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12:30 昼餉の章「時限付きの幸福」

 神楽殿かぐらでんの舞台板を雑巾で拭き終えたころ、境内の影は最短になり、陽射しは真上から真っ直ぐ落ちてきた。熱い――という感覚より先に、時間が溶ける音が聞こえる。砂時計の細い喉が灼けて、砂が一気に流れ出すような焦り。


 「沙羅ちゃん、お昼にしなさい」


 社務所の奥から宮司ぐうじの奥さんが顔を出した。麦わら帽子の縁に汗が滲み、首筋のタオルは絞れそうに濡れている。沙羅は白衣の袖で額を押さえ、笑って頷いた。


 「はい、今行きます」


 舞扇まいおうぎと鈴を箱へ収める。指が鈴の環を離れた途端、胸の奥で時計の針が跳ねた。あの音が遠ざかると、心拍が間延びする。あと十六時間余り。夜明けまでの残り時間を脳が即座に計算する癖が、朝から止まらない。


 社務所の座敷には、冷やし素麺と胡瓜の浅漬け、それに畑で採れたばかりのトマトが丸ごと置かれていた。氷水から引き上げた麺を竹皿に盛りつける最中、奥さんがふと手を止める。


 「今朝は顔色がよかったわねぇ。稽古、うまくいったの?」


 「……ええ。ちょっと、特別な日なんです」


 答えながら、竹箸で麺をすくう手がわずかに震えた。特別どころじゃない。一生のうち、今日しか存在しない日。沙羅は胡瓜の味噌をつけ過ぎないよう気を配りつつ、奥さんの視線の隙を突いてスマホを確認した。


 まだ通知はない。岳からのメッセージなど届くはずもないのに、手は自然と画面を滑らせる。タイムラインには都会の友人たちがランチの写真を並べていた。ステーキ、パスタ、抹茶パフェ。昼休みの退屈を埋める投稿が、今日だけは刃物のように鋭い。


 ──私の"退屈"は、もう二度と来ない。


 素麺をすすりながら、窓の外に視線を投げた。蝉の声が泡立つ暑さの中で、境内の大樹だけが深い影を作り、そこに午後の隙間風が通る。風鈴がひとつ鳴った。音色の高さが岳の笑い声を思い出させる。


 ほんの一時間前、風の便りのように届いたあの笑い。坂の下で交わした他愛ない会話は、沙羅にとって呼吸の代わりだった。短い吸気と短い吐気。その間で確かに彼は笑いかけてくれ、声も、視線も、温度の欠片さえ感じられた。


 ……でも、それは時限付きの幸福。


 麺つゆの表面に映る自分の顔が揺らぐ。そこには昨夜の祈祷で付きまとう煤の影、そして取り繕った笑みがある。岳との時間を得た対価として、日の出とともに自分が差し出すべき何かを、鏡面は無言で告げていた。


 「沙羅ちゃん、午後も稽古? 暑いから無理しちゃいけないよ」


 奥さんの気遣いに「ありがとうございます」と頭を下げながら、竹皿を片づける。素麺は喉を通ったのに、胃に届く感覚が薄い。時間を食べているだけのようだ。


 座敷を辞し、供物を片づけに拝殿へ回る。テーブルの上には早朝の参拝者が置いた菓子折り、お神酒、小玉西瓜。包装紙を整えながら、遠くの国道からクラクションが聞こえた。その周波数に、不意に岳の笑い声が重なって聞こえる幻聴。沙羅は肩を跳ねさせ、笑い出しそうになる。


 「バカみたい……」


 頬が緩む。拝殿の高欄に肘を突き、掌で口を覆って笑いを殺す。笑っていないと、泣いてしまうから。泣けばきっと、術式が揺らぐ。


 拝殿の奥の御簾みすの向こうから、微かな鈴の残響が返ってきた。昨夜の終わり際、「ただいま」と同時に鳴ったあの音。神様か、彼自身か。沙羅は目を閉じ、静かに耳を澄ませる。


 ──その声を、最後まで聴かせて。


 供物を運び終えた頃、スマホが震えた。通知は大学の同期からのグループチャット。"昼メシ行こうぜ" の誘い。返信を打ちかけて止める。彼らに会えば、東京の劇場の話が出る。来月の公演に穴をあけた理由を追及されるだろう。


 "ごめん。今日は稽古が詰まってて"


 ありきたりな嘘を落とし、既読がつく前に画面を消した。最大の嘘は、今日が"ある"こと自体だ。陽射しに焼かれる茅葺かやぶきの屋根を見上げ、汗をぬぐいながら息を整える。


 ――あと十五時間と少し。


 時計の針が進む音は聞こえないのに、胸の中で正確に刻まれる。岳がどこで何を食べているかを想像する。たぶん友達と駅前の喫茶店。鉄板のソースが焦げる匂いを浴びて、瞳を輝かせているはず。そう思うだけで、胃の奥が熱くなる。羨ましくて、嬉しくて、そして怖い。


 昼休憩が終わる。

 舞袴まいばかまの紐を締め直すたび、溢れる想いと切ない感触が細い縄のようにねじれ合い、腹の底で疼いた。時限付きの幸福。指の間から漏れる砂を、どうにかすくい上げようとする愚かな祈り。それでも祈らずにはいられない。


 庭先で水を打つ奥さんが「がんばってね」と声をかける。水面に空が反射し、眩しい青に自分の影が重なる。そこには岳の影は映らない。彼は午後の陽射しを別の場所で浴びている――それでいい。それが今日という奇跡の配分。


 沙羅は稽古場へ向かう廊下で、腰の鈴をそっと鳴らした。

 チリン。


 ひとつだけ、確かな音。

 その響きが、坂の向こうの喫茶店まで届きますように。

 届いたとき、彼が「なんだ今の?」と笑いますように。


 時間は減っていく。

 けれど音は、確かに世界を満たしていく。

 その満ち引きが今日という海をつくり、私たちを乗せてゆく。


 午後三時まで、あと九十七分。

 玉砂利の上を踏みしめ、沙羅は扇を握り直した。

続々公開していきたいと思いますので、ぜひフォローしてください。作品に一つでも星を付けていただけると本当に嬉しいです!

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