マルグリット・レミグレス小侯爵夫人の死
その報告書が王太女執務室へ届けられたのは、初夏の陽光が城内を明るく照らしている昼下がりのことだった。
レストニア王国王太女ローデリカ・レストニアは、次に控えている会議の資料へ目を通していた手を止めた。机の上には既に処理を終えた書類が幾つも積まれており、その量だけでも彼女が担う責務の重さを物語っていた。
領地経営に関する報告書。税収に関する申請書。法改正に伴う確認事項の書類。王都の治安状況に関しての騎士団からの報告書。貴族家同士の係争、その他。
王太女という立場上、日々届けられる報告書は数え切れない。その全てが重要であり、目を通さなければならない。この一つ一つが民の生活に関わることで、疎かにできるはずもなかった。
だから本来ならば、今届けられた一通も同じように処理されるはずだった。
しかし、封蝋に刻まれた紋章を見た瞬間、ローデリカは自然と手を止めていた。
王家直属調査局から届けられたそれは厚みこそ薄かったが、その中身は重かった。
件名には、ゴールディ伯爵家及びレミグレス侯爵家に関する最終報告と記されている。
ローデリカはしばらくそれを見つめた後、静かに会議資料を閉じた。
窓の外では噴水が水を吹き上げている。色鮮やかな花々が風に揺れ、庭師たちが丹念に手入れを行っていた。
なんて平和なのだろうか。だからこそ、その報告書の重みが際立っていた。
長年続いていた一件が終わりを迎えるのだと、まだ中身を見てもいないのに理解してしまったのである。
封を切り中身を取り出すと数枚の紙を捲った。書かれた文字は流暢で、そして感情の一切を排除した事実のみが羅列されていた。
全てをあまさず読み終えた後、ローデリカは深い息を吐いた。
予想通りの結論に驚きはない。
ゴールディ伯爵代理、爵位剥奪。
財産没収。平民の愛人及び愛人の娘、死刑に相当。
レミグレス侯爵、子爵に降爵。
侯爵令息、処罰に相当。
平民出身の愛人、産後に死刑に相当。
その他関係者多数、処罰に相当。
王国貴族社会の水面下で長年に渡り存在し続けた問題は、最も重い形で決着がつけられるのだろう。最終的に承認を出すのは国王である父だが、この時点でほぼ確定事項である。
その報告書を机へ置いた時、ローデリカの脳裏へ浮かんだのは、一人の女性の姿だった。
マルグリット・ゴールディ。後にレミグレス侯爵令息夫人となった女性。
そして今は亡き女性。
扉が三度叩かれた。入室を求める音の後、少しして開けられた扉。
「ローデリカ」
「いらっしゃい。入っていいわ」
入室してきたのは夫であるレグニスだった。
灰銀色の髪と緑の瞳を持つ彼は、いつものように穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄る。そしてローデリカの表情を見て、何かを察したように机上の報告書へ視線を落とした。
「終わりましたか」
「ええ」
短い返答だけで十分だった。彼もまた、この件を知る人間の一人であった。
「そうですか」
静かな声には喜びもなければ驚きもなかった。ただ長い物語が終わったことを受け入れるような声だった。
ローデリカは再び窓の外へ目を向ける。外は明るく、陽の光が眩い。
自然と、過去の記憶を辿っていた。
マルグリットを初めて見たのは随分昔のことだ。
当時の彼女はまだ幼く、社交界へ出始めたばかりだった。淡い栗色の髪を持つ大人しい少女で、礼儀作法は完璧だったと記憶している。
もっとも、彼女について語られる時、その人柄が話題になることは少なかったように思う。
誰もがまず家の事情を口にしたからである。母親の死、葬儀を終えた夜に父親が引き入れた愛人とその愛人の娘。
そして正妻の娘であるマルグリットへの冷遇。
それは貴族社会では決して珍しくない話だった。愛人を囲う貴族は存在する。家族関係が歪んでいる家も存在する。ローデリカは好ましいとは思わなかったが、暗黙の了解で悪しき慣習は残り続けていた。
だから本来ならば、ただそれだけの話で終わったはずだった。だがゴールディ伯爵家には、一つだけ決定的な他家とは異なる事情があった。
血の正統性である。
ゴールディ伯爵家は、亡き伯爵夫人の血筋によってその地位を保っていた。つまり、夫人の娘であるマルグリットこそが正統な後継者であり、最も大切に扱われるべき存在だったのである。
代理でしかないにもかかわらず、父親は伯爵を名乗り、愛人親子を優遇した。
彼らは周囲の忠告を無視した。近しい貴族たちも幾度となく苦言を呈した。正当な後継者はマルグリットなのだと告げたが聞き入れなかった。
当然ながら王家も警戒した。血の正統性を軽んじることは貴族社会の根幹を揺るがすことだからだ。
しかし結局、誰も決定的な介入は出来なかった。何故ならば、マルグリット本人が何も訴えなかったからである。
一度たりとも、本当に一度たりとも誰にも助けを求めなかった。せめて一言でも救済を願えば良かったのに。
故に、王家は監視しか出来なかった。目に見える証拠がなければ介入は出来ない。本人の意思を無視することも出来ない。
命の危険が確認されれば別だったが、当時の状況では踏み込むだけの理由がなかったのである。
それはレミグレス侯爵家へ嫁いだ後も同じだった。いや、むしろ状況は悪化した。
夫には平民出身の愛人がいた。身分差を理由に結婚が出来なかった為、真実をまともに知ろうとすることもなく、マルグリットが家族から冷遇されていることだけを知って彼女を求めた。お飾りの妻にするために。
同じ派閥であればゴールディ伯爵家の事情を理解して手を出すことはしなかっただろう。所詮、伯爵代理はマルグリットが成人すれば役目を果たして解任となるのだから。マルグリットが伯爵になるはずだった。
それなのに、それより前にマルグリットは金と引き換えに売り払われた。王家が気付いた時には既に婚姻は果たされていた。
レミグレス侯爵家へ嫁いだ以上、将来生まれる子の一人がゴールディ伯爵家を継げば問題はない。担当者はそう判断したのかもしれない。
今となってはどうしようもないことだが。
平民の愛人は正妻を敵視した。本来妻の座は己のものだったのに、と。
夫はそれを止めなかった。お前など所詮はお飾りでしかない。子供は愛人との間に生まれた子のみ。お前との間に子など作るものか、と言って。
誰が見ても異常であり、不幸だった。侯爵夫妻も美人では無いマルグリットが大人しいことを良いことに冷遇した。
愛人は平民だったが顔は良かったし愛想も良かった。足りないのは身分だけだったので、侯爵家の人間たちはマルグリットを利用して愛人を優遇することに罪悪感など抱かなかった。
そうして侯爵家全体が愛人を大切にし、正妻であるマルグリットを虐げ続けたのである。
そんな状況なのにマルグリットは逃げなかった。
高位貴族夫人たちが手を差し伸べても、王妃が遠回しに救済の道を示しても、マルグリットは穏やかな表情を崩さなかった。
次第に社交界では陰口も囁かれ始めた。悲劇のヒロイン気取り、不幸に酔っている女、可哀想な自分が好きなのだろう、と。
そんな言葉をローデリカも聞いたことがある。正直に言えば、当時は否定しきれなかった。
ローデリカにはマルグリットが理解できなかったのである。
何故そこまで耐えるのか、何故助けを求めないのか、何故黙り続けるのか。
ローデリカがどれほど考えても答えは出なかった。
しかし今になってようやく分かったのだ。何故彼女は沈黙し続けたのか。彼女の事情を声高に広める者はいないが、それでも知っている者が多い中で注目を浴び続けたのか。
「ねぇレグニス」
「はい」
「マルグリットが亡くなった時期を覚えているかしら」
「レミグレス侯爵令息の愛人が出産直前でしたね」
「そう。そして異母妹の結婚式直前でもあった」
そこで言葉を切った後、レグニスは口元に指を寄せて眉間に皺を寄せた。
伯爵代理は愛人親子へ完全に傾倒していた。侯爵家も同様に愛人を大事にしていた。誰もが幸福の絶頂にいると思っていた時期。何もかもが順調に進んでいると思っていた時期。
ゴールディ家の正統な血筋はマルグリットしかいなかった。つまり、彼女が死ねばどうなるか。そんなのは分かりきっているではないか。
レミグレス侯爵家にはその時点で子供は生まれていない。愛人が子供を産んだ後ならば、マルグリットの子供だと偽れたかもしれないが、その前なのでマルグリットの血を継ぐ者がいないのは明白だった。
王家は名目を得て動くことが出来るようになった。
徹底的な調査が行われ、家の正統性が問われる。
過去の問題が全て掘り返され、言い逃れは出来なかった。隠蔽も許されない。
そう、誰も逃げられなくなっていた。
ゴールディ伯爵家は、代理でしか無かったのに伯爵を名乗った父と貴族でもないのに貴族を名乗った愛人親子。しかも、そのことを知ってか知らないか、ゴールディ伯爵家の事情を知らない令息と結婚しようとしたのだ。これに関しては貴族院に婚姻の申請を出したら露呈しただろうが。
そこまで考えた時、ローデリカは思わず笑い声を上げていた。
見事だ。あまりにも見事だったのである。
周囲はずっとマルグリットを勘違いしていた。
悲劇のヒロイン、不幸な令嬢、哀れな被害者。そう思われたいとマルグリットが演じているとすら思っていた。皆がそう思い込んでいた。
けれど実際には違った。マルグリットは耐えていたのではない。
待っていたのだ。最も効果的な瞬間を、最も多くを巻き込める瞬間を、誰一人として逃がさない瞬間を。幸福の瞬間を絶望に変え、地の底に叩き落とすために。
彼女はずっと、ずっと静かに牙を隠して待ち続けていた。
そして自らの死を利用して己を虐げた全てを地獄へ道連れにしたのである。
剣を振るったわけでも、毒を盛ったわけでも、誰かを殺したわけでもない。
ただ己の人生そのものを復讐の道具に仕立てあげたのだ。
本来ならば未来を夢見て、明るい日々を送るはずだった十年以上の年月をかけて、彼女は茨の道を選んだのだ。
自らが傷付いても構わないと、不幸の中に身を置きながら、誰一人逃がさないためだけにマルグリットはその日を待ち続けた。
「意外と恐ろしい女性だったのですね」
「いいえ」
レグニスが苦笑混じりに呟いたけれどローデリカは首を横へ振った。
窓の向こうでは風が木々を揺らしている。
穏やかな昼下がりだった。
その景色を見ながら、ローデリカはかつて社交界の片隅で静かに立っていた少女を思い出す。誰もが哀れんだ少女。誰もが理解したつもりになっていた少女。
しかし誰一人、その本質を見抜けなかった少女。
悲劇のヒロイン、彼女をそう呼ぶ者もいたし、不幸に酔う愚かな女だと笑う者もいた。
だが、それら全てを含めて彼女の計算だったのかもしれない。
彼女が王宮で行われた舞踏会で、夫である侯爵令息を怒らせたのか突き飛ばされ、そこにあったテーブルに頭を強かに打ち付けて死亡したのですら計算だったように思う。
マルグリットは人を宥めることはしても煽ることはしないのに、あの日は違っていた。
それに、都合よくテーブルの近くに立っていたのも不思議な話だ。彼女は壁の前に立っていることが普通だったのに。
痩せ細った体は踏ん張ることも出来なかっただろう。男性の力で突き飛ばされ、そして多くの証人がいる中で夫人を殺害した夫は当然拘束された。
あの時は誰も疑わなかったし、状況的にも頭部打撲による死亡であったことに疑いはない。だが今となっては、仮にあの事故が起こらなかったとしても、彼女は別の方法で死んでいたのではないかと思えてしまう。それほどまでに、あの日の死は彼女にとって必要なものだった。
マルグリットがあの日あの時、多くの証人、それも王族たちの目前で命を落としたという事実だけは揺るがない。
誰も逃がさず、誰にも言い訳を許さず、自らの死さえ利用して復讐を成し遂げた。ならば彼女は哀れな被害者などではない。最後に勝利した者と言えるだろう。
ローデリカは静かに目を閉じる。そして王太女として、一人の女性へ敬意を捧げた。
――見事な勝利よ、マルグリット。
復讐譚かどうかはローデリカの推測でしかありません。
語るべきマルグリットは死んでいるからです。
ただ、マルグリットの母の死には不審なところがありました。
マルグリットはそれを知っていました。
※追記
活動報告に追記しました。
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