10:00 再会の章「声が、届く」
石段の最上段に立った瞬間、膝が笑った。
夜明けから四時間。舞殿で二度目の通しを終え、汗はもう信じられないほど塩を吹いている。白いワンピースの襟が肌に張りつき、心臓は脈をとばしたまま落ち着く気配がない。それでも今日は引き返さない。石段を下りれば "あの場所" に出る。
──あと一段。
裾をかすかに持ち上げながら足を踏み出す。視界の端で鳥居の朱が揺れ、朝陽が銀箔みたいに光っていた。息が浅くなる。頭の奥で、「失敗していたら」という無数の囁きが泡立ち、耳鳴りと絡まって爆ぜる。けれど次の瞬間、それは一斉に黙った。
坂の下に、岳が立っていた。
自転車のハンドルを握り、寝癖だらけの黒髪を朝日に透かしている。Tシャツの白が眩しくて、視界が白飛びする。脳が強制的にピントを合わせ直すと、彼の輪郭だけが強調され、そのほかのすべてが遠景になった。
──本当に、呼べたんだ。
胸の奥で何かがほどけ、同時にとめどなく締めつけられる。石段を下る足が一瞬もつれた。転びそうになり、慌ててワンピースの裾を掴む。こんなところで膝を割ったら、残りの時間が台無しになる。息を整えろ、沙羅。舞姫の顔に戻れ。
「……久しぶり、岳くん」
震える声帯を必死に抑え、薄い笑顔を貼りつける。声が届いたと確信した直後、彼が目を丸くし、そして緩む。受け止めてくれた。言葉が、ちゃんと届いた。喉が焼けるほど嬉しいのに、外側ではただの再会の挨拶を演じる。
「沙羅?」
その名の呼び方。昔と同じ、優しい響き。肺の底に冷たい水が満ち、同時に火が灯る。抱きしめたい。どうしようもなく触れたい。けれど今触れたら、霧みたいにほどけてしまう気がした。だから笑う。袖口を握り、指の関節が軋むほど力を込めて堪える。
「稽古帰り? 朝から?」と岳。
「夜明けからだよ」と私は答えた。自分でも驚くほど平静を装えた。だが視界の奥で、彼の呼気がほんの少し白むのを見てしまう。夏の朝に霜みたいな吐息──理に合わない現象が、昨夜の神楽の影響を物語る。心臓が軋む音が、蝉のまだら鳴きより大きい。
岳は私の顔を、髪を、ワンピースの裾まで順番に視線でなぞった。昔と同じ、無闇に正直な目。そこに不安も疑念もない。私は生唾を飲み込み、視線をそらすかわりに簡単な説明を口にした。
「お盆の舞い手が急に欠けちゃって。代打みたいなもの」
──本当は欠けたのは"舞い手"ではないのだけど。
言葉を飲み込むたび、胸の奥の裂け目から潮が逆流してきそうだ。それでも会話を続ける。普通の夏休みの、偶然の再会として。この形を崩したら、術式の均衡も壊れる。
「岳くんこそ図書館?」
「うん、予約してた本をね」
もうすぐ帰らなければならないのに、のんびり読書なんて……と喉まで出かけたが飲み込む。限られた時間の中で、彼は日常を大切にしている。そんな彼らしさに胸が痛む。思考が危うい崖へ傾きかけ、私は鈴を指で弾いた。チリン──乾いた音が脳の靄を払う。
「午後、稽古するんだ。よかったら見に来て」
自分で言いながら吐息が震える。一秒でも長く、視界に留めていたいから誘うのではない。観客が一人でも多いほど神楽の舞は力を増す。最後の儀式へ向け、彼に"証人"でいてもらう必要がある。利己と使命が絡まり合い、声が嗄れる。
「行くよ。俺、そういうの見るの好きだし」
笑った。太陽より眩しい笑顔。昼間の空気が弾け、蝉が一斉に鳴きだした。まるで彼の返事を祝福するかのように。石段の影がひときわ濃くなり、時間が一拍飛ぶ感覚。その一瞬で私は、彼の輪郭が午後の日差しに薄く透けるのを見逃さなかった。
「じゃあ、またあとで」
別れ際、袖の中で拳を握る。触れたら壊れる。その恐怖と、触れられない絶望が同時に爪を立てる。せめて袖口が彼の腕にほんのり掠れた温度を記憶の最奥に刻む。足元の玉砂利が陽射しで白く光り、世界全体が露出オーバーになる。
──ありがとう、戻ってきてくれて。
心の中で呟いた。再び巡り合えたのは彼自身の想い。だとしても導いたのは私。責任も悦びもすべて背負って夜明けに見送る。その決意が腹の底で燃え、汗と一緒に滲み出る。
坂道を下る彼の背中が小さくなる。振り向かない。私も振り向かない。鈴を握る手がいつしか痺れていた。舞殿まで戻る足取りだけがやけに軽い。空は青を深め、蝉時雨が一段高いキーで鳴き始めた。
声は、届く。
だからこそ、明け方には必ず見送らなくては。
胸に鈴の音を押し当て、私は再び石段を駆け上がった。
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