2話 フェリム・コナーは落下した
教科書を読んでも訳が分からないなんてことがあるだろうか?ある。実例はイサギ自身である。
放課後、情けをかけてくれた友人たちに教えてもらった時は分かった気がしたのに、何故家に帰って来ていざ復習しようとすると忘れるのか?
メモを取っていないからか?二十九回目だし、さすがに忘れないだろうという怠慢でメモを取らなかったせいなのか?ついに追試は明日だというのに?
イサギは机に突っ伏した。義務初等学校に入学した時に買ってもらってからずっと使いっぱなしの古びた学習机は、イサギの可哀想な頭を優しく受け止めてくれた。丸めて放った、召喚魔法陣が書かれた紙を使って。
やはり、頼るしかないのか。イサギは机の隅に詰んだ漫画本の影に置いていた魔導書を手に取った。あのよく分からない商売人から渡されたものだ。あの日、放課後家に持って帰ったはいいものの、やはり怪しくて、一度も開かずに放っていた。改めて見ても、怪しいことこの上ない。
だが、もうこれしか救いが無い。イサギは表紙を撫でた。皮で作っているのか、摩擦を感じる。それ以外は特筆すべきところはない。落ち着かず、無意味に辺りを見回してから、イサギは表紙の端を摘み、ゆっくりと開いた。
「……え?」
そこには、分厚いページたちに埋め込まれるようにして、鏡があった。
「……は?」
違う。鏡ではない。確かに顔が反射して写っているが、その向こうには、何かの景色がある。これは鏡ではなく、窓だ。
「ちょ、え、待って、待って待って待って──!!」
そして窓が光る。光はイサギを飲み込んで消えた。イサギの影は、その部屋のどこにも無かった。
ではどこにあったのか。
ほんの少し前、イサギは光の洪水に飲まれ、目を瞑った。浮遊感があって、次に重力が身体に叩き込まれる。蓮沼イサギとして生きた人生が終わる直前に感じたものとよく似ている。
死ぬのか。また死ぬのか。今度は交通事故ではなく、詐欺に騙されて!情けなくて涙が出そうだった。
ドンッ!と音と同時に身体に痛みが走る。想定していたものより軽い痛みだが、痛いことには変わりない。目を瞑ったまま、イサギは「いってぇッ!!」と叫んだ。
どこかに落ちたらしい。部屋の床か?それにしては痛い。母に押し付けられたふわふわクッションがそこら中に落ちていたはずだが。
「いっ、てぇ……」
イサギは床に手をついて上半身を起こした。側頭部と左肩を特に強く打ったらしい。手を当てながら頭を振り、目を開ける。まず目に写ったのは、見知らぬ床だ。違う、知ってる。知ってるけど知らない。というか、ここにあるのは有り得ない。
イサギは床を撫でた。編み目に沿ったざらりとした感触、草の匂い。これは畳だ。あの西洋風の魔法の世界には無かった、地球の日本のものだ。
まさか地球に戻ってきた?
だが手も、視界の端に映る髪も、「フェリム・コナー」のものだ。そろりと視線を上げる。二メートルも無いような離れた位置に、青年が一人尻もちをついている。彼は学ランを着ており、焦げ茶色の髪をしていて、平凡そうに見えるのに、その目だけはコスプレ用のカラーコンタクトを入れたみたいに真っ赤だった。
青年はイサギを指さし、「う、あ……あ……」と呻き声にも似た声を漏らしている。イサギも「お、あ……あ……」と声を漏らし、どうすればいいかを急いで考えた。だが答えが出ない。気が動転していて、そもそも考えが上手くまとまらない。「1+1」=「田んぼの田」でいいんだっけ?
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふふふ、ふ、ふふ……」
青年が「ふ」を唱え始めた。笑おうとしているのだろうか。イサギも「あ、あは……」と無理矢理にでも笑顔を作ろうとした。
青年がポケットから何かを取り出して叫んだ。
「不法侵入!?警察ッ!?」
「待って待って待て待て待てェッ!!」
イサギは這うようにして青年の足を掴んだ。
「ぎぇぁっ!!怪異ィッ!?」
「違う!!違うから!!よく見て!!こんな美少女の怪異いたらやばいだろ!?」
「悪魔!?」
「違う!!」
青年はポケットから出したものを震える手で操作している。あれは間違いなくスマートフォンだ。ということは、警察に通報されてしまう。咄嗟の判断で、イサギは浮遊魔法を使った。スマートフォンを浮遊させ、自分の手もとに引き寄せる。青年が「きぇぇっ!?」と奇声を発したが、イサギは彼のスマートフォンを抱きしめたまま、畳の上を転がって距離を取った。青年は怒りで小刻みに震える指先をびしりとイサギに向け怒鳴る。
「この悪魔!!現代人からスマホを奪いやがって!!」
「頼むから話を聞いて!!」
イサギは正座をし、スマートフォンを胸の前で片手で持ち上げる。
「そうじゃないと、これ壊すから!!」
「やめろぉぉぉ!!最新のオレンジのスマホなのに!!」
青年も正座して、「聞くから返してぇ……」と情けない声を上げて、畳みに額を擦り付けた。このスマートフォンが大事なことがよく伝わってくる。だがイサギはそんなことよりも、気になることがあった。
「……は?オレンジ?」
恐る恐るスマートフォンの裏を見る。オレンジのマークがついている。あの柑橘類のオレンジだ。間違いない。掠れた小さな声で、イサギは呟いた。
「え……林檎のマークじゃねぇの……?」
オレンジのスマートフォンって何だ。聞いたことが無い。カメラレンズもおかしい。三つついてるのがスタンダードになりつつあるのに、一つだ。ホームボタンまである。「最新の」と彼は言っていたのに。
現実逃避するように、辺りに目を向ける。壁に掛けられたカレンダーには、「皐月」と書かれている。四月とはどこにも書かれていない。二十三日のところに「独立の日」と、知らない祝日まで記載されている。西暦も和暦も無い。東歴二〇二六年とある。
知らない。こんな日本、知らない。
イサギの様子がおかしいことに青年が気づく。彼は顔を上げ、畳の痕が残る額を晒す。口を数秒もごもごさせた後、彼は意を決してイサギに話しかけた。
「どうかしたんですか」
イサギは青年を見た。どこにでもいそうな容姿なのに、目だけが赤い。
その特徴を、イサギはどこかで知っていなかったか?
その瞬間、先ほどの事がイサギの脳に蘇った。
『不法侵入!?警察ッ!?』
『待って待って待て待て待てェッ!!』
『ぎぇぁっ!!怪異ィッ!?』
『違う!!違うから!!よく見て!!こんな美少女の怪異いたらやばいだろ!?』
『悪魔!?』
『違う!!』
あの会話。あの“シーン”を、イサギは随分前に読んでいる。もし記憶が間違いでなければ、次に青年はこう続けるだろう──頭打って、気がおかしくなりました?
「頭打って、気がおかしくなりました?」
「違うわ!!」
同じだ。今、イサギが反射的に言ってしまった言葉も同じだ。
イサギは頭を抱えた。来てしまったのだ。「不思議解決部シリーズ」の記念すべき第一作目、「不思議解決部には魔法使いがいる」に!
「おい、大丈夫か?」
青年の声が聞こえるが、それどころではない。推しに転生してしまっただけでもアウトなのに、原作に来たとか有り得ない。神様、お前の趣味最悪だぜ。
正直言って、フェリムが初登場したシーンは何度も読み直したからここまで言動を覚えているが、それ以降に関しては、流れは覚えていても一言一句覚えているわけではない。児童文学とはいっても、小説は小説。文字数がある。蓮沼イサギとして生きていた頃、古典の授業で那須与一を暗唱させられたが、ちゃんと覚えられていたのは「よつぴいてひやうど放つ」くらいの人間の記憶力を舐めてもらっては困る。
──だが、人間とは希望を抱き続ける生き物である。イサギもまた人間だった。
「……聞いても、いいか」
イサギは青年を見た。
「ここは、どこだ」
イサギの勘違いであってほしい。ここまでたまたま、そう、偶然にも「不思議解決部には魔法使いがいる」と同じ言動になってしまっただけであってほしい。ただでさえ、フェリムに転生してしまってイサギの精神はボロボロなのだから。
イサギの視線は青年から離れない。青年は深呼吸をしてから口を開いた。
「ここは、ミズホ。大陸の東にある国、ミズホだ」
青年は居住まいを正した。
「そして俺は、ロン。ロン・フジミヤだ」
あ、終わった。イサギはもう逃避できなかった。
ここは間違いなく、あの作品の世界だ。「不思議解決部シリーズ」の主人公の名前は、ロン・フジミヤだ。
この目の前の青年が主人公で、その相棒が「フェリム・コナー」というキャラクターだった。イサギは受け入れなければならない。
原作は始まってしまったのだ。だからイサギは言わねばならない。フェリムのセリフを。
「……僕は、フェリム・コナー」
乾いていた唇を湿らせ、セリフを続ける。
「どうやら、別の世界から来てしまったらしい」
完璧だ。だがこれ以降は自信が無い。どうにか流れだけは変えないようにしないといけない。
ロンはぽかんと口を開き、イサギをよく見る。
「別の、世界……」
「そう。あんたも見ただろ?僕は何も無いところから落ちてきたはずたぜ」
「あ、ああ。もしかして、さっきスマホが勝手に動いたのって、魔法?」
「そうだよ。この世界には無ぇの?」
「おとぎ話の中には、一応……」
そう。この世界には魔法が無い。だからこそ魔法を使えるフェリムは異質で、作品の面白さの一つだった。
「ふぅーん。で、信じてくれんの?」
「あんなの見せられたら、さすがにな……。それに──……」
そこでロンは言い淀んだ。確かこの後は、フェリムが彼に何かあったのかを尋ねるはずだ。
「何だよ、途中で止まって。何かあんのか?」
「……いや……。その……実は……」
ロンが唾を飲み込む。彼は膝の上で拳を握った。
「俺の通う高校で、変なことが起こるんだよ。……魔法としか思えないような。だから、信じるしかねぇのかな、って」
イサギは眉を顰めて見せた。
「ここは魔法が無い世界なんだろ?魔法としか思えない変なことって何だよ」
「俺、話上手くないけど、聞いてくれるか?」
「聞いてやる」
ロンはイサギを三秒ほど見ると、「……ありがとう」と言ってから、話し始めた。
ロンの通う学校の名前は公立東ワダツミ高等学校だ。ワダツミとは、日本語でいうところの海神とおそらく同じ意味だ。実際、作品内では海が近くにある設定だった。東ワダ高とも略されるそこは、普通の高校なのだが、ここ数日、そこにいる時だけロンに変なことが起こるようになった。目の前にあったはずのボールペンが消えたり、確かに買ってきたはずのコンビニ弁当が袋から消えていたり、髪を引っ張られるような感覚があって振り返ってみるも誰もいなかったり。という悪いことが続いたかと思えば、何も無いところから購買のパンが落ちてきたり、消えたはずのボールペンが何故か二本になって戻ってきたりという良いこともある。
話しながら、ロンはだんだん猫背になっていった。いくら魔法のある世界から来たといっても、こんな話は信じてくれないだろうと自信を失っていってるのだ。
「──ということがあったわけだ。……信じてくれるか?」
「信じないわけがないだろ」
ロンは赤い目を見開く。それはカラコンなどではなく、彼自身が生まれ持った色だ。
「僕をその学校に連れて行け。どうにかする」
「え!?で、できんのか!?」
「できる。こう見えても僕は──」
ここのセリフはちゃんと覚えてる。ウインクもつけて、よし!
「栄えある王立魔法学校の生徒だからな!」
追試二十九回目を目前に異世界に来てしまった落ちこぼれ、ということは伏せておく。原作に無いことを言えるか。二次創作が公式面するようなものだ。
「あー……よく、分かんねぇけど」
ロンははにかみんだあと、頭をきっちりと下げた。
「頼む。どうにかしてくれ」
イサギは大きく頷いた。
「任せとけ!」
こちとら歩くネタバレマシーンだ。




