
バルドは言った。
「書けば養えた。書かなかった。それだけの話だ」
窓の外で荷車が通った。牛が曳いていた。
「慣れろ」とバルドは言った。
「慣れないと、お前が先に潰れる」
◇
三日目の朝、転換所の門の前に子供が立っていた。
南通りの家で見た女の子だった。ティナ。九つ。裸足ではなかったが、靴の底が剥がれかけていた。
「あんた、姉ちゃんのとこの人」
「そうだ」
「姉ちゃんは牛になったら、うちに帰ってくる?」
俺は門の柱に手をついた。
「帰ってくる家が、変わる」
「どこ」
「あんたも一緒に行くところだ」
嘘ではなかった。牧場も、行くところではある。
女の子はしばらく俺の顔を見ていた。それから「ふうん」と言って、坂を下りていった。走らなかった。九つの子は普通、走る。走らない子は、走ると何かが決まってしまうと知っている子だ。
俺はその日、一件も処理しなかった。バルドは何も言わなかった。茶は七杯淹れていた。
◇
その晩、眠れなかった。
寝床で天井の梁を数えて、十一本あることを三度確かめて、それから起きた。
台所の灯をつけた。獣脂の灯を持って、牛の間の戸を引いた。
母は起きていた。
牛籍に移ると眠りが浅くなる。三年、俺が夜中に戸を引くたび、母はいつも起きていた。俺はそれを、牛だからだと思っていた。
灯を桶の脇の梁に掛けた。光が下から当たって、母の首の下に長い影ができた。冬の夜で、俺の吐く息は白いのに、この部屋だけは白くならない。
俺は桶の前にしゃがんだ。
「母さん」
母が首を巡らせた。
俺は藁を持っていなかった。持ってこなかった。何のために来たのか、そのときはまだ自分でもわかっていなかった。
母が桶の縁を打った。
コツ。
コツ。
コツ。
三つ。
いつもならここで、俺は藁を足す。三年、毎朝そうしてきた。三つ目が鳴ったら手が動く。考えるより先に動く。そうやって足せば母はやめるから、俺はそれを「足りない」の合図だと決めて、三年決め続けてきた。
手を膝の上で押さえた。
間があった。長かった。
それから、
コツ、コツコツ、コツ。
四つ。
三つと、四つ。
俺は灯を見た。灯芯が揺れて、母の影が壁を撫でた。
三と、四。
三条の四。
声が出なかった。息を吸ったところで喉が止まって、そこから先が動かない。
それから立った。立って、壁際の藁の束に手をかけていた。掴んでから、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。桶に落とそうとしていた。三年、三つ目が鳴ったら手が動く体になっていて、その手が、四つ目を聞いたあとでもまだ動こうとしていて、落とせば音が埋まって、埋まれば今夜もなかったことになって、明日の朝もそうして、そのあともずっと、母が死ぬまで、俺は毎朝この手で、この手で。
束が落ちた。
自分で放したのか指が開いたのか、分からなかった。藁が床に散って、二本三本が桶の縁に引っかかった。母は動かなかった。餌が落ちたのに、顔を入れなかった。
俺は膝をついた。牛の間の床は冷たい。溝が切ってある。滑らないように、誰かが考えて切った溝だ。
「母さん」
母は俺を見ていた。
「三条の四か」
コツ。
一つ、打った。
◇
十九のとき、俺は台所で条文を読んだ。
転換吏の口述は条文の暗唱から始まる。試験は春で、俺は冬のあいだ、飯のあとに教本を開いていた。第一条から順に、声に出して覚える。三条まで来たのが、その晩だった。
声に出して、二度読んだ。母は鍋を掻き回していて、振り返らなかった。読み終わってから、俺は「読んだだけだ」と言った。言い訳のつもりだった。十九の頭で考えた、精一杯の逃げ道だった。
三日後に、母は転換所に行った。
俺は付き添いとして立ち会った。書類には母が署名した。俺の字ではない。俺は署名していない。飼い主欄に俺の名前を書いたのは、そのあとだ。
俺はそれを、順序が違うだけの同じことだと思って生きてきた。
俺が読んだから母が行った。俺が母を牛にした。三年、そう思って毎朝藁を刻んできた。刻む手が丁寧なのは、そのせいだ。三寸に揃えるのは、揃えている間だけは自分を責めなくていいからだ。
母は三年間、毎朝、それを否定していた。
私が申請した。三条の四で、私が。
毎朝だ。毎朝、三つ打って、俺が藁を足して、四つ目が藁の音に埋もれて、それで終わっていた。三年で千回を超える。千回、母は同じことを言って、俺は千回、餌をやることでその言葉を消していた。
俺は膝をついたまま、しばらく動けなかった。
それから、聞いた。三年、一度も聞かなかったことだ。
「痛かったか」
母は間を置いて、桶の縁を打った。
コツ。
一つ。
喉の奥が塩辛くなった。俺は指を組んで、膝に押しつけた。
「俺のせいだと、思ったか」
母は打たなかった。
俺は待った。灯芯が二度爆ぜるまで待った。母は俺を見ていた。黒くて濡れた目でまばたきをして、それだけだった。
打たないことが「違う」なのか、「答えない」なのか、俺には決める手立てがない。一つ打てば「はい」だ。それは今わかった。だが「いいえ」の打ち方を、俺たちは三年かけて作らなかった。作る必要がなかったからだ。母は毎朝ひとつのことしか言わなくて、俺は毎朝それを藁で埋めていた。
「今、何を考えてる」
言ってから、答えられない問いだと気づいた。
母は首を伸ばして、桶の縁を蹄で擦った。長く、一度だけ。打つのとは違う音だった。それが言葉なのか、ただの動作なのか、俺にはわからなかった。
わからないまま、俺はうなずいた。うなずくのは、こちらの都合だ。
◇
仕方がなかった。あれは仕方がなかった。俺が押したんじゃない、法がそうなっていた、飢えていた、十九だった——三年使ってきたその言葉が、全部使えなくなった。母が自分で選んだのなら、あの選択は「仕方なく起きたこと」ではない。選べる場所に人が立たされて、選んだのだ。
俺は立って、灯を取った。
寝床には戻らなかった。台所に座って、夜が明けるまで小刀を研いだ。人籍簿から名を削る刃だ。よく研げば削り口がきれいになる。きれいに削れた紙は、そこに最初から何も書かれていなかったように見える。
朝になれば、俺は出勤する。
◇
四日目の朝、ミレが証人欄を埋めて来た。
隣家のヴェラという女の判が、丁寧に押してあった。滲みも欠けもない。何度か練習した押し方だった。
「不備はなくなりました」
俺は書類を受け取って、机に置いた。置いたまま、印を取らなかった。
「差し戻す」
「理由は」
「健康な者の申請だ」
「三条の四です」
「知っている」
「一度差し戻されました」ミレは言った。
「二度目は使えません。差し戻しは一件につき一度までです。牛籍法施行細則の十一。あなたが今それをやったら、規則違反はあなたのほうです」
バルドが茶を淹れる手を止めた。
俺は娘を見た。荒れた手を体の前で組んで、まっすぐ立っている。十六だ。
「隣町へ行く手もあります」とミレは言った。
「南街道を歩いて二日。あっちの転換所には、あなたが触っていない申請書が届きます。飼い主欄に、ガレンさんの名前が入ったままの書類が」
「……」
「あなたが黙っても、何も止まりません」
部屋が静かになった。窓の外で荷車が通って、牛の首の札が鳴った。
俺は引き出しを開けて、小刀を出した。
人籍簿から名を削るときに使う刃だ。よく研いである。昨夜研いだ。
俺は申請書を手前に引いて、飼い主欄に刃を当てた。
ガレン・ロッタ。
削った。
墨で消してはいけない。読めてしまうから。紙の繊維ごと持っていって、そこに何も書かれていなかったことにする。三年、俺は毎日この動作で人の名前を消してきた。同じ手つきだった。角度も、力の入れ方も、三年前から一度も変えていない。
削り屑が小皿に落ちた。
俺はペンを取って、空いた欄に書いた。
クルト・レン。
「おい」
バルドが立っていた。
「規則にはない」と俺は言った。
「前例もない」
「禁じてもいない。第二条は飼い主の資格を定めていない。人籍者で、養う意思と能力があればいい。俺には両方ある」
「お前、自分の家に何頭置くつもりだ」
「二頭です」
バルドは俺を見ていた。長かった。
それから、茶を淹れに行った。五杯目だった。まだ二件目の途中だったから、数え方が合っていなかった。
それがこの男の答えだった。
◇
昼過ぎに、ガレンが来た。
立ち会いに来たのだ。飼い主は転換に立ち会う。それも法だ。
俺は黙って書類を渡した。
ガレンは飼い主欄を見た。削り跡に指を当てた。爪のきれいな指だった。
「削りましたね」
「削った」
「規則にありますか」
「禁じてもいない」
「そうでしょうね」ガレンはうなずいた。
「そういう法なんです」
怒鳴ると思っていた。訴えると言うと思っていた。男は書類を机に戻して、袖の埃を払っただけだった。
「訴えないのか」
「訴えて、私に何が入りますか。牛は一頭でしょう」ガレンは言った。
「あなたは一頭取った。私は一頭探す。手間は三日ぶんです」
俺は何も言えなかった。
「証人欄、ヴェラさんですね」
紙の上のほうを、男は顎で示した。
「あの人はうちの筋向かいです。息子さんが十九で、去年から仕事が途切れている。判を押しに来られるということは、まだ人籍だということだ」
俺は立ち上がりかけて、やめた。
やめた理由は自分でわかった。立ち上がったところで、この男は法を破っていない。
証人欄を埋めろと言ったのは俺だ。三日以内に埋めてこいと言った。あれは受理を遅らせるために、俺が自分の都合で足した工程だった。埋めた名前が、今この男の手の中にある。
「もう帰れ」と俺は言った。
「あんたの立ち会いは要らない」
「控えをいただいて帰ります」ガレンは言った。
「削られた書類は、元の署名者が控えを取れることになっています。細則の三十二です。今日中に出ますね」
「……出る」
「では、待ちます」
男は壁際の椅子に座って、膝の上で手を組んだ。
「吏の方」
「なんだ」
「私は損をしないんですよ。一度も」
◇
窓が西にひとつ。午後の光が斜めに入って、台の左半分だけ明るい。昼前は灯を落とす部屋だが、この時刻だけは灯がいらない。
ミレが上がった。明るいほうに立っていた。俺は暗いほうから見ていた。
バルドは台の右、戸口寄りに立った。ガレンは壁際の椅子に座ったままだった。付き添いはたいてい二手に分かれる。近いほうが泣く側で、遠いほうが数えている側だ。
今日は、泣く側に誰もいなかった。
俺は書類を読み上げた。
「ミレ・アーレン。汝は人籍を返上した」
ここまでは書類でも足りる。
足りないのはこの先だ。
俺は口を開けた。開けたまま、声が出なかった。
喉が動かない。三年、日に何度も出してきた四文字だ。ヨナスにも言った。四百人に言った。数えたことはないが、四百は超えている。
沈黙が長くなった。
バルドが咳をした。壁の向こうで誰かが荷を下ろす音がした。西の窓の光が、台の上を一寸ばかり動いた。壁際で、ガレンは動かなかった。膝の上で手を組んだまま、俺の口を見ていた。
ミレが俺を見ていた。逸らさなかった。
娘は台の上で、手を体の前で組んでいた。申請に来た日と同じ組み方だった。
その手が、解けた。
右の指が左の袖口を掴んで、そこで止まった。布に皺が寄って、指の節が白くなった。娘は自分の手を見なかった。俺も、見なかったことにした。
それから、組み直した。
「言ってください」
息を吸う音が、わずかに早かった。息継ぎの位置まで決めてきた喋り方をする娘の、そこだけが決まっていなかった。
「あなたが言わないと、私は行けません」
俺は息を吸った。
「牛になれ」
◇
背骨が鳴った。
順番がある。まず背が伸びて、それから膝が逆を向く。指はいちばん最後だ。
指が減っていくとき、人はたいてい自分の手を見ようとする。
ミレは見なかった。
最後まで、俺の顔を見ていた。
俺も逸らさなかった。逸らす資格が、この一件については俺にはなかった。
終わって、台の上に牛が一頭。立てずにいる。産まれたてと同じで、最初は誰も立てない。
縄は掛けなかった。
待った。一度目は膝が滑った。溝に蹄が引っかかって、二度目で半分立って、三度目で立った。
壁際で椅子が鳴った。
「三度目でしたね」とガレンが言った。
俺は振り返った。
「うちの三頭は、二度目で立ちました。立つのが早い牛ほど、長く保ちます」
男は机の控えを取って、袖に入れた。それから台の上を見た。値踏みではなかった。もう自分のものではない紙を、確かめただけの目だった。
「二頭になりましたね。飼い葉が倍です」
「出ていけ」
「はい」
男は言われたとおりに出ていった。戸を静かに閉めた。閉め方まで、法に触れないようにできていた。
俺は牛籍簿に番号を書いた。
五一〇号。
書いてから、この番号を家で使うことはないだろうな、と思った。
◇
その足で南通りへ行った。
ティナが戸口に立っていた。待っていた顔だった。ロウは姉の後ろから、俺の襟の徽章を見上げていた。
「姉ちゃんは」
「うちにいる」
女の子はしばらく俺を見ていた。それから奥へ入って、布の包みをひとつ持って戻ってきた。それだけだった。九年ぶんの荷物が、片手に載った。
「ロウの分は」
「これに入ってます」
戸を閉めるとき、ティナは家の中を振り返らなかった。
坂の途中でロウが遅れた。抱えて歩いた。子供は牛より軽い。
家に着いて、竈に火を入れた。
「右から入れろ」と俺は言った。
「うちのは癖がある。左からやると煙が返る」
ティナは黙って見ていた。返事はしなかった。
◇
翌朝、俺は藁を二種類刻んだ。
三寸と、五寸。母は歯が弱い。ミレは丈夫だ。同じ桶に入れるわけにいかないので、桶をもうひとつ買ってきた。買ったといっても古物屋で、縁が少し欠けている。
台所には子供が二人いた。
ティナが竈の前にしゃがんで、火の面倒を見ていた。うちの竈は癖があって、右から薪を入れないと煙が返る。昨夜、一度だけ教えた。それきりだ。ロウは机の下で、俺の削り屑の小皿を勝手に持ち出して、屑を並べて遊んでいた。取り上げようとして、やめた。
机の上には、昨日受理した申請書がある。
ヨルン・ハーヴェ。十九。理由欄は「母の税を払うため」。飼い主欄はガレン・ロッタ。証人欄も埋まっている。ヴェラの息子だ。書類に不備はひとつもない。
昨日、俺は判を押した。押すか押さないかを迷ったのは、三十を数えるあいだだけだった。差し戻す理由がなかった。作れば、今度こそ規則違反はこちらになる。
◇
牛の間の戸を引いた。
二頭いる。
狭い。壁際に藁を積んでいた場所を空けて、ようやく並んだ。母が奥で、ミレが手前だ。灯を掛けると、影が二つ壁に伸びた。
「食え」
二つの桶に落とす。五寸と、三寸。
ミレのほうが早く食い終わった。
それから、桶の縁を打った。
コツ、コツ、コツ。
三つ。
俺は藁を持ったまま、手を止めた。
止めたまま、待った。
間があった。
コツ、コツコツ、コツ。
「聞こえてる」と俺は言った。
ミレが顔を上げた。黒くて濡れた、底の見えない目だ。俺はまだこの目に慣れない。たぶん、ずっと慣れない。慣れたら、藁を足すのが早くなる。
奥で、母が動いた。
コツ、コツ、コツ。
母も打った。
二頭が、同じ数を打っていた。
◇
支度をして、戸口に立った。
外はまだ暗い。坂の上のほうで、もう荷車が動く音がしている。今日も誰かが牛を借りて、誰かが牛を貸す。冬税まであと四日で、この町には払えない家がまだいくつもある。
三日後に、母の役牛賃が口座に入る。来月からはミレの分も入る。合わせて千百二十。飼い葉は二頭で月に百六十。子供が二人増えても、俺の暮らしは去年より楽になる。
そこまで数えて、数え方に気づいた。
稼ぎから飼い葉を引く。差し引きで残る。ガレンとまったく同じ順序で、俺は自分の口座を数えていた。
やめられなかった。口の中で、最後まで数えた。
俺は今日、何人かにあの四文字を言う。
言わなければ、その人たちは滞納で強制的に移される。言えば、飼い主欄に誰の名前が入るかで、その家の子供の行き先が決まる。俺にできるのは、名前を削って書き直すことだけだ。それは制度を変えることではない。一件ずつ、遅らせているだけだ。一件遅らせれば、別の一件が三日で埋まる。
それでも俺は、削る側にいる。
台所でティナが鍋を掻き回していた。振り返らなかった。
「行ってくる」
牛の間から、音がした。
母が三つ打った。
ミレが四つ返した。
俺は戸を閉めて、転換所へ歩いた。
(了)
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