読切短編 助けてください
非常ボタンを押した指が、まだ震えていた。
「助けてください。エレベーターに閉じ込められています」
スピーカーの向こうで声がした。「確認します。まもなく対応しますのでお待ちください」
まもなく、とはどのくらいか。三十分か。一時間か。男は壁に背をつけ、床に滑り落ちた。
助けてください、と男はもう一度口の中で繰り返した。
——そういえば、何を助けてほしいのか。
エレベーターのことは、もちろんそうだ。だが待て。本当にそれだけか。
男は今朝、課長に呼ばれた。「例の件、どうする気だ」例の件とは何か。男にはいくつも心当たりがあった。多すぎて絞れなかった。
助けてください。
妻が先月から実家に帰っている。理由は言われた。「あなたと話していると、自分が空っぽになる気がする」と。言われたが、男には腑に落ちない部分があった。腑に落ちないのに、うまく反論できなかった。反論の言葉が、途中でいつも霧になった。
助けてください。
三十四歳。このエレベーターに乗ったのは十四階のコンビニにコーヒーを買いに行った帰りだった。コーヒーはまだ温かい。温かいのに、それを飲みたい理由が見つからなかった。缶の表面が、手のひらの熱で汗ばんでいた。
男は缶を見つめた。
このコーヒーを誰のために買ったのか、一瞬わからなくなった。自分のためだ。当然そうだ。では自分は、何をしている人間なのか。会社員。夫——いや、今は違うかもしれない。息子。それは確かだ。だが、両親とは三年会っていない。
助けてください、と男は声に出した。今度はスピーカーに向けてではなく、ただ空気に向けて。
言葉は四方の壁に吸われ、消えた。
密室というのは不思議なものだと男は思った。外に出られないのではなく、この中に在り続けることを、どこかで選んでいるような気がしてくる。それが錯覚だとわかっていても、そこから抜けられない。
ガコン、と音がして、扉が開いた。
作業服の男が立っていた。「大丈夫でしたか?」
男は立ち上がった。コーヒー缶を握ったまま、開いた扉の向こうの廊下を見た。蛍光灯が白く、見慣れたはずなのに、どこか遠い場所のように見えた。
「……わかりません」
作業員は一瞬だけ表情を止めた。そして少し間を置いて、「そうですか」とだけ言い、脇に避けた。
男は廊下へ踏み出した。コーヒーはまだ、わずかに温かかった。それが救いなのかどうかも、わからなかった。




